帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(134)今日のみと春を思はぬ時だにも

2017-01-26 19:50:52 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、
この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

古今和歌集」 巻第二 春歌下134

 

亭子院歌合に、春の果ての歌         躬恒

今日のみと春を思はぬ時だにも 立つことやすき花のかげかは

亭子院歌合の為に詠んだ、春の果てという題の歌    みつね

(今日だけだと春の季節を思はない時でさえ、立ち去り易い花の影かは・いつまでも見とれて立ち去り難いものだなあ……京の身と・絶頂の身と、張るものを、思わない時でさえ、立つことや好き・絶つこと易き、おとこ花の陰かなあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「今日…けふ…きゃう…京…山ばの頂上…絶頂」「春…春情…張る」「立つ…立ち去る…起立する…絶つ…絶え尽きる」「やすき…安すき…易すき…八好き…多情に好きな」「花…木の花…男花…おとこ端」「かげ…影…姿かたち…陰…いんぶ…おとこ」「かは…反語の意を表す…疑問を表す」「は…感嘆・詠嘆を表す」。

 

今日で春は終りと思わない日でも、立ち去り易い花の影かは、立ち去り難いものだなあ。――歌の清げな姿。

絶頂の身と張るものを思わない時でさえ絶ったり、思わぬ時に起立したりしやすい、男の身の端なのか、なあゝ。――心におかしきところ。

 

立つべき時に一瞬にして絶ってしまい、唯の妄想でも立ち易い、おとこのはかなくも繊細なありさまを表現した。躬恒らしい歌である。

 

以上で、古今和歌集巻第二 春歌下の歌を聞き終えた。明日からは、巻第三夏歌に移る。この寒中に夏歌か!? と言われそうなので言い訳をする。

春歌は春の風情を「清げな姿」にして、それに付けて、人の心の様々なありさまを表出した歌であった。それは、「業(ごう)」とか「心におかしきところ」とか「煩悩」といわれていた。エロス(生の本能・性愛)とも言える心であった。夏歌も同じで、夏の風物は歌の「清げな姿」に過ぎないのである。歌の主旨や趣旨は、季節や時代に関係のない人の心の本音であり、その心が歌より聞こえる。人にとって、最も「あはれ」とか「をかし」と感じるのは、人のほんとうの心である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)