帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(123) 山ぶきはあやなゝ咲きそ花みんと

2017-01-13 19:02:35 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下123

 

(題しらず)                 (よみ人しらず)

山ぶきはあやなゝ咲きそ花みんと 植えけむきみがこよひ来なくに

題知らず                   詠み人知らず(女の詠んだ歌として聞く)

(山吹は、わけもなく咲かないでよ、花を見ようと植えたわが君が、今宵、来ないのに……山ばのおとこは、むやみに咲かないでよ、お花見ようと、植えた貴身・餓えたわが身、小好い、未だ・来ないのに)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「山ぶき…山吹…春に花咲く落葉低木の名…言の心は男…名は戯れる…山ば吹き」「あやな…あやなし…条理・筋道・理由など無く」「そ…『な』と共になって禁止の意を表す…するな…(咲く)な」「花…木の花…男花…おとこ花」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「うゑ…植え…うえこむ…たねまく…餓え」「きみ…君…わが愛する男…貴身…貴い君の身…貴重なわが身」「こよひ…今宵…今夜…小好い…小さな快楽」「こなくに…来ないのに…来ないものを」。

 

女の思いを素直に表出した歌なので、この女性が心に思う事は、以上で全て、今の人々の心にも伝わるはず。以下は蛇足かも。

 

庭の山吹は、むやみに咲くな、植えたあの人、今宵は来れないというのに・恋しくなるじゃないの。――歌の清げな姿。

山ばに吹きだすおとこ花は、やたら咲かないでよ、見ようと餓えたわが身に、小好いもこないのに。――心におかしきところ。

 

おとこのはかない性(さが)と比べると、女の性の格は、山ばの深みや持続力など全てに上なので、格下を相手にすれば、女性は不満足が常道である。――これが心深きところか。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)