帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(128)鳴きとむる花しなければうぐひすも

2017-01-19 19:17:26 | 古典

             

 

                       帯とけの古今和歌集

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下128

 

弥生に鶯の声の久しく聞こえざりけるをよめる   貫之

鳴きとむる花しなければうぐひすも 果てはもの憂くなりぬべらなり

春三月に鶯の声が久しく聞こえなかったのを詠んだと思われる・歌……や好いの果てごろに、女の浮く秘す声が久しく聞こえなかったのを詠んだらしい・歌、  つらゆき

(鳴いて止める花が、散って・なければ、鶯も、春の果ては、もの憂くなってしまうようだ……泣き止めるおとこ端が、尽きて・なければ、浮く泌す女も、果ては、気が進まなくなってしまうのだろう)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「やよひ…弥生…三月…月の名称…名は戯れる…や好い…八好い…多くの快楽」。

「鳴き…泣き」「花…木の花…男花…おとこはな」「はな…花…端…身の端」「うぐひす…鶯…鳥の言の心は女…鳥の名…名は戯れる…浮く泌す…憂く秘す」「ものうく…もの憂く…何となく気が進まない…めんどくさく」「ぬ…完了したことを表す…てしまった」「べらなり…推量する意を表す…推定する意を表す」。

 

花は散り果て、春告げ鳥の鶯の声が久しく聞こえなくなった頃の春の風情。――歌の清げな姿。

泣いて止めるべきおとこ花も散り果ててしまったころの、もの憂い女のありさま。――心におかしきところ。

 

女の性愛における春情の果てのありさまを、花は散り鶯の鳴かない春の風情に付けて、言い出した歌。

 

素性の歌(126)の心におかしきところは「内蒸れて度々の共寝したいものだなあ」で、人の果てしない欲望と行為であった。次に、躬恒の「男の張るの早過ぎる果てと後の早過ぎる衰えをも詠んだ」歌(127)が置かれ、つづいて貫之の「女の果てのもの憂い心情を詠んだ」この歌(128)が置かれてある。

春の巻の歌は、「春の清げな姿」に付けて、色々多様なエロス(生の本能・性愛)が趣旨として顕れるように詠まれてあり、その「心におかしきところ」を考慮して並べてある。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)