帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(120) わが宿に咲けるふぢなみ立帰

2017-01-10 19:01:49 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下120

 

家に藤の花さけりけるを、人の立ち止まりて見けるを、

よみける                  躬恒

わが宿に咲けるふぢなみ立帰 すぎがてにのみ人の見るらん

(家に藤の花が咲いていたのを、人が立ち止まって見ていたので詠んだ・歌……井辺に垂れおとこ花、咲いたのを、女がたち止まり、見たのを詠んだ・歌)  躬恒

わが宿に咲いた藤の花々、風に揺られて・波立ち返り、通り過ぎ難そうに人が見ているようだ……わが妻のや門に咲いた夫肢並み絶ち、たち返り過ぎ難いとばかり妻がいまだ見ているようすだ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「宿…言の心は女…やと・家門・屋門…おんな」「ふぢなみ…藤の花房が多数垂れさ下がって風に揺れているさま…夫肢並み…普通のおとこ」「たちかへり…たち帰り…波が立ち返り…絶ち又よみがえり」「たち…接頭語…立ち…絶ち」「人…通りすがりの人…女…吾妻」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「らん…らむ…いまごろ何々しているだろう…現在の推量を表す…何々しているような…婉曲に表現する」。

 

我が宿の藤の花々風にゆられて、波のよう、たち帰り通り過ぎ難いとばかり人が見物しているようだ。――歌の清げな姿。

わが妻のや門に咲いた夫肢並み絶ち、くり返しゆき過ぎ難いとばかり未だ妻がみているようすだ。――心におかしきところ。

「宿」「藤の花」「見る」が一義な意味にしか聞こえない人には、永遠に顕れない歌の「をかしき」ところである。

 

この躬恒の歌は、「春情の絶えたときのおとこの微妙な心」である。先の貫之の歌(118)は、「高く深い山ばで絶えたおとこ花」についてであった。なるほど、躬恒と貫之優劣つけ難い。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)