帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(54)石はしる滝なくもがな 桜花

2016-10-25 19:02:14 | 古典

             


                         帯とけの「古今和歌集」

                 ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上54

 

題しらず             よみ人しらず

いしはしる滝なくもがなさくら花 たおりてもこむ見ぬ人のため

(石走る・激流の、滝がなければなあ、桜花を手折って来るだろうに、見ない人のため・お土産に……井しはしる・ほとばしる、多気で・多情で、なければなあ・このわたし、お端を手折りても、井へに・込めるわよ、見ない男の所為で)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「いし…石・岩・磯などは、なぜか言の心は女…井し…おんな」「はしる…走る…急流…奔る…自由奔放…気まま」「滝・水・川などの言の心は女…たき…多気…多情」「なくもがな…無ければいいのに…無くなって欲しい」「もがな…願望の意を表す」「桜花…木の花…言の心は男花…男端…おとこ」「こむ…来む…来るだろう…来るつもり…込む…中に入れるつもり…詰め込むわよ」「む…意志を表す」「見ぬ人…見物しない人…花見しない人…見ない男」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「人のため…他人の為に…わたしの為に…男が原因で…男の所為で」。

 

この激流の滝が無ければなあ、向かいの桜花を手折って来るのに、花見しない人たちのため。――歌の清げな姿。

この激情の多気、無くなって欲しい。おとこ端を手折っても、井に・つめこむわよ、覯のないおとこの所為で、わたしのために。――心におかしきところ。

 

女の歌として聞いた。他人を思いやる清げな姿をしているが、見てくれない男にたいする女の憤懣を述べたのである。古今集仮名序「色に付き、人の心、花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみ出で来れば、色好みの家に埋もれ木」となった歌のうち、それでも品のよいのを載せたのだろう。「色にふけり心を述ぶるなかだち(新古今集仮名序)」とする古歌である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)


帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(53)世中にたえて桜のなかりせば

2016-10-24 18:55:57 | 古典

             


                        帯とけの「古今和歌集」

                          ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上53

 

渚院にて桜の花を見てよめる       在原業平朝臣

世中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし

(渚の院にて、桜の花を見て、詠んだと思われる・歌……渚院(惟嵩親王の交野の狩場の離宮)にて、桜の花見をして(酒を飲みながらお供の者が皆歌を詠んだとき)詠んだらしい・伊勢物語82にある歌) 在原業平朝臣

(世の中に、絶えて、桜花が、無ければ、季節の春を迎える人の心は、長閑だろうになあ……女と男の・夜中に、絶えて、おとこ端が、無ければ、春の情は、のんびりしたものだろうに)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「世中…世の中…男と女の仲…よなか…夜中…夜の仲」「さくら…桜…木の花…言の心は男…咲くら…さくという状態」「ら…状態を表す接尾語」「春の心…季節の春を迎える人の心…春情」「のどけからまし…のどかだろうに…のんびりしているだろうに…激しくもあわただしくも咲き散り果てないだろうに」「まし…仮に想像する意を表す、希望や意向が含まれる」

 

世の中に、桜が無かったならば、季節の春を迎える人の心は、もう少し・のんびりとしているだろうに。――歌の清げな姿。

女と男の夜中に、お端が、この世に絶えて無かったならば、春の情はのんびりしたものだろうになあ。――心におかしきところ。

 

歌は嘯き(うそぶき)である。あらぬ方向に向かって口笛を吹くように呻き嘆く。文徳天皇の第一皇子惟嵩親王は、第四皇子(のちの清和天皇)との東宮あらそいに敗れ、やがて、第四皇子が御年九歳で即位された。その摂政となった御祖父、藤原良房にしてやられたのである。惟嵩親王を御慰めするための狩りと花見の宴で、御供の業平が詠んだ歌である。「絶えて、桜花が無かったならば、世中は・長閑なのになあ」の「桜花…男花…おとこ端」は藤原良房のことに違いない。歌の様を知り、言の心を心得る人には、歌の「深い心」も伝わるのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)


帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(52)としふればよはひはおいぬ

2016-10-22 20:29:49 | 古典

             


                         帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上52


      染殿后の御前に、花がめに、桜の花をさゝせ給へるを

見てよめる              前太政大臣

年ふればよはひは老いぬしかはあれど 花をし見れば物思もなし

染殿后(藤原明子・前太政大臣の娘)の御前に、花瓶に、桜の花を挿しておられたのを見て詠んだと思われる・歌 

前太政大臣(摂政・藤原良房)

(年が経てば、年齢は老いてしまう、しかしながら、桜の花を・孫の帝を、見れば、もの思いもない・若々い……疾し、経てば、夜這いは、感極まってしまう、しかしながら、わが・おはなを、みれば、まだ・もの思いもしていない・若々しい)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「年…齢…とし…疾し…早過ぎ…おとこのさが」「よはひ…年齢…夜這い…媾…まぐあい」「老い…おい…追い…極まる…齢が極まる…感極まる」「花…木の花…桜花…男花…男の比喩となる…おとこ端…草花ならば言の心は女で、女の比喩となる」「もの思ひ…心配すること…春情…有頂天の思い」。

 

年月経てば、年齢は老いてしまう、しかしながら、桜花を・男花を、見れば、若々しく・散る心配もなし。――歌の清げな姿。

疾しひと時経てば、夜這いは感極まってしまう、しかしながら、我がおとこ端をみれば、未だもの思いもしていない・若々しく散り果てる心配無し。――心におかしきところ。

 

孫に当る清和天皇が、九歳で即位されると、藤原良房は摂政となった。良房は幼帝を念頭に自信に満ちた歌を詠んだのである。これより藤原氏の摂関政治が本格的に始まったのである。

 

この歌、「題しらず」だと、花を「草花」と聞き、染殿后の比喩となる。すると、歌は「我は年と共に老いゆくが、花(美しい花のような我が娘・后)を見れば、何の心配もない」となる。これは、歌の「清げな姿」の一面である。この姿しか見えないと、歌の趣旨はわかるが、公任の言う「深い心」や「心におかしきところ」が聞こえない。貫之の言う「歌のさま」とは何か、「言の心」を心得るとは何のことかも不明となる。

仮名序の結びの言葉「歌のさまを知り、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへを仰ぎて今を恋ひざらめかも」を曲解するか無視するほかなくなる。国学及び国文学は無視したのである。そして近代人の文脈にて、古代の和歌を解明するという間違った方法と結果を残した。そのままに現代に至っている。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)

 


帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(51)山桜わが見にくれば春がすみ

2016-10-21 19:08:49 | 古典

             


                         帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上51

 

(題しらず)                        (よみ人しらず)

山さくらわがみにくればはるがすみ 峰にもおにもたちかくしつゝ

(山桜、わたしが見に来れば、春霞、峰にも尾根にも立ち、いつも・隠すのよ……山ばのおとこ端、わたしが見に繰れば、春が済み・張るが済み、有頂天も、お根も、絶ち、隠し・斯くし、いつも・筒)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「山桜…山の桜…山ばのおとこ端」「桜…木の花の言の心は男」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「くれば…来れば…繰れば…繰り返せば」「春霞…はるがすみ…春が済み…春情・張るが済み」「峰…頂上…有頂天・この世での快楽の頂点」「お…を…尾根…男…おとこ」「たち…(霞が)立ち…(有頂天を)絶ち」「かくし…隠し…失せて…斯くし…このようにして」「つつ…反復・継続を表す…いつもいつも…筒…おとこはただの筒となってしまう」

 

山桜、われが見に来れば、春霞が山の峰にも尾根にも立ちこめて、隠す、いつも。――歌の清げな姿。

山ばのおとこ端、わたしが見に繰れば、貴身は・張るが済み、絶頂でも尾根でも、絶ち、身を隠す、いつも筒ね。――心におかしきところ。

 

女の歌として聞いた。絶ち失せてしまうおとこに対する、おんなの恨みごとである。貫之の歌(49)のとおり、おとこは、散り果てることを倣わない方がいい。しかい、これはおとこの性(さが)なので、どうしょうもない。女は、このような歌々を通じて、おとこなんて、はかなく哀れな物だと、知っておいた方がいい。「人間の倫理を教化し、夫婦あい和すに、和歌ほど宜しきものはない」。真名序には次のように記されてある。「化人倫、和夫婦、莫宣於和歌」。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)


帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(50)山たかみ人もすさめぬ山桜

2016-10-20 19:00:01 | 古典

             


                         帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上50

 

題しらず           よみ人しらず

山たかみ人もすさめぬ桜花 いたくなわびそ我見はやさむ

又は、里とをみ人もすさめぬ山さくら

(山が高くて人も寄りつかない山桜、ひどく寂しがらないでね、わたしが見て囃したてるわ……山ばが高すぎて、女も、近づかない・盛り上がらない、山ばのおとこ端、ひどくがっかりしないでね、わたしが見て、栄えさせてあげるわ)

又は(里が遠くて人も近寄らない山桜、ひどく寂しがらないでね、わたしが見て囃したてるわ……さ門が縁遠くて、女も、寄りつかない・盛りあがらない、おとこ端よ、ひどくがっかりしないでね、わたしが見て、栄えさせてあげるわ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「山…山ば…クライマックス…感情の山ば…エクスタシー」「人も…人は皆…女も(さ門も)」「すさめぬ…賞美しない…興味感じない…盛りあがらない…栄えない」「桜花…木の花…梅花と言の心は同じで男花…おとこ端」「なわびそ…侘びしがるな…寂しがるな…がっかりするな」「みはやさむ…見物して囃し立てよう…賞味(見)して持て囃そう…見て栄えさせよう」「見…覯…媾…まぐあい」「む…意志を表す」。

 

山の高いところに咲いたので、人が賞美しない桜花、ひどく寂しがるな、我が見て、もて囃してやるよ。――歌の清げな姿。

上るべき山ば高くて・(さ門縁遠くて)、女も盛り上がらない、山ばのおとこ端、ひどくがっかりしないでね、わたしが見て、栄え立ててあげるわ――心におかしきところ。

 

女の歌として聞いた。山桜を擬人化して、歌は「清げな姿」をしている。「心におかしきところ」は、女の愛情表現か、又は、おとこへの揶揄か風刺とも聞こえる。題しらずなので、どのような情況でどういう相手に送ったかわからない、聞き耳によって主題の意味が異なる。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)