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帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (四十九) 大中臣能宣  平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-19 19:37:13 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観で蘇らせる。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、三つの意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(四十九) 大中臣能宣


  (四十九)
 みかきもり衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ

(御垣守、衛士の焚く火のように夜は燃え、昼は消えつつ、きみ恋しい・思いに耽る……見掻き盛り、ゑ士のたく思い火が夜は燃え、ひるは絶え筒、もののおを思う)

 

言の戯れと言の心

「みかきもり…御垣守…宮中警護の役人の呼び名…名は戯れる。見掻き盛り、身掻き盛り」「かき…垣…垣根…掻き…かきわける…こぎすすむ」「もり…守り…盛り…盛んになる…盛り上がる」「ゑし…衛士…ゑ士…ゑ男…ゑおとこ」「ゑ…恵…感嘆詞…好しゑ」「火…恋の炎…思い火…情念の火」「つつ…継続を表す…筒…中空…涸れ絶え」「ものを…何でもないものを…身の一つのものお…おとこ」「こそ…強調・限定などの意を表す…それを」「思へ…(こその係り結び)思ふ…思う」。

 

歌の清げな姿は、夜間警護の間は、きみを恋い焦がれ燃える思いよ、昼は思いし萎え、あれこれと思う・今宵逢えば合えるかなあ。

心におかしきところは、昨夜の燃えるようなみ掻き盛りに、昼は筒となった吾が身を思う。


 

詞花和歌集(仁平元年1151)頃成立、第六番目の勅撰集。恋上、題しらず。「清げな姿」で分類すれば、まさに妻恋の歌。能宣は後撰和歌集の撰者の一人。

 

言の心(この時代のこの文脈で通用していた字義以外の意味)を心得れば歌が恋しくなるだろうと貫之は言った。言の戯れを知れば「心におかしきところ」が顕れる、それは煩悩即菩提であるとは、俊成の教え。言い換えればエロスが顕れる。これは洋の東西を問わず時代を越えて人間味の溢れる源である。歌には、玄之又玄なるところに生々しく顕れる。時を超えて今の人々にも伝わるだろうか。


「小倉百人一首」 (四十八) 源重之 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-18 19:33:14 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観で蘇らせる。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、三つの意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(四十八) 源重之


  (四十八) 
かぜをいたみ岩打つ浪のおのれのみ くだけてものを思ふころかな

(風が激しくて岩打つ浪のように、自分だけが、身も心も・うち砕かれて、ぼんやりもの思う今日この頃だなあ……貴女の・心風がひどいので、井端うつ汝身が、吾が身だけ、うち砕かれて、憂きこと思うころ合いかなあ)

 

言の戯れと言の心

「かぜ…風…心に吹く風…春風・あき風・心も凍る寒風など」「を何々み…原因・理由を表す…が何々なので」「いたみ…激しいので…ひどいので…苦痛なので」「岩…いは…石(いし)・磯(いそ)の言の心は女…井端…おんな」「浪…波…汝身…吾が身…おとこ」「な…汝…親しきものをこう呼ぶ」「の…比喩を表す…のように…主語を示す…が」「のみ…限定…だけが…の身」「くだけて…砕けて…心乱れて…心痛めて…身も心もうち尽きて」「かな…感嘆・詠嘆を表す」。

 

歌の清げな姿は、女に言い寄ったけれども、堅く拒否された男の心の砕けざま。

心におかしきところは、井端に汝身うちつづけたけれども、盤石に変わりなし、うち砕かれたおとこの憂きこと思うころあい。

 

詞花和歌集 恋上、詞書「冷泉院、春宮と申しける時、百首歌たてまつりけるによめる」。たぶん深い心は無い。皇太子の情操教育のため又はお楽しみのために、奏上した歌。


 

いは(岩)が女性であるとは、今の人々には受け入れ難いことだろう。万葉集・古今集を通じて、この時代の文脈では通用していた意味である。「紫式部集」に此の言葉を用いた歌があるので聞きましょう。

紫式部の夫が亡くなって、世のはかなき事を嘆く未だ喪の明けない頃のこと、言い寄って来た男が居たが、門を堅く閉ざしていたところ、宵の暮れに、門(かど)を叩きわずらって帰った人(男)が翌朝に寄こした恨み歌「よとともに荒き風吹く西の海も 磯辺に浪も寄せずとや見し」とあった返し、


  かへりては思ひ知りぬや岩かどに 浮きて寄りけるきしのあだ波

清げな姿は字義通りで略す……ひっくり返って思い知ったか、井端かどに浮かれてよくも寄って来たことよ、岸壁のあだ汝身)


 「いは…岩…井端…女」「かど…門…角」「きし…岸…みぎは…砂浜では無い岸壁…来し」「あだ…仇…徒…浮気な…誠実でない…いいかげんな」「なみ…波浪…汝身…おとこ」。


「小倉百人一首」 (四十七) 恵慶法師 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-17 19:33:54 | 古典

             



                        「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌を、
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観で紐解いている。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であるという。定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「百人一首」を撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(四十七) 恵慶法師


  (四十七)
 八重むぐら繁れる宿のさびしきに 人こそ見えね秋はきにけり

(八重葎の繁る、荒廃した・家が寂しいのに、人影さえ見えず、ものがなしい・秋の季節が来てしまったことよ……八重に繁り荒れる、や門が寂しくものたりないのに、男が見えず、おとこに・厭きが来てしまったのだなあ)


 言の戯れと言の心

「八重むぐら…八重葎…雑草…荒廃した…身も心も荒れた」「草…言の心は女」「しげる…繁る…多い…頻繁…絶え間ない…多情な」「宿…やど…言の心は女…や門…おんな」「さびしき…ひっそりとしている…心細い…ものたりない」「に…場所を表す…時を表す…空間を表す…ので…のに…その上に」「人…人影…男」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「ね…ず…打消しの意を表す…寝…根」「秋…季節の秋…飽き…厭き…見捨てること」「に…ぬ…完了したことを表す」「けり…詠嘆を表す」。

 

歌の清げな姿は、むかし栄華を極めた、今は・雑草茂る荒れた邸宅に秋来たるという心。

心におかしきところは、八重にしげるや門なのに、おとこは見捨ててみず、あきがきてしまったのだなあ。


 

全てのものは移ろい変わり行く、栄華もその名残の家も人の心も。言わずと知れた無常観が歌の根底にある。歌はそれだけではない。むぐら(つる草)と宿の「言の心」を心得て、「見」と「秋」は意味の多様に戯れる言葉と知って歌を聞けば、男とそのおとこの、はかなく移ろう生のありさまが顕れる。

 

拾遺和歌集 秋 詞書「河原院にて荒れたる宿に秋来るといふ心を人々詠み侍りけるに」(はるか以前、左大臣源融の大邸宅だった所にて、「荒れたやどに、あき来たるという心情」を題に人々が歌を詠んだので、ついでに・詠んだ歌)。恵慶法師(今の住人の安法法師の友人のようである。清原元輔、曾禰好忠らとも親交が有ったという。詳しいことは明らかでない)。


「小倉百人一首」 (四十六) 曾禰好忠 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-16 19:46:49 | 古典

             



                          「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌を、
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観で紐解いている。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であるという。定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「百人一首」を撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(四十六) 曾禰好忠


  (四十六)
 由良のとを渡る舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋の道かな

(由良の水門を渡る舟人、梶緒絶え・切れて、行方も知らぬ、恋の道かなあ……ゆらめく、み門をわたるふ根の人、こぐ具のお、絶えて、ゆくえも知らぬ、乞いの路だなあ)

 

言の戯れと言の心

「由良…ゆら…所の名…名は戯れる。揺らぐ、ひるむ、ためらう、よろめく」「と…門…みと…水門…海流のながれだすところ(船をいだして阿波の水門を渡る・土佐日記)」「水・門・戸の言の心は女・おんな」「わたる…渡る…の許へ行く」「ふな…舟…ふね…夫根…言の心は男・おとこ」「かぢを絶え…梶を絶え…梶緒絶え」「梶…船漕ぐ具…櫓」「を…緒…ひも…お…おとこ」「恋…こひ…乞ひ…求める」「道…抽象的な意に用いて、行く方向、道のり、ゆく末…路…通い路…おんな」「かな…感嘆・詠嘆を表す」。

 

歌の清げな姿は、身も心もよろめきゆく恋のありさま。

心におかしきところは、根を絶えて浮き逝くおとこの憂きありさま。

 

新古今和歌集 恋歌一、題しらず。

 


 枕草子
〔二八六〕「うちとくまじきもの」に、次のような文章がある。船旅の経験の無い他の女房たちに、清少納言が海を渡る屋形船に乗った様子を語る場面として読んでみよう。


 奥なるはたのもし、端にて立てるものこそ、めくるる心地こそすれ、早緒と付けて櫓とかにすげたるものの弱げさよ、かれ絶へば、なににかならん、ふと落ち入りなんを、それだに太くなどもあらず。

清げな姿はほぼ字義通りなので略す……女は期待大、身の端にて立つものこそ、めを潜る心地する、早おと名付けて、こぐ具とかに付いたものの弱々しさよ、これ絶えれば、どうなるの・ゆくえしらずよ、ふと堕ち入ってしまうの、それなのに、太くないのよ)


 「奥…屋形の奥…おくがた…女」「たのもし…期待大である、待望する、頼もしく思う」「端…船の舳先…身の端」「もの…者…物…おとこ」「めくくる…目眩む…め潜る…奥にもぐりこむ」「め…女…おんな」「を…緒…おとこ」。

 

船旅の経験は無くとも、その道の経験あり、言の戯れと言の心を心得ている女達には「をかし」と思える話しであり文章だろう。

何となく「艶」にも「あはれ」にも聞こえるのは、和歌と同じ方法で「心におかしく」語っているからである。

 国文学的解釈は、例によって上句すべてを、「ゆくへも知らぬ」を導き出す序詞だという。平安時代、そのように、歌は詠まれ聞かれていたか、甚だ疑問である。「序詞」などという言葉も概念も無かったのである。


「小倉百人一首」 (四十五) 兼徳公 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-15 18:05:08 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌を、
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観で紐解いている。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であるという。定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「百人一首」を撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(四十五) 兼徳公

 
  (四十五)
 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな

(愛おしいと言うべきあの人は、我を・思わないままで、わが身が、はかなく恋死してしまうのだろうか……あゝ愛しい、と言うべき女は、もの思えぬままで、わが身の端が、お役に立てず・衰えて逝ってしまうのだろうかあゝ)

 

言の戯れと言の心

「あはれ…情趣がある感動する…哀れ…憐れ…愛おしい」「べき…べし…推量の意を表す…当然・適当の意を表す」「人…あの人…思い人…女」「思ほえで…思えないで(自発の打消し)」「で…ずに…打消しの意を表す…ないのに…原因理由を表す」「み…身…見…覯…媾…まぐあい」「いたづら…はかない…役立たず…むなしく死ぬ」「ぬ…してしまう…完了する意を表す」「かな…感動・感嘆の意を表す…疑問・詠嘆の意をあらわす」。

 

歌の清げな姿は、物越しに逢えたが、それ以上は許さなかった女に、引き下がれない男の思いを訴えた。

心におかしきところは、「あはれ」という思いもさせられなくて、やくたたず、むなしく、身は逝ってしまうのだろかと、おとこが訴えた。

 


 拾遺和歌集 恋五、詞書「もの言ひ侍りける女の後につれなく侍りて、さらにあはず侍りければ」、一条摂政(藤原伊尹・兼徳公・兼家の兄・道長らの伯父にあたる人)。若く官位も低かった頃の歌のようである。
 
 「逢って言葉を交わし情は通じ合ったのに、その後つれなくなって、さらに合わずなったので」詠んで遣った歌。このおとこの歌の「心におかしきところ」が、お相手の女にどのように伝わったか、その結果もわからないけれども、第三者として、今の人々の心に、「何となく艶にも、あはれにも聞ゆる事のあるなるべし(このおとこが・何となく艶っぽくも、哀れにも、愛おしくもあるだろう)」か。時は千年隔たっていても、おとこの生の心が伝わるはずである。これが「歌」であると、定家の父、藤原俊成は言ったのである。