帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (四十六) 曾禰好忠 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-16 19:46:49 | 古典

             



                          「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌を、
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観で紐解いている。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であるという。定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「百人一首」を撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(四十六) 曾禰好忠


  (四十六)
 由良のとを渡る舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋の道かな

(由良の水門を渡る舟人、梶緒絶え・切れて、行方も知らぬ、恋の道かなあ……ゆらめく、み門をわたるふ根の人、こぐ具のお、絶えて、ゆくえも知らぬ、乞いの路だなあ)

 

言の戯れと言の心

「由良…ゆら…所の名…名は戯れる。揺らぐ、ひるむ、ためらう、よろめく」「と…門…みと…水門…海流のながれだすところ(船をいだして阿波の水門を渡る・土佐日記)」「水・門・戸の言の心は女・おんな」「わたる…渡る…の許へ行く」「ふな…舟…ふね…夫根…言の心は男・おとこ」「かぢを絶え…梶を絶え…梶緒絶え」「梶…船漕ぐ具…櫓」「を…緒…ひも…お…おとこ」「恋…こひ…乞ひ…求める」「道…抽象的な意に用いて、行く方向、道のり、ゆく末…路…通い路…おんな」「かな…感嘆・詠嘆を表す」。

 

歌の清げな姿は、身も心もよろめきゆく恋のありさま。

心におかしきところは、根を絶えて浮き逝くおとこの憂きありさま。

 

新古今和歌集 恋歌一、題しらず。

 


 枕草子
〔二八六〕「うちとくまじきもの」に、次のような文章がある。船旅の経験の無い他の女房たちに、清少納言が海を渡る屋形船に乗った様子を語る場面として読んでみよう。


 奥なるはたのもし、端にて立てるものこそ、めくるる心地こそすれ、早緒と付けて櫓とかにすげたるものの弱げさよ、かれ絶へば、なににかならん、ふと落ち入りなんを、それだに太くなどもあらず。

清げな姿はほぼ字義通りなので略す……女は期待大、身の端にて立つものこそ、めを潜る心地する、早おと名付けて、こぐ具とかに付いたものの弱々しさよ、これ絶えれば、どうなるの・ゆくえしらずよ、ふと堕ち入ってしまうの、それなのに、太くないのよ)


 「奥…屋形の奥…おくがた…女」「たのもし…期待大である、待望する、頼もしく思う」「端…船の舳先…身の端」「もの…者…物…おとこ」「めくくる…目眩む…め潜る…奥にもぐりこむ」「め…女…おんな」「を…緒…おとこ」。

 

船旅の経験は無くとも、その道の経験あり、言の戯れと言の心を心得ている女達には「をかし」と思える話しであり文章だろう。

何となく「艶」にも「あはれ」にも聞こえるのは、和歌と同じ方法で「心におかしく」語っているからである。

 国文学的解釈は、例によって上句すべてを、「ゆくへも知らぬ」を導き出す序詞だという。平安時代、そのように、歌は詠まれ聞かれていたか、甚だ疑問である。「序詞」などという言葉も概念も無かったのである。