帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (五十) 藤原義孝 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-20 19:22:00 | 古典

             

                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義

 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観で蘇らせる。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、三つの意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十) 藤原義孝


   (五十)
 きみがため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな

(恋いしい・きみのためならば、惜しくなかった命さえ、長く在って欲しいと、今朝は・思ったことよ……乞う・きみのためならば、惜しくもなかった、わが小枝の・命さえ、長く在って欲しいと思ったなあ)


 言の戯れと言の心

「きみ…貴女…貴女」「命さえ…命でさえ…命・小枝…わが身の枝の命」「さへ…でさえ…さえ…小枝…身の枝…謙遜しておとこをこう呼ぶ」「長くもがな…長く在って欲しい」「もがな…願望を表す」「けるかな…気付き・感動を表す…(現実ははかないものだなあ)詠嘆を表す」。

 

歌の清げな姿は、愛しい人を妻として逢い合えば、世界が変わって見えた、男の素直な思い。

心におかしきところは、求める妻のため、執着の無かった我がおとこの命、長らえて欲しいと思ったことよ。

 

後撰和歌集 恋二 「女のもとより帰りてつかはしける」。藤原義孝は二十一歳で少将にて亡くなった。子の藤原行成は数歳の頃である。この「女」は行成の母かもしれない。義孝は清原元輔らと交流があったという。行成は清少納言と親交があった。


 

歌の「心におかしきところ」こそが歌の命であって「清げな姿」に包まれてある。「女」の心には直に伝わって、さらに、あはれ(哀れ・愛しい)と思わせただろう。

 

「清げな姿」で包むことは、景色や物に喩えることなく思いを述べる「正述心緒」の歌ではとくに難しい。このように歌を聞く文脈に立ち入れば、清少納言枕草子(第九十五)の次のような言葉がよく理解できるだろう。


  つゝむことさぶらはずは、千の歌なりとこれよりなん、いでまうでこまし。

(父元輔の名を汚さぬように・慎むことが要らないならば、千の歌なりとも、今からでもですね、詠み出せましょう……清げな姿に・包むことが要らないならば、千の歌なりとも、今からでも、出てまいりましょう)。


 このとき清少納言は、元夫が地方の国に去って行ったことなどに加えて、主家への道長の仕打ちに対する怒りなど、千の心緒を抱えていたのである。数日前、うの花盛りのうし車を、土御門(道長邸)にぶち込む代わりに、本物の大内裏の土御門にぶち込んだが、それくらいでは治まらないと言っているようである。定子中宮は、そのような清少納言の心の裏まで百もご承知であられたようである。