帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (三十三) 紀友則  平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-02 19:34:27 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。国文学の解く内容とも大きく隔たった驚くべき文芸であった。
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であるという。定家は上のような歌論や言語観に基づいて「百人一首」を撰んだのである。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (三十三) 紀友則


  (三十三) 
ひさかたのひかりのどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ

(久方の陽光、のどかな春の日に、静かな心なく・慌しく、桜の花が散る、どうしてだろう……久堅の吾女の栄光、のどかな春情の火に、静心なく・我が心慌しくも、お花が散る、どうしてだろう)

 

言の戯れと言の心

「ひさかた…枕詞…久方・久堅と表記する…遠方や長い時間などを意味する、あめ(天)、空、雲、に日(太陽・光)などにつく、これらは戯れの意味を孕んでいる(天、あめ・あまは女など)。枕詞と言えども、戯れの意味が生じる。久しく持続する、久しく堅いなど」「ひかり…陽光…天照す女神の光…威光…輝き…栄え」「のどけき…長閑き…ゆっくりとしている…おだやかである」「春の日…春の季節の或る日…春情の火」「に…時を示す…場所を示す…なのに…のために等、多様な意味がある」「花…桜花…木の花…男花…おとこ花」「散る…ものが散乱する…心が乱れる…散り果てる」「らむ…原因・理由を疑問を持って推量する」

 

歌の清げな姿は、穏やかな春の日に桜の花の散る景色。

心におかしきところは、吾めの、ゆっくりと燃え続ける春情の火に、なぜか、あわただしくも散り果てる、おとこ花。


 古今和歌集 春歌下、さくらの花のちるをよめる。歌集は「清げな姿」で分類し、清げな姿を強調する詞書を付けるようである。「心におかしきところ」は、貫之のいう「玄之又玄」なるところに在るべきなのだろう。言い換えれば、歌言葉の戯れの意味に包まれて、心におかしきところはある。


 

「つつむことさぶらはずは、千の歌なりと、是よりなん、いでまうでこまし」と、或る時、中宮に、清少納言は申し上げた(枕草子・五月の御精進のほど・の結び)。「つつむこと(包むこと・秘めること・慎むこと)が無くてもいいのならば、千の歌でも、今からでも、詠み出せますわ」という、諸々の思いを込めた発言であるが、此の言葉には、清少納言が思う「歌のさま」(歌の表現様式)が表われている。人の生々しい心根など、普通の言葉で表すことはできないので、和歌には、清げに包む、表現様式があったのである。