帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (五十七) 紫式部 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-27 19:31:48 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって蘇える。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十七) 紫式部


  (五十七)
 めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな

(良き男に・巡り会って対面したの、それとも、よく分からない間に、雲隠れしてしまった、夜半の月人壮士だったのかな……め眩むほど合って見たの、それとも、判別つかぬ間に、心雲隠れてしまった夜の半ばまでの、尽き人おとこだったの、どうなのよ)


 言の戯れと言の心

「めぐり…巡り…目くり…めくらみ」「あひ…逢い…遭遇…合い…和合」「見…対面…判断…覯…媾…まぐあい」「や…疑問…呼びかけ」「わかぬ…分かぬ…判別付かない」「雲がくれ…雲に隠れる…心雲が消える」「雲…煩わしくも心に湧き立つもの…情欲…欲情…色」「にし…してしまった…完了したことを表す」「夜半の…途中の…有明けまで健在であるのが理想」「月…月人壮士(万葉集での月の名)…ささらえをとこ(万葉集以前の月の別名)…平安時代を通じて、言の心は男、おとこ(近代では月に女性的イメージを持つようになったかもしれないが、そのような文脈で、平安時代の歌を解釈することが誤解の原因である)」「かな…感嘆・詠嘆の意を表す…疑問を表す・念を押す…どうなのよねえ」。

 

歌の清げな姿は、好い男に巡りあったの、すぐに別れてしまったの、どうなのよ。

心におかしきところは、めくるめく見たの、それとも、夜半に尽きるようなおとこだったの、どうなのよ。

 

新古今和歌集 雑歌上、詞書「はやくより童友だちに侍りける人の、年ごろ経てゆき逢ひたる。ほのかにて、七月十日の頃、月にきほひて帰り侍りければ」。


 
「紫式部集」により憶測すれば、幼友だちと、二人共いい歳ごろになって巡りあって、四方山の話をしたようである。また再び、父の地方の国への赴任に伴って行くことになる、片や南国、紫式部は雪国と、別れ別れになること、その間に歌を沢山詠んで置いて、四年後逢ったとき交換しようと約束した。ほんとうは、頼れる男に巡りあって通って来るようになれば、京に留まって居たいのである。言わば「婚活」のありさまなど、ほんとうに聞きたいことは、歌でしか表現できないので、友が帰った後から届けさせた歌である。
 
 紫式部は父の任期の途中で、父の知り合いの人の求婚の便りを受けて、一人だけ雪解けと共に帰京して結婚する。
 
数年後、帰京した、幼友だちの親や姉妹の中に彼女の姿は無い。赴任地で帰らぬ人となっていたのだった。また紫式部の夫も結婚後数年で亡くなったのである。

 

この「めぐり合ひて」の歌と、伝わらないがその時の返歌は、友との「本音トーク」である。

 

国文学的解釈は、「月」を女性として、帰って行った幼友だちを暗示するなどと解き、主旨も趣旨も希薄な歌にする。現代の古語辞典の解釈は「しばらくぶりで巡り会ったのだが、その人かどうかも、はっきりとは分からないうちに、雲に隠れてしまった夜中の月よ」とある。「――たちまち帰ってしまった友よ」などと、他の古語辞典の解も大差ない。

紫式部が、ほんとうに、こんな「くだらない歌」を詠んだと思うのだろうか、それを定家が秀逸の歌として撰んだと思うのだろうか。国文学は根本的に和歌の聞き方を間違えているのではないのか。