帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔百三十〕五月ばかり

2011-07-29 06:03:24 | 古典

 



                                            帯とけの枕草子〔百三十〕五月ばかり


 
 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔百三十〕五月ばかり

 五月ごろ、月もなくたいそう暗いときに、「女房はおられますか」という声がするので、「出て見よ、いつになく言うのは誰かしらね」と仰せになられれば、「こはたそ、いとおどろおどろしう、きはやかなるは(そなたは誰、とっても騒々しいのは…これは誰よ、おどろくほど際立っているのは)」と言う。ものも言わずに、みす(御簾…身す)をもちあげて、がさごそと差し入っている、くれ竹(呉竹)だったのだ。

 「おひこの君にこそ(おゝこの君ですね…感極まった子の君なのね)」と言ったのを聞いて、「さあさあ、このことを、まず殿上に行って語りぐさにしょう」といって、式部卿の宮の源中将、六位の者どもなど、居た人たちは帰って行った。


 頭の弁(行成)は留まっておられた。「変に帰ってしまう者どもだなあ、御前(清涼殿の庭)の竹を折って、歌を詠もうとしたが、同じことなら職の御曹司に参って、女房など呼びだしてと、竹を持って来たのに、くれたけの名(呉竹の別名…呉竹の意味)を早速言われて帰るとは、かわいいもんだ。あなたは誰の教えを聞いて、(女の)普通は知りそうもないことを、言うのだ」などとおっしゃるので、「たけの名とも知らぬものを。なめしとやおぼしつらん(竹の名だとも知らないのよ。おい!この君かと言って・失礼なとでも思われたのかしら)」というと、「ほんとうに、それを知らないのかなあ」などとおっしゃる。
 まじめな話もしていらっしるところに、
「うへてこの君としようす(植えてこの君と称す…種うえつけて子の君と称す)」とうたって、また集まって来たので、「殿上で話して決めた本意もないうちに、どうして帰って行かれたのかと、ふしぎがっていましたよ・清少納言と」とおっしゃると、「あのような言葉には、何と応えようか。なかなか難しいだろう、殿上であれこれ言って騒がしくしていたところ、主上もお聞きになられて興じておられた」と語る。

 頭の弁(行成)も共に同じことを返す返すおうたいになって、たいそうおかしかったので、人々はそれぞれ違った話をして、夜を明かして帰るときにも、なおも同じことを声合わせてうたい、左衛門の陣に入るまで聞こえる。

 
 明けてすぐに、少納言の命婦(主上付き女房)という人が、主上の御文を持って来られたときに、このことを宮に申し上げたので、局に下がっていた私を召されて、「そのようなことがあったのか」とおたずねになられるので、「知りません、何のことか知らないで言いましたものを、行成の朝臣がよいようにとりなしたのでございましょうか」と申し上げると、「とりなすとも(とりなすでしょうね、知らないことにしてくれたのね…鶏成すでしょうね、あけてまつ仲だからね)」と、うちゑませ給へり(にっこり微笑まれた)。

誰のことであっても、殿上人が褒めたなどとお聞きになられると、そう言われる人を、よろこばせ給もをかし(お喜びになられるのもおかしい)。


 言の戯れと言の心

 「みす…御簾…身す」「す…女」「呉…おおきい…娯…たのしむ…娯楽」「竹…君…男…おとこ」「おひ…おい…(驚いて)おお!…老い…追い…ものの極み…感の極み」「おいこの君…おい、此の君…感極まったおとこ…呉竹…娯楽中の子の君」「とりなし…取り成す…取り繕う…(竹…男君)とは知らなかったことにしてくれる」「とり…取り…鶏…鳥…言の心は女」「なす…為す…成す」。

 


 男たちが朗詠した詩句は、
 種而称此君、唐太子賓客白楽天、愛而為我友(藤原公任撰、和漢朗詠集・竹)。
 清げな意味はともかくとして、心におかしきところは「……種うえつけて子の君と称す、唐(大きい)!太子(太い子)! 嬪脚、白楽、天! 愛でて(女は)わが友となす」。男の言葉も戯れる。

 話に花が咲いたわけは、わかるでしょう。紫式部が「賢ぶって、まな書き散らし、よく見れば、また、耐えられないことが多くある(紫式部日記)」と批判することもわかるでしょう。

伝授 清原のおうな

聞書 かき人知らず   (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」による