帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (263)雨ふればかさとり山のもみぢ葉は

2017-08-07 19:05:08 | 古典

            

 

                        帯とけの古今和歌集

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下263

 

是貞親王家歌合によめる           忠 岑

雨ふればかさとり山のもみぢ葉は 行かふ人のそでさへえぞてる

(是貞親王家の歌合のために詠んだと思われる・歌)。 壬生忠岑

(雨ふれば、笠取山のもみぢ葉は・色鮮やかで、行き交う人の袖さえ照り輝いている……お雨ふれば、嵩にかかってのぼる山ばの飽きの色は、ゆき交う男と女の身の端さえ、照らす)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「雨…もみじ色に染める雨…おとこ雨…ことの終わりを告げる雨」「かさとりやま…笠取山…山の名…名は戯れる。笠持つ山・嵩にかかって勢いある山ば・笠を取り去った山」「山…山ば…感情の山ば」「もみぢば…もみじ葉…飽き色した葉…厭き色した木の端…も見じしたおとこ」「ゆきかふ…往来する…行き来して交わる」

 

雨ふれば、笠とりさり山のもみぢ葉は、色彩鮮やかで・行き交う人の袖さえ照り輝いている。――歌の清げな姿。

おとこ雨ふれば、嵩にかかってのぼる山ばの飽きの色は、ゆき交う男と女の身の端さえ、ほ照らす。――心におかしきところ。

 

色情の果て方は、おとこ雨が降れば、ことの終わりとなる。この情況を、男は何時も後ろめたく思っている。その救いの歌だろうか・開き直りだろうか。お雨は、漏らせば漏れたで、ゆき交う身の袖(端)ほてるという。

 

「伊勢物語」(百七)によれば、藤原敏行が未だ若い頃、お雨が降れば果てて、ことの終わりになると悩んで居た。通っていた女は、在原業平の妻の許に居た女であった。敏行は便りを寄こした「雨の降りぬべきになむ見わずらい侍る。見さいはいあらば、この雨ふらじ(雨が降ってしまいそうでね、お目にかかれそにありません。身に幸いあれば、この雨は降らないだろうに……おとこ雨が降ってしまいそうで、見わずらっています。身の見に幸あれば、この雨降らないだろうに」とあった。

業平が見て、女に成り代わって、この若者に歌を詠んで遣った。

かずかずに思ひ思はず問ひがたみ みをしる雨は降りぞまされる

(いつもいつも、好きか、そうでないかを、お互い・問い難いので、身を知る雨は、降れば君への思い増さると知ってよ……しきりに、思いを思っているかと、女に問い難いので、身の見を汁るおとこ雨は、降れば降ったで、心地増さるのよ)。

 

歌言葉は、すでに浮言綺語の戯れのような意味を孕んでいた。

「み…身…見…覯…媾…まぐあい」「しる…知る…承知している…汁…濡れる」「雨…おとこ雨」。

「伊勢物語」は、心深く、清げな姿をしていて、心におかしきところのある文芸である。国文学的うわの空読みを脱するには、戯れの意味を心得ればいいのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)