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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、「言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)」を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。
古今和歌集 巻第八 離別歌
常陸へまかりける時に、藤原公利に、よみて遣は
しける 寵
朝なけに見べききみとしたのまねば 思立ぬる草まくらなり
(作者が・常陸へくだって行った時に、藤原公利に詠んで遣った・歌……捨て去って・常陸へ赴任した時に、藤原公利に詠んでやった・歌) (寵・うつく・ちょう・女の仮名と聞く)
(朝も昼も見られる君とは頼みにできないので、思い断ち・思い立った旅なのよ……浅なげに・薄情そうに、見るにちがいない君だし、頼みにしないので、思い断ってしまった、旅立ちよ)。
「朝なけに…朝に昼に…いつも…浅なげに…薄情な気配で」「見…お目にかかること…覯…媾…まぐあい」「たのまねば…頼ばねば…頼りしないので…信頼しないので」「思立…思い立つ…思い断つ」「ぬる…ぬ…完了した意を表す」「くさまくら…草枕…旅(草枕の言の心か、戯れの意味かは別にして、このような意味があることを心得ないと歌は解けない)」。
父の赴任地へ行く・君に頼れないので、思い立った旅よ――歌の清げな姿。
浅い情で、わたしを見る貴身、頼りないので、思い断った、女旅よ――心におかしきところ。
紀宗定が東へまかりける時に、人の家に泊まりて、
あか月出で立つとて、まかり申しければ、女のよ
みて出だせりける よみ人しらず
えぞ知らぬ今心見よ命あらば われや忘るゝ人や訪はぬと
(紀宗定が東国へ赴任する時に、他の女の家に泊まって、明け方出立すると、使いの者が・言って来たので、女が詠んで差し出した・歌)(よみ人しらず・匿名で詠んだ女の歌と聞く)
(知り得ないこと、いま、君の心をみなさいよ、命あるかぎりわたしが君を忘れるか、忘れはしない、男がわたしを訪わなくなったと・わかるでしょう……枝ぞしらぬ・貴身の小枝など知らない、井間の情を見なさいよ、わが井間が貴身をわすれるか、貴身が訪問しなくなったか・見ればわかるでしょう)。
「え…得…枝…男の身の枝…おとこ」「今…すぐに…井間…おんな」「心…情」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「や…反語の意を表す…疑問の意を表す」。
いますぐ、おのれの心を見よ、わたしが君を忘れたのか、君が訪れなくなったのか・明らかでしょう――歌の清げな姿。
貴身の枝は知らない、わが井間をみてみよ、命ある限りは、わたしが貴身を忘れるかどうか、貴身がおと擦れなくなったか・わかるでしょうよ――心におかしきところ。
両歌とも、女の的確で強烈なしっぺ返し。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)