帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第七 賀歌 (363)白雪の降りしく時はみよしのの

2017-12-14 19:50:03 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、「言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)」を心得るべきである。さらに、藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も。

 

古今和歌集  巻第七 賀歌363

 

    (内侍のかみの、右大将藤原朝臣の四十賀しける時に、四

季の絵かける後ろの屏風に書きたりける歌)(つらゆき)

          

白雪の降りしく時はみよしのの 山下風に花ぞ散りける

(白雪が頻りに降る時は、み吉野の山おろしの風に、木の花が、散るのだなあ……白ゆきの頻りに降る時は、身好しのの・見好しのの、山ば下ろしの心風に、おとこ花ぞ、散ったなあ)。

 

「白雪…白い花…白逝き…おとこ花」「みよしの…み吉野…山の名…名は戯れる。見好しの、身好しの」「山…山ば」「風…心に吹く風」「花…木の花…梅・桜など…男花…おとこ花」「ける…けり…気付き…詠嘆」。

 

白雪の降る時は、吉野山おろしの風に、木の花が、散るのだなあ――歌の清げな姿。

白逝きの頻りに降る時は、身好しのの山ば下ろしの心風に、おとこ花が散ることよ――心におかしきところ。

 

貫之は、技巧に偏らない、一筋に素直に詠んだ歌を屏風絵の最後に添えたのだろう。定国の男ぶりを素直に祝う歌である。

 

後の世、藤原公任は『新撰髄脳』に云う「一筋にすくよかになむ詠むべき」。(歌は、一筋に飾り気なしに、健全・実直にだなあ、詠むべき)。

 

さらに後の世、藤原定家は『近代秀歌』に云う「昔、貫之、歌の心たくみに、たけおよびがたく、ことばつよく、すがたおもしろき様を好みて、余情妖艶の躰を詠まず」。(むかし、貫之、巧みに歌の心を表現し、崇高な感じは凡人及び難く、言葉は健全で強く、清げな姿のおかしさを好みて、余情妖艶の歌躰を詠まず)。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)