帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第七 賀歌 (354)伏して思ひ起きて (355)鶴亀も千年の

2017-12-07 19:27:03 | 古典

            

                        帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、「言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)」を心得るべきである。さらに、藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も。

 

古今和歌集  巻第七 賀歌354

 

(本康親王の七十の賀の、後の屏風に詠みて書きける。素性法師)

伏しておもひ起きてかぞふるよろづ世は 神ぞしる覧わが君のため

(仁和帝の弟の・本康親王の七十の賀の後の屏風に、詠んで書きつけた・歌)そせい

(伏して思ひ起きて数える万世のことは、神ぞ知る、神が御覧になるでしょう、わが君の為に……伏して思い立ち起きて数える・気になる、よろづ夜のことは、かみ(女)ぞしる、見るでしょう、わが貴身の多女)。

 

「神…神さま…かみ…言の心は女」「しる…知る…汁…にじむ…潤む」「覧…らん…らむ…だろう…ご覧になる…見る…見とどける」「見…覯…媾…まぐあい」「ため…為…多め…多くの女たち…多気のおんなたち」。

 

気がかりな万世の後のことは、神ぞ知る、御覧になっているでしょう、わが君の為――歌の清げな姿。

気になる万夜のことは、かみ(女)の身がしる、見るでしょうね、わが君の多女たち――心におかしきところ。

 

 

古今和歌集  巻第七 賀歌355

 

藤原三善が六十賀によみける     在原滋春

鶴亀も千年の後は知らなくに 飽かぬ心にまかせ果ててむ

この歌は、ある人、在原時春がとも言ふ。

(藤原三善の六十賀に詠んだ・歌)在原滋春、又は時春)

(鶴亀も千年の後は、どうなってるか・知らないのだから、生きることに飽きない心に任せて、命は果てましょう……鶴亀も千歳の後は、知らないものを、飽きることない好き心に任せて・気にせずおとこは、果ててしまおう)。

 

「なくに…(知ら)ないのに…(知ら)ないものを」「あかぬ…飽きない…満足しない」「てむ…(果てて)しまおう…その情態の実現への意志を表す」。

 

千歳長生きしてしても、誰も知らないのだから、生きることに飽きない心に任せて、生きたいだけ生きて果てましょう――歌の清げな姿。

君の貴身も、千歳の後は知れないのだから、満足できない好き心に任せて、果てたい時に果てましょう――心におかしきところ。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)