帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第七 賀歌 (364)峰たかき春日の山にいづる日は

2017-12-16 19:53:10 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、「言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)」を心得るべきである。さらに、藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も。

 

古今和歌集  巻第七 賀歌364)峰たかきかすがのやまにいづる日は

 

春宮の生れ給へりける時に参りてよめる 典侍藤原因香朝臣

峰たかきかすがのやまにいづる日は くもる時なく照らすべらなり

(皇太子が御生まれになった時に、中宮の里に参って詠んだと思われる・歌)(ないしのすけふぢはらのよるかのあそん)

(峰たかき春日の山に出る太陽は、曇る時なく、万物を・照らすことでしょう……み音高き春日の山ばに生まれ出る、日の御子は、苦盛る時なく、照り輝くことでしょう)

 

「峰…御音…御声…うぶ声」「春日の山…春日大社の背後の山…藤原氏を象徴する山…峰の標高が高いのではない」「日…日の御子…皇子」「曇る…苦盛る」「照らす…美しく輝く…恵みを与える」「べらなり…のようすだ…するでしょう」。

 

藤原氏の象徴の春日の山にでる日を言祝ぐ――歌の清げな姿。

うぶ声高く、藤原氏の女の里に生まれた皇子、やがて美しく照り輝き、恵みを与えることでしょう――心におかしきところ。

 

皇子誕生の祝賀の歌。

 

 

巻第七の終りに、古典和歌のほんとうの解釈に必要なことを、気付いたままに記す。


 江戸時代から現代まで続いている国学・国文学による常識的解釈の変更である。言葉の意味に関する発想の転換、即ち、歌言葉には字義以外に「言の心」と言われる意味があり、その上に、「浮言綺語の戯れのよう」に一つの言葉が多様な意味を孕んでいることを、積極的に利用して歌は詠まれていたのを知ることである。

旧態依然とした国文学的解釈の構造改革である。革新的手法の発見である。それは、平安時代の歌論と言語観、即ち原点に返ることであった。国文学が、ほんとうの学問であるならば、上のような事は、学問が進めば明らかになるべき事であるが、今や、国文学という学問は、袋小路に入った返る力無きカエルか、数百年も潮干の潟で身動きできない大船か、そのまま朽ち果てるだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)