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帯とけの九品和歌
公任の歌論『新撰髄脳』には、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、紀貫之のいう「歌のさまを知り、言の心を心得る人」であることが必要である。
「九品和歌」 中品中
すぐれたることもなく、わろきところもなくて、あるべきさまをしれるなり
(優れたところも、悪いところもなくて、あるべき様を知ってはいるのである……優れたところも、良くないところも無くて、歌のあるべき表現様式を知ってはいるのである)
春きぬと人はいへども鶯の 鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ
(春が来たと人は言っても、春告げ鳥の・鶯が鳴かない限りは、春では・ありはしないだろうと思う……心に春の情がきた・身には張るものがきたと、女は言っても、浮くひすのように泣かないかぎりは、そうでは・ありはしないだろうと思う)
言の戯れと言の心
「春…季節の春…情の春…張るもの」「人…他人…人々…女」「鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は女…うぐひす…鳥の名…名は戯れる。浮く泌す、憂く秘す」「鳴く…泣く」「じ…ないだろう…打消の推量の意を表す」
歌の清げな姿は、季節の春についての感想。
心におかしきところは、性愛における女の春情について、男の感想。
古今集 春歌上にある。深い心は無い。歌の様(表現様式)は知っている人(壬生忠岑)の歌である。
いにし年ねこじてうへし我が宿の 若木の梅は花咲きにけり
(去年、根から掘り起こし植えた我が家の、若木の梅は花咲いたことよ……去った疾し、根こじ入れて、うえつけた、わがや門の、若木のおとこ花咲いてしまったのねえ)
言の戯れと言の心
「年…とし…疾し…一瞬のこと」「根…おとこ」「こじて…掘り起こして…こじ入れて」「うえし…植えた…うえつけた」「宿…女…やと…屋と…や門…おんな」「梅…木の花…男花…おとこな花」
歌の清げな姿は、我が家に植えた若木の梅に花が咲いたという。普通の姿をしている。
心におかしきところは、はかないおとこのさがについての女の詠嘆。
深い心はない。拾遺和歌集 巻十六 雑春に、花見の歌や屏風絵の歌の群の中に置かれてある。
原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。
以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。
◇「春」という言葉を季節の春と決めつけ、この歌では、春情や張るという意味など、論理的にあり得ないとばかり排除してしまったとき、和歌は、貫之や公任とは異なる文脈に移し植えられている。「はるきぬと人はいえども」の歌は、姿以外なにも見えなくなった。
◇「梅の花」という言葉が、男花などという意味が有るなど、今の人々には夢にも思えないだろうが、平安時代、手習いの初めに習う歌は「難波津に咲くやこの花冬籠り」である。此の、木の花は梅の花で「皇太子」の比喩である。つまり、手習いの最初から梅の花は男花と教えられた。「わがやどの若木の梅は花咲きにけり」の「心におかしき」意味は大人なら自ずからわかるのである。