帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの九品和歌 上品上

2014-11-04 00:12:54 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌

 
  藤原公任は和歌の良しあしを人に「さとし」示すために「ここのしなのやまと歌」を撰んだと、後拾遺和歌集の撰者参議藤原通俊は、応徳三年(1086年)四番目の勅選集の序文に紹介している。「九品和歌」のことである。
 
  公任の歌論書『新撰髄脳』には、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて、『九品和歌』を紐解いてゆく。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、紀貫之のいう「歌のさまを知り、言の心を心得る人」であることが必要である。

 今日は文化の日。日本の伝統文化の根底にあるのは和歌である。しかし、残念ながら伝統的和歌の意味は、今や埋もれ木のようになってしまった。「国文学」が解く和歌の意味は、貫之や公任の歌論を無視するか曲解したままである。そうせざるを得ないほど、伝統的和歌を聞き違えている。逆に、当時の人々と同じように和歌の意味を聞きとれれば、貫之や公任の言うことを、無視するどころか、納得了解し仰ぎ見ることができるのである。


 「九品和歌」
前大納言公任卿

 上品上
 
これは言葉たへにして、あまりに心さへあるなり
 
(これは、言葉妙にして、余りに、心さえ有るのである……この上品上の歌は、言葉の用い方が巧妙で・絶妙に優れていて、姿清げで・そのうえ、深い心、心におかしきところさえ有るのである)

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れゆく舟をしぞ思ふ
 
(ほのぼのと、明けゆく・明石の浦の朝霧に島隠れ行く船を、なごり惜しく思う……ほのぼのと、明けゆく証しの心が、浅切りのために島隠れ逝く、ふねを・わが命を、惜しく思う……ほんのりと赤しの女の心が、浅限りのために肢間隠れ逝く夫根を、愛しと・惜しと思っている)


 歌の清げな姿は、明け初める明石の浦の景色。
 深き心は、おそらく流罪を科せられた流人の、無罪の証明が浅いまま打ち切られて、島に流され逝く、わが命への愛着のこころ。
 心におかしきところは、ほんのり紅潮しはじめた妻女が、浅切りして肢間隠れ逝く夫根を、愛しと惜しむところ。
 

 春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞みて今朝は見ゆらむ
 (立春になったというだけでかな、美吉野の山も霞んで、今朝は見えているだろう……心に・春を迎えたというばっかりに、美吉野の山も、春霞に・かすんで、今朝は見えるのだろうか……張る絶つというばかりにや・目もかすみ、身好しのの山ばも、ぼんやり今朝は見るのだろうか)


   心得るべき、言の
戯れと言の心
 「春…季節の春…青春…春情」「たつ…立つ…季節がくる…ものが起立する…断つ…絶つ…尽きる」「にや…であろうか…なのでか」「み吉野…見良しの…身好しの」「山…山ば」「かすみて…霞んで…(春霞に)かすんで…(夜の山ばの心風激しく眠っていないからかな)目がかすんで」「見…覯…媾…まぐあい」

 

歌の清げな姿は、吉野の山の春霞にかすむ景色にこと寄せた、立春を迎えた気分。

深き心は、青春を心にも身にも迎えた青年の心情。

心におかしきところは、想像される昨夜の激しい愛の模様と、一過性のはかないおとこの性(さが)。

 


 和歌は、清げな姿、深い心、心におかしきところ、の三つの意味の協和である。

両歌は、それぞれの意味も上質なので、最上級の評価を受けたのだろう。


 

原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。


帯とけの九品和歌 上品中

2014-11-04 00:08:34 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌



 藤原公任は和歌の良しあしを人に「さとし」示すために「ここのしなのやまと歌」を撰んだと、後拾遺和歌集(
四番目の勅選集)の撰者、藤原通俊は、応徳三年(1086年)、その序文に紹介している。「九品和歌」のことである。


 公任の歌論書『新撰髄脳』には、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて、『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、紀貫之のいう「歌のさまを知り、言の心を心得る人」であることが必要である。


 

「九品和歌」 上品中


 ほどうるはしくして、あまりの心あるなり

(程が麗しくして、余りの心が有るのである……表現の程度が清げであって・程良い、余りの心即ち心におかしきところがあるのである)

 

み山にはあられ降るらし外山なる まさ木のかづら色づきにけり

(深山には、あられが降っているにちがいない、近くの山のまさ木の桂、色付いたことよ……深い女の山ばでは、荒れふるにちがいない、浅い山ば成る・おとこ木色尽きる、まさ木のつる草は色付いてしまったなあ)


 心得るべき、言の
戯れと言の心

「みやま…深山…深い山ば…おんなの山ば」「あられ…霰…冷たいおとこ雨」「らし…確信をもって推量する意を表す」「外山…麓の山…低い山ば…おとこの山ば」「なる…である…成る」「まさきのかづら…柾木の桂…落葉高木…桂男…木の言の心は男…葛…木に絡みつくつる草…草の言の心は女」「色…色彩…色情…色欲」「つき…付き…尽き」「けり…気付き・詠嘆」


 歌の「清げな姿」は、晩秋の景色。

「心におかしきところ」は、女と男で異なる飽きの山ばの高さや形、情況。

深い心は、永遠に異なる女と男のさが。
 神楽歌という。神の御前でも宴席でも謡える。

 

 

あふ坂の関の清水にかげ見えて 今やひくらむもち月の駒

 (逢坂の関の清水に、映る・影見えて、今なのだなあ、ひき連れて来たようだ、望月産の駒……合う坂の山ばの難関の、清い女に陰り見えて、今なのか、しお引くのだろう、望月のこ間)

 

心得るべき、言の戯れと言の心

 「あふさか…逢坂…地名…名は戯れる、逢う坂、合う坂、和合の山坂」「関…関所…難関…和合の山ばは男女で一致し難い」「清水…逢坂に湧く清水…清い女」「清…美しい…汚れがない」「水…女」「かげ…影…映る姿…陰り…心の曇り」「や…感嘆・詠嘆・疑問などの意を表す」「ひく…引き連れる…引きさがる…(潮などが)引く」「望月…地名…名は戯れる、信濃の望月牧場産、満月、充実したつき人おとこ」「月…月人壮士(万葉集の歌詞)…おとこ…ささらえをとこ(万葉集以前の月の別名)」「駒…こま…股間…おとこ」

 

 歌の「清げな姿」は、八月の望月のころ諸国より献上される駒を逢坂に迎える風景。

 「心におかしきところ」は、女と男で異なる合う坂の山ばの風情。

 深い心は、屏風の絵に添えた歌なので、もとよりない。


 原文は『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。



 以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の結論である。


◇日本の伝統文化の根底にあるのは和歌である。しかし、残念ながら伝統的和歌の意味は、今や埋もれ木のようになってしまった。「国文学」が解く和歌の意味は、貫之や公任の歌論を無視するか曲解したままである。そうせざるを得ないほど、伝統的和歌を聞き違えている。逆に、当時の人々と同じように和歌の意味を聞きとれれば、貫之や公任の言うことを、無視するどころか、納得了解し仰ぎ見ることができるのである。


◇仮名序の結びに「歌のさまをしり、ことの心をえたらむ人は」古今の歌を仰ぎ見て恋しがるだろうとある。今や、或る本はこれを、「歌のあり方を知り、物事の真意義をわきまえているような人は」と読み、他の本では「うたのさまをしり、ことの心をえたらん人は」と読み流し、又或る本では「和歌の義・体・趣を知り、事の心(いろいろな事柄の本質)を心得ているような人は」と読む。内容の伝わらない意訳に終わっている。

「こと」を「言」と読んでみれば、もやもやとしていた事柄が晴れて、紀貫之のいうように、いにしえを仰ぎ見て、歌が、恋しくなる(魅力あるものになる)。