帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰髄脳 (四)

2014-11-20 00:13:26 | 古典

       



                   帯とけの新撰髄脳



 公任の歌論の優れた歌の定義、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところのあるを優れたりといふべし」に従って、例歌として撰ばれた九首の優れた歌を紐解いている。

参考にするのは、古今集仮名序の結びにある紀貫之の言葉、「歌のさまを知り、言の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と、古来風躰抄に藤原俊成のいう「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はれる」である。

 


 「新撰髄脳」

 

思ひかねいもがり行けば冬の夜の 川風寒み千鳥鳴也

(思いに堪えられず、恋しい女の許へ行けば、冬の夜の川風寒くて、千鳥が鳴いている……思い火、堪えられず、愛しい女をかり逝けば、冬の夜の女心に吹く風、寒々しくて、女は頻りに泣いている)


 言葉の多様な意味

「思ひ…思い火」「いも…妹…恋人…愛しい女」「がり…許に…かり…狩り…猟…めとり…まぐあい」「ゆけば…行けば…逝けば…尽き果てれば」「川…言の心は女」「風…心に吹く風…寒風・冷やかな心風など」「さむみ…寒いので…寒くて」「千鳥…しば鳴く小鳥…頻りに泣く女」「鳥…言の心は女」「鳴く…泣く」


深き心は、満ち足りる事なき性愛・煩悩。

清げな姿は、寒風に千鳥鳴く、河辺を恋人の許へ行く男の様子。

心におかしきところは、男の燃える思火の果てに女の心に吹いた寒風。
 
 
(拾遺集 題しらず、貫之の歌) 


 

わがやどの花見がてらにくる人は 散りなむ後ぞ恋しかるべき

(我が宿の花見ついでに来る人は、散ってしまうだろう後にだ、花を・恋しがるだろう、きっと……わが家の・吾がや門が、お花見しつつ繰り返す妻は、お花の・散ってしまうだろう後にだ、恋しがり、かりするだろうな)

 

言葉の多様な意味

「やど…宿…家…言の心は女…やと…屋門…おんな」「と…門…戸…言の心は女(女神があまの岩とにお隠れになられた時すでに)」「花…木の花…梅・桜…言の心は男(難波津の歌の咲くやこの花は梅、このときすでに)…おとこ花」「見…見物…覯(詩経にある詞、まぐあひと訓ず)…媾…みとのまぐあひ(古事記にあることば)…まぐあい」「がてら…ついでに…しながら」「くる…来る…繰る…繰り返す」「ひと…人々…女」「ちりなむ…散りなむ…散ってしまうだろう…(おとこ花が)果ててしまうだろう」「がる…のように思う…かる…狩る・猟…刈る…まぐあう」「べき…べし…きっと何々だろう…確実な推量を表す」

 

  

 深き心は、はてしない乞い心・煩悩。

 清げな姿は、来たついでに花見している客人、亭主の自慢げな感想。

 心におかしきところは、わが妻は、繰り返しさくらかりして散った後も乞いしかるというところ。

    
     (古今集 花見に来た人に詠んで贈った、躬恒の歌)

 

 

かぞふればわが身につもる年月を おくりむかふと何いそぐらん

(数えればわが身に積る年月を・しぜんに老いゆくものを、送り迎えると、正月の・何を準備しているのだろうか……彼ぞ、振れば、わが身につもる疾しつきを、送り迎えると、何を急いでいるのだろうか・女たちよ)

 

言葉の多様な意味

「かぞふる…数える…計算する…彼ぞ振る…花ぞ降る」「としつき…年月…疾し突き…疾し尽き…(おとこの)早過ぎる果て」「おくりむかふ…旧年を送り新年を迎える…往復運動する…振る」「いそぐ…準備する…急ぐ」「らん…らむ…見ている事実について原因理由を推量する意を表す…どうしてそんなことをしているのだろう」

 

 

 深き心は、老いも、ものの尽き果ても必ずやってくる。

 清げな姿は、正月の行事の準備に忙しい女たちの様子。

 心におかしきところは、女たちの、としつきを送り迎えるありさま。

 

    (拾遺集 斎院の御屏風に十二月つごもりの夜書きつけた歌)。


 

これらなんよき歌のさまなるべき。(右九首の心詞をよくおもふべし)。

 これらは良き歌の様式であるはずだ、(上に掲げた九首の、深き心・心におかしきところ及び歌詞を、よく吟味して参考にするといい)

 

(紀貫之のいう「言の心」を心得れば景色の裏に人の気色が見える。ただし「川」や「鳥」などの言の心が女であること、「月」や「梅」や「桜」の言の心が男であることは、論理では実証も証明もできない。古事記、万葉集、伊勢物語、古今集などの歌を、その気になって読めば、そうと心得る事が出来る。また、「いもかりゆく」や「あまのつりふね」などは、藤原俊成のいう「浮言綺語に似た戯れ」である。歌の言葉など気ままに戯れていることを前提に読めば、心得る事が出来る。言葉の戯れは人の理性が捉えられるようなしろものではない。唯ただ、心得る人は歌が恋しくなる)。


 

「新撰髄脳」の原文は、続群書類従本による。