帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰髄脳 (五)

2014-11-21 00:04:32 | 古典

       



                   帯とけの新撰髄脳

 



 一般に云われる歌文字の使用上の難点を指摘し、優れた歌を例示して、その難点を取り去るべきか、取り去るべきではないかを教える。



 「新撰髄脳」


 事をあまたあぐる中(歌の病を多くいふ中なりし)に、むねと去べきことは、二所におなじことのある也。ただし、ことばおなじけれども、心ことなるは、去べからず。

事を多く挙げる中で(歌の病を多くいう中で)は、主としてとり去らなければならない事は、二か所に同じ言がある事である。ただし、同じ言であっても、言の心が異なれば、とり去る必要はない。



 み山には松の雪だに消えなくに みやこは野辺の若な摘けり

 (深山では松の雪さえ消えていないのに、都では野辺の若菜摘みしていることよ……深い山ばでは女の白ゆきさえ消えていないのに、宮こ・山ばの頂上では、延べのわが汝をつんでいることよ・感の極みで)


 言葉の多様な意味

「深山…みやま…深い山ば…高い山ば」「松…言の心は女(土佐日記などそのつもりになって読めば心得ることが出来る)」「雪…ゆき…白ゆき…男の情念…白つゆ」「都…宮こ…京…山ばの頂上…絶頂…感の極み」「のべ…野辺…延べ…延長…なおもづづく」「わかな…若菜…若女…吾汝…若妻」「な…菜…女…汝…(親しみ込めて)妻・もの」「摘…採…引…めとり…まぐあい」

 

みやまみやこ詞おなじき、心ことなり難ならず。ことばことなれども、心おなじきを猶去べし

 「みやま」と「みやこ」は、詞に同じところはあるが、言の心が、微妙に・異なり、難点ではない(取り去らなくてもよい)。言葉が異なっても、言の心の同じなのを、やはり取り去るべきなのである。


 (上の歌、清げな姿は早春の風景。心におかしきところは、人の願望する快感の極致の延長の表現。古今集春歌上、題しらず、よみ人しらず)

 

 

みさぶらひみかさと申せ宮城のゝ 木の下露は雨に益れり

 (お侍、ご主人に・御笠をと申し上げよ、宮城野の木の下の露は、雨にも増している……身にお付きのもの、女主人に・三重をと申し上げよ、宮来のの男の下つゆは、雨にも勝っている・吾めにも増して多情であるぞ)

 

言葉の多様な意味

「みさふらひ…お侍…身さぶらひ…身にお付きの物」「みかさ…御笠…三重…三つ重ね、男の性(さが)からすれば、これでも誇張である」「宮城…所の名…名は戯れる…宮こ…ものの極致」「木…言の心は男と心得る。ただし松は例外で女。待つ、長寿などと戯れるからか、言の心の原因理由など知る由もない」「したつゆ…下露…木の下の露…おとこのつゆ」「雨…男雨…おとこ雨」


 (上の歌、清げな姿は、宮城野の自然の景色。心におかしきところは、はかない男の願望を「あめ(雨…吾女)に勝れり」などというところ。古今集東歌、陸奥歌)

 

すぐれたる事のある時は惣して去べからず。

 (みさぶらひ・みかさ・みやぎに同じ文字が有るが)優れたことのある時は総じて取り去るべきではない。


 

「新撰髄脳」の原文は、続群書類従本による。