帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰髄脳 (八)

2014-11-26 00:15:34 | 古典

       



                   帯とけの新撰髄脳


 

 「新撰髄脳」


 古歌を本文にしてよめる事あり(其歌をとりて此のことばをよみたりときこゆる事也)。それはいふべからず。
  すべて我はおぼえたりとおもひたりとも、人も心得かたき事はかひなくなんある。

むかしの様をこのみて、今の人にことにこのみよみ、われひとりよしとおもふらめど、なべてさしもおぼえぬは、あぢきなくなん有べき。

これはみな人の知りたる事なれ共、まだはかばかしくしくならはぬ人のために粗書をくなるべし。

古歌を本にして詠む事がある。(其歌を取って此の詞を詠んだと聞こえる歌のことである・本歌取りである)、それは問題にするべきではない。
 すべて我は(本歌を)習得していると思っていても、他人が心得がたい歌であれば、効果なくつまらないのである。

昔の様を好んで、今の人に対して好んで詠み、我独り好しと思うようであるが、並みでそれほどとも思えない歌は味気ないものだろう。

これらはみな人の知っている事であるけれども、まだきっちりと習得していない人のために、大略を書き置くのである。


 
 

旋頭歌三十八字あるべし。(此儀、旋頭歌とはよのつねの三十一字の歌に七文字入たるをいふ也、すべて三十八字也)
 
旋頭歌は三十八字である。(この意味は、旋頭歌とは世の常の三十一字の歌に七文字を加え入れたのを言うのである。すべて三十八字である)。

 

 

 ます鏡そこ成る影にむかひゐて 見る時にこそしらぬ翁にあふ心ちすれ

 (真澄鏡、そこに映る影に向かって居て、見る時になのだ、知らぬ翁に逢う心地がする・老いたものだ……増す彼が身、其処の陰に向かい射て、見るときにだよ、知らない起きないものに出逢う心地がする)

 

言葉の多様な意味

 「ます鏡…真澄みの鏡…増す彼が身…間す彼が身…増す身の屈み…おきなのおとこ」「ゐて…居て…活動が収まって…いて…射て…放って」「見…(鏡を)見る…覯…媾…まぐあい」「をきな…翁…起きな…起立しない」

 

 この歌は、五・七・五・七・七・七の三十八字で旋頭歌。

 歌の清げな姿は、老いた己を鏡で見ておののく男。

 心におかしきところは、己のおとこの初めての衰えに慄くところ。

 

 

一つの様(此儀、三十六、七字によむ歌は一つの様にて、旋頭歌にはあらず旋頭歌は三十八、九字也。世のつねの五句三十一字の中に五文字加たる也。只一の様也)。
 (次の歌は)一つの様式(その意味は、三十六、七字に詠む歌は一つの様式であって、旋頭歌ではない、旋頭歌はあくまで三十八、九字である。世の常の五句三十一字の中に五文字加えてある。只、一つの様式である)。

 

かの岡に草かるおのこしかなかりそ ありつゝも君がきまさんみまくさにせん

(彼の岡で、草刈る男、そんなに刈らないでおくれ、有るままで、君がいらっしゃるときの、御馬草にするつもりなのよ……あの低い山ばで、おんなかるおのこ、そんなに駆らないでよ、在るがままでも、君の気増すでしょう、身間ぐさにするつもりのようね)

 

言葉の多様な意味

 「岡…丘…小高い山ば…浅い山ば」「草…言の心は女」「かる…刈る…めとる…まぐあう…駆る…逸る…心せく」「きまさん…来まさむ…いらっしゃるだろう…気増すでしょう」「みまくさ…御馬草…御馬の飼料」「みま…御うま…身間」「馬…うま…むま…おとこ」「む…意志を表す…そうするといいと勧める意を表す…婉曲な言い回しを表す」

 

 この歌は、五・七・六・五・七・七の三十七字である。

 歌の清げな姿は、岡で草刈る農夫への呼びかけ。

 心におかしきところは、女の生の心も顕わにおのこをひにくるところ。

 

 

又歌まくらに、古詞。日本記、国くにの歌に、よみつべき所など見るべし。

それに、歌枕(名所旧跡、歌によく詠まれた所)と古い歌詞は、日本記、国々に伝わる歌に詠んだところなどを見るとよい。

 

 (御本奥書)

 以祖父入道大納言(為家卿)自筆本 令書写畢 尤可為證本矣。

 参議藤原朝臣為秀

 祖父の入道大納言(為家卿)の自筆本を以て書写せしめ終えた、尤もそれは証本とする為である。

 参議藤原朝臣為秀


 

  参考:藤原俊成――定家――為家――為相(冷泉)――為秀(歌の家の一つ冷泉家の系譜)

 

 

 これにて、帯とけの新撰髄脳は終り。


 

 あとがき


 藤原公任の歌論、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」に従って、例歌として撰ばれた九首の優れた歌を紐解き、歌の病のある例歌四首及び旋頭歌など四首を紐解いた。

参考にしたのは、古今集仮名序の結びの紀貫之の言葉、「歌のさまを知り、言の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と、古来風躰抄に藤原俊成のいう「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はれる」である。

江戸時代の国学の和歌解釈を継承した国文学の和歌の解釈は、平安時代の文脈から遠く離れてしまったようである。今や、公任の歌論の解釈も、それによる和歌の解釈も不在である。歌の清げな姿に憶見を加える事が解釈ではない。また、序詞、掛詞、縁語などという概念は和歌の解釈には無力で不要である。もとより、平安時代には存在しない。

紀貫之の言うように、「歌の様」知り「言の心」を心得ると、歌の心が心に伝わり、古歌が恋しいほどになってしまった。数日休んで、これからも、和歌を紐解きつづける所存である。