帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百八十二〕三月ばかり

2012-01-19 00:04:56 | 古典

  



                                            帯とけの枕草子〔二百八十二〕三月ばかり



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


 清少納言枕草子〔二百八十二〕三月ばかり

 
三月ごろ、物いみしにといって、初めての所に、たまたま或る人の家に(仮の宿を求めて)、行ったところ、木々などたいしたこともない中に、柳といっても例のように、なまめかしうはあらず(若々しい美しさはなく)、広がって見えて、葉の醜くい感じなのを、「あらぬものなめり(めったに無い珍しいものなんでしょう…とんでもないもののようですね)」と言っても、(宿の人)「かゝるもあり(このような品種もあります)」などと言うので、

 さかしらにやなぎのまゆのひろごりて 春のおもてをふする宿かな

 (物知りぶって、柳の眉が広がっていて、春の表情を隠している宿かな……分別臭く柳眉が広がって、春のような艶かしい面を隠してる女だなあ)

と見えるよ。


 言の戯れと言の心

 「やなぎ…柳…男木…しだれ木…おとこ」「ひろごる…(葉が)広がる…繁殖する…煩わしい」「さかしら…賢ぶる」「柳のまゆ…柳眉…細い柳の葉のような眉のかたち…若い美人のたとえ」「春のおもて…春の表情…青春の表情」「おもてをふする…面を伏せる…(美しい)顔を隠くす」「宿…やと…女…女主人」。


 女主人の応えには、色気も洒落っ気もない。柳や柳眉の「言の心」を心得ていない。美しい顔をみずから台無しにしているような人とみえる。

 次ぎに「おかし」というべき艶のあるもの言いを示す。

 

 
 その頃、また同じ物忌しにそのような所に出かけているときに、二日目という日の昼ごろ、まったくすることもなく退屈さ増して、ただ今からでも参上するべき心地がしている、そんな時に、仰せ言(手紙)があるのでとっても嬉しくて見る。浅緑の紙に、宰相の君が代筆してとってもおかしく書いておられる。

 いかにしてすぎにしかたをすぐしけん くらしわづらふ昨日けふかな

 (どうして以前に行った所で過ごしているのでしょう、暮らしわずらう退屈な昨日今日ではないかな……どのようにして過ぎてしまったところで過ごしているのでしょうね、終わりにしづらい昨日の京なのかな)

などとある。私信として、(宰相の君)「けふしもちとせの心ちするに、暁にはとく(今日でさえ千年もという心地がしているので、暁にはすぐに・参上しなさいよ……京は千年もあってほしい心地がするのに、暁にはすぐに・はててしまうのよね)」とあり、この君のおっしゃろうとすることさえおかしいでしょう、まして、仰せごと(宮の御歌)のさまは、おろそかでない心地がするので、

 雲の上もくらしかねける春の日を ところがらともながめつるかな

 (雲の上・宮中では、暮らしかねた春の日を、場所柄共なので、長居していましたようです……雲の上、浮き天に漂うところでも、果てしかねた春情の火を、所柄だからと長めていましたようです)。

 私信として(宰相の君へ)「こよひのほども、少将にやなり侍らんとすらん(今宵ばかりには、少将にや・百夜通って思いを遂げるという前夜に逝ったとい人によ・なるのでしょうか……この好い酔いごとの時も、あと少々にでも、なろうとしているのでしょうか)」といって、参ったところ、「昨日の返しかねけるいとにくしいみじうそしりき(昨日の返し、雲の上に暮らしかねたは、とっても憎らしい、たいそう謗りましたよ)」と仰せられる。いとわびしう、まことにさることなり(とっても心細う、ほんとうにおっしゃるとおりである…とってもわびしく、ほんとうにそうなのである)。


 言の戯れと言の心

 「昨日けふ…昨日今日…昨日の京…過ぎてしまった絶頂のとき」「雲の上…宮中…極まり至ったところ…浮き天の波にでも漂うところ」「かねける…(暮らし)かねた…居づらくなった」。

 ほんとうに雲の上は柄に合わず暮らしづらかった。それに、宮をとりまく状況はすでに昨日の京となっていたので、笑い奉仕などし辛くなっていた。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。