帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百六十八〕神は松の尾

2012-01-02 00:05:00 | 古典

  



                                            帯とけの枕草子〔二百六十八〕神は松の尾



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


 清少納言枕草子〔二百六十八〕神はまつのお


 文の清げな姿

 神は松の尾、八幡の神。祭神は・この国の帝でいらっしゃったのでしょう、愛でたいことよ。行幸などには葱の花を御輿に飾ってさしあげる、たいそう愛でたい。大原野、春日の神、たいそう愛でたくていらっしゃる。

 平野の社、空き屋があったので、「何する所か」と問うたところ、御輿宿(行幸の御輿の宿)と言ったのもとっても愛でたい。斎垣に蔦などがとっても多くかかって、もみじが色々だったので、「秋にはあへず(秋には逆らえず)」という貫之の歌が思い出されて、つくづくと久しく車を停めていたのだった。水籠りの神、また興味深い。賀茂の神は言うまでもない。稲荷の神。


  原文

 神は、まつのお、やはた、この国のみかどにておはしましけんこそめでたけれ。行幸などに、な木のはなの御こしにたてまつるなど、いとめでたし。おほはらの、かすが、いとめでたくおはします。

 ひら野はいたづら屋のありしを、なにする所ぞとゝひしに、御こしやどりといひしも、いとめでたし。いがきにつたなどのいとおほくかゝりて、もみぢの色々ありしも、秋にはあへずとつらゆきがうた思いでられて、つくづくとひさしうこそたてられしか。

 みこもりの神、又おかし。かもさらなり、いなり。


  心におかしきところ

 かみは、待つの男、八はた。この国の身門でいらっしゃったのでしょう(かみは)愛でたいことよ。み逝きなどには、な木のお花を身腰に奉るなど、とっても愛でたい。山ば越し・大原野、春日野のかみ(女)、とっても愛でとうございます。

  ひら野は、ぐったりした屋がいたので、何しているところかと問うたときに、身越し宿り、と言ったのもとっても愛でたい。井がきにつたなどがとっても多く掛って、飽き色していたので、「秋にはあへず(飽きには堪えられず)」という貫之の歌が、思い出されてつくづくと、永らく車とめていたことよ。

  身籠りのかみ女)、又おかしい。鴨浮寝の女言うまでもない、井成り。


 言の戯れと言の心

 「かみ…神…上…女」「まつのお…松尾…松の尾の神…待つの男…(女は)待つのよ男を」「八はた…八・二十…やたら多く…はた又…神世から女は、来べき宵なりと男を待った。待つには待たじと飛び出すと悲劇がはじまる」「みかど…帝…水門…御門…この国のみかどは女、古事記によると、みとのまぐあひ、により、この大八島の国をつぎつぎお産みになられたのは、女神のいざな美のみこと」「なぎのはな…葱の花…な木の花…男花」「いたづら屋…空き家…無駄な屋」「屋…家…女」「井…女」「かも…賀茂…賀茂の神…鴨…水に浮寝する鳥」「鳥…女」「いなり…稲荷…伏見稲荷の神…井成り」。


 思い出した紀貫之の歌を聞きましょう。

  古今和歌集 巻第五 秋歌下、

 神の社の辺りをまかりける時に、いがきのうちのもみぢを見てよめる つらゆき
 
ちはやぶる神のいがきにはふくずも 秋にはあへずうつろひにけり
 
(ちはやぶる神の斎垣に這う葛も、秋にはさからえず色移ろったことよ……ち早ぶる女の井かきに這うつる草も、飽きには堪えきれず、色つきたことよ)。

 
 「ちはやぶる…神の枕詞…氏の枕詞…かみの枕詞…勢いの強い…盛んな…血早ぶる」「神…かみ…上…髪…女」「いがき…斎垣…井かき」「井…女」「くず…葛…つる草」「草…女」「秋…飽き…飽き満ち足り」「うつろひ…移ろい…色変わる…色づく…色果てる…色情尽きる」。

 歌には人の生の心が、言葉の戯れに包まれて清げな姿をして在る。

 貫之の歌は、枕草子の文と百年ほど隔たっているけれども、文芸の方法は同様で、言の戯れと言の心も変わらない。「かみ」の言の心は女。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。