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パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

石のカラト古墳&押熊瓦窯跡

2020年04月24日 | 日記
家の近くに2つの遺跡があります。
外出自粛ですが、散歩がてらに散策してきました。
石のカラト古墳は、ニュータウンに転居した頃、発掘調査が行われており
山の中に分け入って見学に行った記憶があります。

1.石のカラト古墳
 木津川市と奈良市の境の標高112mの丘陵緩傾斜面に築造された上円下方墳で、
 昭和54年(1979年)に、ニュータウン建設に先立って奈良国立文化財研究所によって発掘調査がおこなわれた。

 ①この古墳の墳丘上を府県境が通り奈良県側では「石のカラト古墳」
  京都側では「カザハヒ古墳」と呼ぶが、
  近年は石のカラト古墳と呼ばれる事が多い。
 「カラト」の古墳名は、石室が唐櫃に似ることに由来するという。
 「カザハヒ」は古墳の所在地の旧地名・風灰とのこと。

 ②上円下方墳は類例が極めて少なく奈良県下ではこの古墳が唯一のものであり全国的にも10例以下の珍しい墳形である。
 (ただ近代の天皇陵に採用されており明治、大正、昭和天皇はこの形式である。)

 ③古墳時代終末期の8世紀初頭頃の築造と推定される。
  終末期古墳の中でも超一級の古墳であり
  平城遷都後に作られた可能性が強く
  当時の有力者の墳墓であろう。

 ④墳丘は2段築成で、版築による。
  墳形は上段が円形で下段が方形の上円下方形で、
  上段は直径約9.2メートル・高さ約1.6メートル、
  下段は一辺約13.8メートル・高さ約1.2メートルを測る。
  墳丘表面には川原石による葺石が認められる。
  また墳丘周囲には暗渠・排水溝による排水施設が設けられている。
  主体部の埋葬施設は横口式石槨(石棺式石室)で、南方に開口する。
  盗掘のため副葬品の多くは失われているが、調査では漆片(漆塗棺か)のほか金・銀玉などが検出されている。

  古墳域は1996年(平成8年)に、国の史跡名勝天然記念物に指定されています。





上円下方墳



史跡 石のカラト古墳説明書
『この古墳は8世紀初めの築造と推定された。昭和54〈1979〉年の発掘調査で上段が円形(直径約9.2m),下段が方形一辺役3.8mの上円下方墳であることがわかりました。下段の表面には、30cm大の石を葺いていましたが、上段の葺石はほとんど失われていました。古墳のなかに造られた石室は壁画古墳として知られる飛鳥高松塚古墳と同じ横口式石槨で間口1.15m、 奥行2.6m、高さ1.2あり、15枚の凝灰岩の切石でできています。「カラト」の名はこの石室が唐櫃に似ていることからつけられたらしく、石室内は盗掘のため、荒らされていましたが漆塗りの棺が納められていたらしく、漆の破片、金・銀の玉など豪華な副葬品の一部が出ました。葬られていた人物の名はわかりませんが、奈良時代初めの貴族と推定され、平城京の北郊である奈良山丘陵に造られた数少ない終末期古墳として昭和62(1987)年の復原整備の後、平成8(1996)年国の史跡に指定されています。』    
                                                    奈良市教育委員会


周辺には桜が植えられており満開。


ツツジも満開。





 2.押熊瓦窯跡
  押熊瓦窯跡は、奈良市内に複数残される奈良時代に使用された瓦を製造する「瓦窯」跡の一つであり、
  近隣の歌姫瓦窯跡などと合わせ、「奈良山瓦窯群」の一部に含まれる存在となっています。
  西から順に乾谷瓦窯、押熊瓦窯、山陵瓦窯、音如ヶ谷瓦窯、歌姫瓦窯、市坂瓦窯、梅谷瓦窯などがあり、
  西の方(中山、押熊、乾谷)は早い時期に造られた登窯で、燃料である山林の伐採によって東に移行するにつれて
  効率のよい 平窯へと変化している。




押熊瓦窯跡 説明書

 『8世紀の奈良山では、平城宮の宮殿の屋根を飾る多くの瓦が造られていた。
この押熊瓦窯もそもうちのひとつで、1972年の発掘調査によって瓦を焼く6っの窯跡と、
互を製作するための工房の跡などがみつかった。
登窯形式の中山瓦窯から平窯形式の音如谷瓦窯へと変化していく中間のタイプに属し、歌姫西瓦窯と類似する。
1993年6っの窯跡のうち4号窯は歌姫西瓦窯を復元し、その他の窯跡は盛土と玉石で規模と位置を表示した。』

工房跡なのでしょうか広い空き地に草が茂り、訪れる人はほとんどおらず、
復元された互窯跡には、覆い屋で保存されていますが、かなり荒廃した状況になってしまっています。


登窯と煙抜き?"



  約1300年前、平城遷都が決定し、様々な工房が設けられた。京都と奈良の境にある奈良山丘陵では瓦窯が作られ、
  平城宮の宮殿や役所に葺かれた瓦、数百万枚が焼かれたと言われています。
  京都と奈良の境にある奈良山丘陵は瓦に必要な粘土や燃料に恵まれており、瓦の一大拠点となりました。
  法華寺の創建瓦を焼いたと判明した音如ヶ谷瓦窯跡、平窯形式の歌姫西瓦窯跡、押熊瓦窯跡などが点在している。
  「鹿背山」「音如ケ谷」「上人ケ平」「梅谷」「歌姫西」「歌姫」「押熊」「中山」「得所」「乾谷」と
  瓦窯跡が発見されていますが、
  木津川市の「音如ヶ谷瓦窯跡」、「鹿背山瓦窯跡」、「市坂瓦窯跡」、「梅谷瓦窯跡」の4ヶ所の瓦窯跡、
  奈良市の「歌姫瓦窯跡(歌姫西、押熊を含む)」、「中山瓦窯跡」を含め、総面積約3万8千m2の
  「奈良山瓦窯跡」として国の史跡に指定されています。


(他の方のブログ掲載の資料に印をつけて転載)


<参考>
  国の史跡に追加指定された
 「中山瓦窯跡」は、昭和47年の発掘調査により、
  平城宮第一次大極殿院の造営に瓦を供給した窯であることがわかり、
  奈良山でも最も早い時期に操業された瓦窯として重要な遺跡とされています。
  窯は作り替えを含めて10基が確認されており、構造に違いが見られます。
  操業されていた時期は、都が奈良に移ってから(710年)、
  一時恭仁京に移される(740年)までの間と考えられます。
                    
          (ブログは奈良市、木津川市、文化庁その他ブログの資料を参考にしました)

ブログ追加記載 (R 2.5.7)
 押熊瓦窯で焼成された鬼瓦のレプリカが、
近鉄高の原駅近くの「ふれあい橋」に埋め込まれているとのことで
写真を撮ってきました。
 
ふれあい橋

 
橋の左右についています


解説プレート


   
  
  
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