パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

白峯神宮・(京都非公開文化財特別公開)

2022年05月10日 | 日記
白峯神宮は「保元の乱」に敗れ、讃岐に幽閉された崇徳天皇を祀る神宮です。

崇徳天皇については、次の3か所が聖地とされています。

陵(みささぎ)は、宮内庁により香川県坂出市青海町にある白峯陵(しらみねのみささぎ)に治定されている。
宮内庁上の形式は方丘。
• 所在地: 香川県坂出市青海町字御山2677番地

香川県の中央に位置する連山五色台の西側、白峰の北側中腹標高260m地点に位置し、
四国八十八箇所第八十一番札所白峯寺に隣接している。

白峯陵では毎年9月21日に御正宸祭(ごしょうしんさい)の儀が執り行われる。
崩御地である四国・讃岐に所在し、土御門天皇火葬塚を除けば四国で唯一の天皇陵である。
また、配流先で造営された陵墓のうち、
宮内庁に天皇陵として治定されたのは
白峰陵と兵庫県南あわじ市の淳仁天皇淡路陵の2か所のみである。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

崇徳天皇御廟
・ 所在地: 京都市東山区祇園町南側
毎月白峯神宮の神官による月次祭が執り行われている。

保元の乱に敗れた崇徳上皇は、讃岐に流され悲嘆の日々を送っていたが、
血書をもって都への還幸を願ったが、聞き入れられず、46歳で崩御された。
上皇の寵愛を受けた阿波内侍は上皇の遺髪を請い受け、この地に一塚を築き、
亡き上皇の霊をお慰めしたと伝えられている。

この頃、京では異変が相次ぎ、崇徳上皇の祟りと恐れられたため、御影堂や粟田宮を建て慰霊したが、
今では廃絶し、この地のみが上皇を偲ぶ御廟となっている。



白峯神宮
・ 所在地 京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町


孝明天皇は幕末の国家動乱を避けるため、崇徳天皇の神霊を京都に奉還し鎮魂する白峯社の創建を決めた。
父帝の遺志を継ぎ、明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して
勅使を讃岐に遣わし、讃岐から京都へ、700年ぶりに崇徳天皇の神霊を迎えられた。
(明治6年(1873年)第47代・淳仁天皇の神霊を淡路から迎え合祀)

昭和15年(1940年)官幣大社に昇格し「白峯神宮」となった。

春の「京都市非公開文化財特別公開」で初めての公開とのことで行ってきました。蹴鞠、雅楽器、刀剣とともに
「崇徳天皇肖像画」一幅、「随身 源為義・為家肖像画」二福を拝観しました。
但し、残念ながら、実物は京都国立博物館で修復中とのことで、実物の写真と複製の軸が床の間に飾られていました。


実物の写真


複製の軸

(撮影禁止のため画像は他の方のブログより転載)

 
東京国立博物館蔵古画類集・崇徳天皇像画 

                      
白峯神宮蔵・随身源為義像画の実物写真?
従五位下左衛門大尉検非違使      


境内の「伴諸社」説明板  
闕腋(けってき)の袍・武官束帯
「為義(右 緋色装束・父)」
  「為朝(左 黒色装束・子)」  

随身の装束の色
 通常は、左手に黒色で四位以上の年配者、右手に緋色で五位以下が配置される。
 此処の随身像は右が父の為義で緋色、左が子為朝で黒色装束になっています。
   父為義の官位は従五位なので・・・?                   
 後からの作画と思われていますが、視線の方向から当初からの左右設定であろう。



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