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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

鳥形山 飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村大字飛鳥)

2014年01月16日 | 神社・仏閣
飛鳥寺は2回目となる。狭い道路を通り、やっとたどり着いた
以前は駐車料金はなかったが、これも時代の流れか
拝観料を支払うと同時に修学旅行の女子高生の集団が入ってきた

史跡 飛鳥寺跡
蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である
本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子






修学旅行生の拝観のため、小さな境内で待つことにした



百済から寺工などの来朝を得て建立に着手した、ここから眺める風景は朝鮮半島の慶州や扶餘の地と似ているという






本堂
現本堂は文政8年(1825)に再建された



釈迦如来座像(国宝)
修学旅行生には日本最古の仏像、また、体と顔の向きが違うのは「橘寺」を見ていると説明していた



また、左右の表情が違うということも
寒い中、東京からの女子高生はきちんと正座して聞いていた



釈迦如来座像の写真は別の日に撮影したものである 

中庭にある石塔



道標(どうひょう)



宝篋印塔(ほうきょいんとう)



飛鳥寺形石燈篭 
ガラスに映っているのは亡霊ではなく私だ



金堂礎石(3個)
創建当初(日本最初)  西暦596年






蘇我入鹿の首塚
本堂を西に出た畑の中に立つ「五輪塔」



古くは「真神の原」とよばれ、その南に伝飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡がある



その宮で中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を討った



その首がこの地まで飛んできたため、ここに埋めたとも伝える



さらにその奥には「飛鳥寺西方遺跡」  石組み溝に平行して並ぶ13個の穴が見つかった



塀や建物の柱穴の可能性があり、近江に遷都後の防衛拠点の建物ではとの見方も出ている



前日からの雨水を機械で汲み出す作業をしていた

首塚から飛鳥寺をみる



 


鐘楼



自由に撞くことができるので、高校生たちにも大人気。もちろん私もいい音を出すことができたと思う



思惟殿 



鐘楼と思惟殿



飛鳥寺を出ると強い雨が降りはじめ、止む気配もない
岡寺にもいきたいと思ってはいたが車では行けないということもわかったのであきらめることにした 


撮影 平成25年11月20日
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二上山 當麻寺 その2(奈良県葛城市當麻)

2014年01月15日 | 神社・仏閣
當麻寺への参拝は初めてだったので、境内の様子がよくわからない
塔頭寺院内(中之坊・西南院・奥院・護念院)の拝観はそれぞれ有料となるようだ

下の写真は「西南院」の門前だが、ここから中に入るには拝観料が必要になる



① 東塔と西塔が同時に見ることができる ② 宝物館がある ③ 紅葉が美しい 
3つを楽しめますよという、受付所の若い女性の薦めで「奥院」に入ることにした

奥院
浄土宗の子院。応安3年(1370年)、知恩院12世の誓阿普観が創建したもので、当初は往生院と称した
当院は知恩院の奥の院とされ、近世以降は「当麻奥院」と称された



受付所を過ぎると紅葉した木々のアーケードが迎えてくれる



自然にはあまり興味がない私でも美しさを感じる



奥院本堂<御影堂>(重要文化財) 



庫裏・寺務所 



阿弥陀堂(納骨堂)



西塔(国宝)と東塔(国宝)
近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺で奥院から望むことができるということを聞いたのでここへ来たのだが、宝物館を見て紅葉の美しさに感動しているうちに、目的の1つが消えてしまいこの写真1枚しか残っていない
しかも、撮したという記憶もない



境内の庭園及びその付近の風景









この場所は特に美しい、この時期に桜まで咲いている






 





楼門<奥院正門>(重要文化財) 
正保4年(1647年)建立の楼門は重要文化財



 





奥院から下りてくると、右に本堂(国宝)、左に講堂(重文)が見えてくる



三重塔の上層部分も遠くに見える






金堂や講堂の扉も閉まり、境内には参拝者の姿も見えない
當麻寺には初めて訪れたが、近くにある道の駅をよく利用しているので次回は時間に余裕を持って訪れたい
仏像が好きな私にとっては魅力のある寺である 




撮影 平成25年11月19日
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二上山 當麻寺 その1(奈良県葛城市當麻)

2014年01月14日 | 神社・仏閣
冷たい雨が降り続く中、當麻寺を目指した
仁王門近くの駐車場に車を駐めたが、無人の有料駐車場で箱の中に料金を入れるしくみになっている

當麻寺(当麻寺) 
奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。法号は「禅林寺」
山号は「二上山」。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である
宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている
開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされる
西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である

仁王門(東大門)
多くの寺が南大門を正門とするが、この寺は東大門が正門となる



仁王門の両側には歴史を感じる仁王像が護っている






梵鐘(国宝)
仁王門の左前方に小さな鐘楼があるが、「日本最古の梵鐘(白鳳時代)」で国宝とは驚いた

 

初めて訪れた寺だったので、驚きは喜びともなる



さらに先に進むと、左側「金堂」、中央「本堂(曼荼羅堂)」、右側「講堂」が視界に入ってくる
堂内に入るには本堂にて受付を行い拝観料を納めてからになる



金堂(重要文化財)
鎌倉時代の再建。入母屋造、本瓦葺。桁行5間、梁間4間



本尊の塑造弥勒仏坐像(国宝)乾漆四天王立像(重文)などを安置
日本における四天王像の作例としては、法隆寺金堂像に次いで2番目に古い



本堂<曼荼羅堂>(国宝)
金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間6間
梁行6間のうち、奥の3間を内陣、手前の3間を礼堂とし、内陣は須弥壇上に高さ約5メートルの厨子(国宝)を置き、本尊の当麻曼荼羅を安置する



堂内では僧侶から、安置されている曼荼羅や仏像等の説明がある



講堂(重要文化財)
金堂の背後(北)に建つ。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間4間
 


堂内は梁行4間のうち中央の2間分に板床を張り、本尊阿弥陀如来坐像、もう1体の阿弥陀如来坐像、妙幢菩薩立像、地蔵菩薩立像(以上重要文化財)のほか、多くの仏像を安置



西塔(国宝)
三重塔で、総高(相輪含む)は東塔よりやや高い25.2メートル。様式からみて、東塔よりやや遅れ、平安時代初期の建築と推定される



奈良時代から平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる



東塔(国宝)
三重塔で、総高は24.4メートル。細部の様式等から、奈良時代末期の建築と推定される



初重が通常どおり3間(柱が一辺に4本立ち、柱間が3つあるという意味)であるのに対し、二重・三重を2間とする。日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るのは異例である



三重を2間とするのは法起寺三重塔に例があるが、日本の古塔で二重目の柱間を3間でなく2間とするのは當麻寺東塔のみ 



次回に続く


撮影 平成25年11月19日
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神武天皇陵(奈良県橿原市大久保町)

2014年01月13日 | 神社・仏閣
橿原神宮北参道から歩いて5分程度の所に御陵の入口がある

神武天皇陵 
陵(みささぎ)は、奈良県橿原市大久保町にある畝傍山東北陵に治定されている。公式形式は円丘
神武天皇は、日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇(古事記、日本書紀による)



綺麗に清掃・整地されている参道を歩く、周囲が濃い緑に囲まれ陵墓の雰囲気が感じられる



しばらく歩くと遠くに鳥居がみえてくる



参道を抜けると一気に視界が開ける



参拝者は他に誰もいなかったが、背後に畝傍陵墓監区事務所があり、監視されている
不審者に思われないために、きちんと礼をしてから写真を撮るように努めた



鳥居から先は進入禁止となっているため、少し身を乗り出してレンズを向けた



天皇が即位した月日は明治期に新暦に換算され、2月11日とされた
これにより、2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた
紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた



周辺を歩いてみると左側に手水所があった



畝傍山の北東の麓、橿原神宮に北接する神武天皇陵は、円丘で周囲は約100m、高さ5.5mの広い植え込みがあり、幅約16mの周濠をめぐらせている



日本書紀、古事記によると、初代天皇とされる神武天皇は日向地方から、瀬戸内海を東に進んで難波に上陸したが、生駒の豪族に阻まれたため、南下して熊野に回った
そこで出会った3本足の「八咫烏」(やたがらす)に導かれて、吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力も従えて、大和地方を平定した



壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したという記事がある



陵墓全景(東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている)



神橋を渡り駐車場へ戻る



近くに「奈良県立橿原考古学研究所附属博物館」があり、藤ノ木古墳の出土品(国宝)が展示されている
ここでは希望すれば展示物の説明をしてもらうことができるのでかなりの知識を身につけることができる 


撮影 平成25年11月19日
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橿原神宮(奈良県橿原市久米町)

2014年01月12日 | 神社・仏閣
橿原神宮の周辺には何度か来ていたが、訪れるのは今日が初めてになる
駐車場から大きな鳥居が見える。予備知識がないまま参道を進む

橿原神宮 
橿原神宮は、御祭神・神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てられ即位の礼を行われた宮址に、明治23年に創建された

一の鳥居(表参道)  
第一鳥居、高さ9.77m、幅約7.5m
表参道広場から西に向かって、大参道が真っすぐ延びている。一の鳥居が建つ中央の主道の両側に橿の並木が続き、さらにその両外側に副道が設けられている



神橋(表参道)・二の鳥居(表参道)
二の鳥居の手前を横切る宮川を渡る反り橋として架かっており、両側には平橋がある
第二鳥居、高さ10.51m、幅約8.1m 
宮川にかかる神橋を渡ると二の鳥居がある。参道はここから一直線になり、南神門広場に至る



手水舎



南神門
表参道を西に進むと南神門に達する。南神門は素木建の八脚門で屋根は切妻造の桧皮葺



南神門の石段を上がり神域に入ると、背後に畝傍山を控えた雄大な社殿が眼前に開ける



外拝殿 
畝傍山を背景に、両脇に長い廻廊を連ねた壮大な入母屋造りの外拝殿(げはいでん)は、昭和14年に完成



外拝殿の石階段を上ると、正面に内拝殿が見え、その屋根越しに幣殿の千木・鰹木が金色に輝いてそびえている



内拝殿 
内拝殿(ないはいでん)は紀元祭その他重要な祭典に使用され、また特別参拝の拝殿となる



さざれ石
小さな石が集まった隙間に炭酸カルシウムや水酸化鉄が入り込み、固まってこのような岩になった



 


橿原神宮には表参道の他に北参道と西参道があるが、この鳥居は北参道の鳥居



この場所で散歩していた男性に声を掛け、「神武天皇陵と考古学研究所」の場所を尋ねると
親切な男性で神武天皇陵まで案内して下さった



橿原神宮と刻まれた石柱の字体が素晴らしい



 


菊花展 
花には興味はないが、これまで見た菊とは違っていたので撮ってしまった



鉢に一輪だけ咲く花とは違い、賑やかな美しさがある



もちろんこれらは受賞作品です



あまりにも面白いので撮ってしまった一枚
良く見ると、幹の部分が建物の中にある

 

境内を歩きながら駐車場に向かう






雨が降ったり止んだりの天気で、本来は美しいはずの深田池も今日はさえない



最初に通った参道を通り駐車場に戻る



親切な男性が話してくれた一つに立派な鳥居をこの神宮は持っているという 




撮影 平成25年11月19日 
コメント (2)
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安倍山 安倍文殊院(奈良県桜井市大字阿部)

2014年01月11日 | 神社・仏閣
モデルのはなさんが、付け人と仏像を巡るというTV番組で安倍文殊院の仏像を紹介していたのを視て興味を持ち
道の駅で出会った人も絶賛していたことで気持ちが動いた

安倍文殊院
大化の改新(645年)に創建された日本最古に属する寺院
華厳宗東大寺の別格本山としてその格式も高く、本尊は日本最大(7m)の文殊菩薩で快慶作の国宝である

金閣浮御堂 
当山出生の安倍仲麻呂公や安倍晴明公など安倍一族をお祭りするため、昭和六十年に、総金色仕上げの金閣浮御堂が完成



堂内には仲麻呂像、晴明像、をはじめ本尊に開運弁才天、厄除け守護の九曜星の神々
方位災難除けの十二天御尊軸が安置されている



「厄除け七まいり」(時計回りでお堂を廻り札を納める)の後、堂内参拝が可能





金閣浮御堂から、中央が本堂



客殿五台閣



 


西古墳(国指定特別史跡) 
飛鳥時代 この古墳は古来より安倍寺の創建者である安倍倉梯麻呂の墓であると伝えられている。
玄室には弘法大師お手作りと伝わる願掛け不動の石仏



本堂
寛文5年(1665)に再建された元安倍寺満願寺の本堂



「三人寄れば文殊の智恵」の格言は当山の文殊から生まれた
切戸文殊(京都府宮津市)・亀岡文殊(山形県高畠町)とともに日本三文殊に数えられる



本堂奥に附設して昭和48年に完成した文殊菩薩を安置する大収蔵庫がある

木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像 4躯(国宝)
巨大な獅子にまたがる総高約7mもある文殊菩薩像を4体の脇侍像が取り囲む文殊五尊像
2013年(平成25年)6月19日付で国宝に指定

本坊



境内周辺を歩いてみる



表山門 
安倍文殊院の表山門はこれであるが、車による参拝者の増加に伴いここから入山する参拝者は少ない



創建以来門は開いている。年中・夜中でも誰でも本堂の前で手を合わすことが出来る



この奥には池があり、金閣浮御堂が浮かんでいる



参道の奥には金堂



これが昔の参拝順路となる



釈迦堂 
 


梵鐘
寛永二十年の銘 この鐘には「古来より安倍の地三か村の分水の鐘、四六の刻にこの鐘を打ち各村へ分水する」旨の文字が刻印されている



不動堂 



十一面観音像



白山堂(重要文化財) 
流造屋根柿葺き、美しい曲線を持つ社殿で、当山の鎮守



白山菊理姫を主神として祭り、特に縁結びの神として信仰の厚い社





 
石佛群
江戸時代に安倍山境内地にひらかれた四国八十八ケ所、西国三十三ケ所の各霊場本尊佛として祀られていた石佛をこの地に一同に安置したもの






閼加井の古墳(通称智恵の窟) 
 


最後の一枚は参拝者に撮影を頼まれた場所である
私も一枚撮ってみた。なお、本堂では、抹茶とお菓子がでることも付け加えておく 




撮影 平成25年11月18日
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談山神社 その2(奈良県桜井市多武峰)

2014年01月10日 | 神社・仏閣
比叡(ひえ)神社の横に道標がある
これまで山奥に入って苦労の割にがっかりすることが多いのだが、距離も短いの行くことにした。



登山道の様子であるが距離よりも長く感じるのは連続する階段による



談山(かたらいやま) 
談山神社の裏山にあたり古くから「談所(だんじょ)の森」と名づけられ、中大兄皇子と藤原鎌足が大化改新の秘策をねったとされている(645年5月)



談山(たんざん)神社の名称の由来となった場所なら価値があるが……



御破裂山(ごはれつざん) 
山頂に藤原鎌足の墓があると案内板には書かれていたが、山頂付近に藤原家の墓はあるが最近のものだ
「あの墓がそうですか」と尋ねられたが「違うでしょう」「どこですかねぇ」「途中にあったのがそうかもしれませんね」
ここがそうだと思うが……



古くから国家に不祥事がある時に「神山が鳴動」した記録が多く残っている



山頂からの景色。この附近の自生する樹木は植物学上大変貴重とされているらしい



さて、下山すると登山口近くにパワースポットと書かれている場所がある

龍ケ谷の古代「岩くら」と「龍神社」
古神道の信仰の姿を今に残した霊地



古代信仰では神聖な岩に、天上から神を迎え祭祀を行った
この瀧は、大和川の源流の一つで、千古の時代を経て湧き続けている



十三重塔を別角度から



この談山神社は紅葉する場所とそうでない場所がはっきりしている






西宝庫(重要文化財) 
撮影スポット周辺なので観光客が途切れることがない



文化財の宝庫と知られる談山神社古来の名宝を収蔵してきた



本殿(重要文化財) 
藤原鎌足を祀る旧・別各官弊社。大宝元年(1615)の創建で、聖霊院、多武峯社とも号す
現在の本殿は嘉永3年(1850)造替の三間社隅木入春日造、朱塗極彩色の豪華絢爛たる様式で世に名高い



拝殿・楼門・東西透廊(重要文化財) 
左側が本殿、右側が拝殿、奥が透廊(折れ曲がる東西透廊は本殿を囲む特異な形態)



朱塗舞台造拝殿は永正17年(1520)の造営、中央の天井は伽羅香木で造られている

 

 








摂社・東殿<恋神社>(重要文化財) 
鏡女王・定慧和尚・藤原不比等を祀り、若宮とも称す



元和5年(1619)造替の談山神社本殿を寛文8年(1668)に移築したもの



縁結びの神として信仰があつい



むすびの岩座 
古来より神の鎮まる岩座といわれ信仰されてきた



東宝庫(重要文化財) 
本殿に向かって左右に位置する同形式の二つの宝庫は、校倉造りで元和5年(1619)の造営である



石燈籠(重要文化財)
竿に、南北朝動乱の始まった年、元徳3年(1331)の刻銘をもつ雄大かつ装飾性豊かな造りで、後醍醐天皇御寄進と伝えられている



最後の一枚は十三重塔。今度は新緑の季節に訪れたいと思う




撮影 平成25年11月18日
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談山神社 その1(奈良県桜井市多武峰)

2014年01月09日 | 神社・仏閣
十三重塔の存在は知っていたが、それが談山神社にあるとは知らなかった
桜と紅葉の季節には観光客で賑わうらしいが、早い時間帯だったので順調に駐車場まで行くことができた
駐車場から受付所まで歩いて10分近くかかる。途中、階段もあり高齢者や足腰の弱い人には厳しい

談山神社
奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある神社。祭神は中臣鎌足(談山大明神・談山権現)
神仏分離以前は寺院であり、多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)といった

正面入山入口受付近くの鳥居



正面には140段の石段があるが、平坦な道を選ぶこともできる



境内案内図を見て驚いたが見所満載の神社である
まず、ここに来た目的である十三重塔を目指す

十三重塔(重要文化財)   
藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である



多くの人が三脚にカメラを装填して写真を撮っている
近くの人に撮影ポイントを聞くと親切に教えてくれた



現在の塔は、享禄5年(1532)の再建で、木造十三重塔としては、世界唯一のもの
唐の清涼山宝池院の塔を模して建てられたと伝えられている。高さは約17m



この撮影場所は参道石段だが、ここにも沢山の人が居座っていて待たなければならない
塔の撮影は縦型と決めていたが、横に座っている人は横しか撮ったことがないと話してくれたので、横でも撮ってみた



談山神社のシンボル的存在なので、この周辺には人が多い
私も何組の人から記念写真撮影を依頼され喜ばれた



権殿(重要文化財)
天禄元年(970)藤原伊尹の立願により創建され、実弟の如覚が阿弥陀像を安置した元の常行堂。室町後期の再建



末社・総社拝殿(重要文化財)
寛文8年(1668)の造営。談山神社拝殿を縮小し簡素化した様式で、正面・背面ともに唐破風をもつ美麗な建造物



堂内の福禄寿大神 






末社・総社本殿(重要文化財)
延長4年(926)の勧請で、天神地祇・八百万神を祀り日本最古の総社



現在の本殿は、寛文8年(1668)造替の談山神社本殿を、寛保2年(1742)に移築したもの






本殿左壁面



神廟拝所(重要文化財)
定慧和尚が白鳳8年(679)父・藤原鎌足供養のため創建した妙楽寺の講堂で、塔の正面に仏堂をつくる伽藍の特色をもち、内部壁面には羅漢と天女の像が描かれている



現在のものは寛文8年(1668)の再建



閼伽井屋(重要文化財)
屋根はこけら葺で元和5年(1619)の造営
この中の井戸は「摩尼法井(まにほうい)」と呼ばれ、定慧和尚が法華経を講じたとき、龍王の出現があったと伝えられている



右側が閼伽井屋、左側が末社・総社本殿



閼伽井屋の前の2m程度の小さな滝だが、「虹が出た」と言ったらすぐ人が集まってくる



石段を上がり上から末社・総社拝殿を眺めてみるが、とても美しい風景だ



近くには写生をしている人もいる






末社・総社本殿



末社・比叡神社本殿(重要文化財)
寛永4年(1627)造営の一間社流造、千鳥破風および軒唐破風付、檜皮葺の小社ながら豪華な様式をもつ



もと飛鳥の大原にあった大原宮で、ここに移築し明治維新までは山王宮と呼ばれた 



今回紹介したのは、中央石段の左半分にあたる場所。建物のほとんどが重要文化財に指定されている

次回に続く


平成25年11月18日
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妙見山 法輪寺(奈良県生駒郡斑鳩町三井)

2014年01月08日 | 神社・仏閣
斑鳩三塔を巡る旅と称して、数年前の夏に法隆寺・法起寺・法輪寺を訪れた
写真を整理していて気付いたのだが法輪寺の写真が1枚もなかった
法輪寺の三重塔が落雷で焼失し再建されたものに落胆し「価値がない」と当時は思っていたためだったと思う

法輪寺
法輪寺は斑鳩の里でも北方にあり、土地の名によって三井寺(みいでら)ともよばれている
三井の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地に移したところから起こったと伝えている

表門
表門の左側には再建された三重塔の上の部分が見える






三重塔
当時国宝の三重塔は、昭和19年(1944)7月、落雷で焼失、全焼のため国宝指定も解除された



独力の再建となり住職が二代にわたり全国勧進行脚したが、再建は困難を極め、停滞した



地元の方々、作家の幸田文をはじめ全国の方々の支援で、宮大工 西岡常一棟梁のもと、昭和50年3月、三重塔は創建当初の様式にて竣工し、同年11月、落慶法要が勤修された



このような歴史や多くの人の思いも知らず、新しいから「価値がない」と決めつけた自分が本当に恥ずかしい
数枚の写真ではあるが心を込めて撮った



金堂
江戸正保2年(1645)の台風で堂宇が倒壊してしまった後、三重塔が修復された宝暦10年(1760)の翌年に再建されたもの



本尊の薬師如来の他、主だった仏像を安置していたが、老朽が進み、収蔵庫に移している



昭和25年の発掘調査により、旧金堂の位置を踏襲しながら、旧金堂よりひとまわり小さくなっていることがわかった



鐘楼
 





講堂(収蔵庫)
金堂と同時期に再建された江戸時代の小さな講堂を、昭和35年に耐火耐震の鉄筋コンクリートの収蔵庫として建てなおした
規模は縮小されているが、旧講堂の位置に建てられている



本尊の薬師如来をはじめ七体の仏像を安置し、出土瓦、伽藍図や塔の模型などを公開している
貴重な仏像が多く、それらを間近で観ることができるし、ここでは後ろ姿も観ることができる。床に座って観るのもいい



妙見堂
秘仏の妙見菩薩立像を祀り、一年の除災招福と諸願成就を祈願する節分の日の星祭りや、毎月の護摩供などを行なう、行(ぎょう)のためのお堂



地蔵堂
江戸時代の建物、鎌倉時代末の石造りの地蔵を祀っている
8月24日の地蔵盆には、三井集落の方々がここで御詠歌を上げ、数珠繰り(大きな数珠を参加者が輪になって繰る)をするほか、小豆を甘く煮たものを柿の葉に載せて供える習慣が残っている






西門(奈良県指定文化財)
上土門(あげつちもん)の数少ない遺構のひとつ
上土門は絵巻物などに多く描かれ、かつては武家の邸宅や寺院などに盛んに造られたが、現在では、この門のほかには、法隆寺西園院上土門が残るだけになっている



会津八一歌碑
歌集『鹿鳴集』に、当寺十一面観音菩薩を詠んだ歌



くわんのん の しろき ひたひ に やうらくの
 かげ うごかして かぜ わたる みゆ


法輪寺最後の一枚は、表門から出た所から見える五重塔




 撮影 平成25年11月17日
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法興山 中宮寺(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北)

2014年01月07日 | 神社・仏閣
法隆寺東院伽藍拝観後に中宮寺に立ち寄る
受付所の右横からなかの様子を覗うことができる
ここで写真を撮って戻るか、拝観料を払うか迷うところである



中宮寺参拝は2回目になるが、目にすることができるのは国宝の仏像だけということもあり私も迷ったが、以前来たとき受付所の人の対応が良かったので入ることにした



中宮寺
聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺
法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われる
宗派は戦後、法隆寺を総本山とする聖徳宗になったが、大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えている
創建の飛鳥時代から1300年の長きに亘り、尼寺の法燈を続けておるのは中宮寺だけといえる

大玄関
受付所の前に木々が植えられているが、尼寺の気配りなのか、札に名称が書かれぶら下げられている



写真を撮る側からすると、ないほうが有り難いのだが



小さな門の先が短い参道になっているが花の季節には鮮やかな山吹色に染まるようだ



表御殿
江戸中期(元禄年間)の書院建築



2007年~2008年に大規模な修復が行われた



11月中旬の気候とは思えないほど暖かく半袖になる女性もいた



本堂
本堂は高松宮妃の発願で昭和43年(1968年)に建立した和風の現代建築



この日は団体客が多くゆっくり拝観できるまで外で待つことにした



中宮寺は法隆寺東院伽藍に隣接しているため「伝法堂(国宝)」や「夢殿(国宝)」の一部も見ることができる






団体客が去ったので中に入る



木造菩薩半跏像(国宝)を拝観するのは2度目であるが本当に美しい
左・中央・右と場所を移動しながら説明用に流されているテープを4回も聴いてしまった
ここには、天寿国繍帳残闕<国宝・複製>も展示されているので左前に位置していると説明を良く理解することができる

本堂入り口前の池には「亀」が…… 親亀の背中に子亀をのせて~



会津八一歌碑



みほとけの あごとひぢに あまでらの
  あさのひかりの ともしきろかも




中宮寺にいるだけで、とても落ち着いた気持ちになる。最後の一枚は本堂



撮影 平成25年11月17日
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聖徳宗総本山 法隆寺 その3(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内)

2014年01月06日 | 神社・仏閣
東大門(国宝)
「中ノ門」ともよばれるこの門は、西院と東院の間に建っている



この門は珍しい三棟造りという奈良時代を代表する建物の一つ



東大門からは石畳の参道、その横に



四脚門には「上宮王院夢殿」と書かれている、上宮王院とは東院伽藍のこと



夢殿の金銅製の宝珠露盤が目に入ってくる



舎利殿(重要文化財)
聖徳太子が2才の春に東に向って合掌したときに、その掌中から出現したという舎利(釈迦の遺骨)を安置する建物



絵殿(重要文化財) 
絵師 秦致貞が延久元年(1069年)に描いた「聖徳太子絵伝」の障子絵(国宝)が飾られていた
太子の生涯を描いた最古の作品であるが、皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっている



絵殿には代わりに江戸時代に描かれた「聖徳太子絵伝」が飾られている

夢殿(国宝)
奈良時代の建立の八角円堂
聖徳太子が住んでいた斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院(東院伽藍)という
その中心となる建物がこの夢殿



堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置
長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている



この日は秋の開扉期間、参拝客で賑わっていた
救世観音像とは久しぶりの対面ということもあり、4・5回列に加わり拝観した



礼堂(重要文化財)



東院鐘楼(国宝)
この鐘楼は袴腰と呼ばれる形式の建物
内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊されており、中宮寺から移されたものといわれている



舎利殿の舎利を奉出するときや、東院伽藍で法要が営まれる時の合図として撞かれている



伝法堂(国宝) 
聖武天皇の夫人の橘古那可智の住宅を仏堂に改造、当時のお堂としてはめずらしく床が板張りとなっている
堂内には三組の乾漆阿弥陀三尊像(奈良時代)をはじめ多数の仏像が安置されている



東院伽藍の横に中宮寺があるが、後日紹介する






境内案内図のほとんどを廻った。午後からが良いと言われた西円堂に戻ることにする
その途中で紅葉が綺麗だったので撮った一枚だが、この建物がどこだったのか思い出せない

 

再び、西円堂(国宝)へ



繰り返しになるが、この場所は法隆寺では一番高い場所であり、五重塔を横から見ることができる
朝、係の男性から午後になると塔がはっきり見えるとアドバイスしていただいたので戻ってきた



確かに朝とはまったく違った光の当たりかたで、鮮明に見える



係の男性にお礼を言って帰ることにした



男性からは、近くに、藤ノ木古墳があるので是非寄ってみて下さいと言われた
親切には応えなければならない

史跡 藤ノ木古墳
直径50メートル以上、高さ約9メートルの円墳。未盗掘の横穴式石室で、家形石棺に成人男性2人が合葬されていた 



法隆寺から400m程離れた所にある



私も列に加わり1回目は肉眼で、2回目に撮ったのがこの写真、周囲はレンズフードの形



正面から見るとこのようになっている。ガラスに映っているのが私である
ガラスに顔を近づけるとセンサーが感知して古墳内が明るくなるしくみになっている



実際は写真のように明るくは見えない



前園実知雄(奈良芸術短期大学教授)や白石太一郎(奈良大学教授)は、2人の被葬者が『日本書紀』が記す587年6月の暗殺時期と一致することなどから、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部皇子の可能性が高いと論じている
一方、井沢元彦は副葬品や埋葬の様子から「元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟崇峻天皇が合葬された」との説を主張している



出土品は日本国(文化庁)所有で、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館において保管・展示されている 


撮影 平成25年11月17日
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聖徳宗総本山 法隆寺 その2(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内)

2014年01月05日 | 神社・仏閣
五重塔(国宝)
木造五重塔として現存世界最古 高さは31.5m



初重から五重までの屋根の逓減率が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である



五重塔の前に礼拝石がある



最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、北面は釈尊の入滅(涅槃)、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法が表現されている

 

金堂(国宝)
入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。上層には部屋はなく、外観のみである



上層の高覧には卍崩しのデザインと「人」字形の割束
竜の彫刻の支柱は江戸元禄期の修理の際に差しかえられた



堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する



 


回廊(国宝)
回廊は東側の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵につながり、西院伽藍を形造っている
平安時代以前の回廊は、経蔵、鐘楼の手前で閉じられ、大講堂、経蔵、鐘楼は回廊の外側に建っていた



大講堂寄りの折れ曲がり部分より北は平安時代の建立



経堂(国宝)
経典を納める施設として建立されたが、現在は、天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒僧正像(平安時代)を安置している



堂内には三伏蔵(他は金堂内と大湯屋前)の一つがあり、法隆寺を再興できるほどの宝物が収められていると伝えられている



大講堂(国宝)
桁行九間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺き



中央の銅灯篭は桂昌院(徳川家光の側室、5代将軍・綱吉の生母。通称はお玉の方)の寄進
徳川家と本庄家の家紋が刻まれている



仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立



薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)を安置する



鐘楼(国宝)
延長3年(925)に大講堂とともに落雷により焼失し、現在の鐘楼は経蔵の様式にならって再建されたもの



鐘楼の中に吊るされている梵鐘は、奈良時代前期の銅鐘(重文)で年中行事以外には撞かれていない



西側より東側の回廊の一間だけ長くなっているのは、金堂と五重塔のバランスを考慮したものだと考えられている



回廊の外から見える金堂と五重塔



正岡子規の句碑 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」



「法隆寺の茶店に憩ひて」と前書きがある。法隆寺に立ち寄った後、茶店で一服して柿を食べると、途端に法隆寺の鐘が鳴り、その響きに秋を感じた、というのが句意

聖霊院の前に広がるのは鏡池



聖霊院 
鎌倉時代の建立。この建物は本来は東室の一部であったが、1121年にこれを再建するときに南半を改造して聖霊院とし、聖徳太子像を祀った



太子の命日の旧暦2月22日を中心に(現在は3月22日~24日)、法隆寺最大の行事であるお会式(おえしき)が行われる

 

東室(国宝)
聖霊院の北に接続して建つ。奈良時代の建築で、当時の僧坊建築の遺構として貴重



妻室(重要文化財)
東室の東に建つ細長い建物



左側は「東室」、右側は「妻室」



綱封蔵(国宝)  
聖霊院の東に建つ、奈良時代~平安初期の倉庫



高床の宝蔵



 


食堂(国宝)
食堂本尊の薬師如来坐像(重文)は奈良時代の塑像









細殿(重要文化財)
食堂の横に建っている






左側は「細殿」、右側が「食堂」



大宝蔵院(百済観音堂)
百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で1998年(平成10年)完成



百済観音像をはじめとする寺宝を公開している




次回(東院伽藍)に続く

撮影 平成25年11月17日
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聖徳宗総本山 法隆寺 その1(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内)

2014年01月04日 | 神社・仏閣
法隆寺には何度も訪れているが、いつも1時間程度の滞在のためガイドの説明を聞きながら有名な建築物を眺め、大宝蔵院にて百済観音を拝観、夢殿には行ったり行かなかったりというものであった。
今回は1日かけて隅から隅まで歩くという目標を設定し道の駅を出発した。

法隆寺<世界文化遺産>
用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されたが、その実現をみないままに崩御された。
そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造ったのがこの法隆寺(斑鳩寺)である。

南大門(国宝)
法隆寺の玄関にあたる総門



創建時のものは、永享7年(1435)に焼失し、永享10年(1438)に現在の門が再建された



南大門をこえると正面に中門が見えてくる

中門(国宝)
入母屋造の二重門。正面は四間二戸、側面は三間

 

日本の寺院の門は正面の柱間が奇数になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である



門内の左右に塑造金剛力士立像(重要文化財)を安置



日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重である



中門横には平山郁夫書「日本最初の世界文化遺産 法隆寺」の石碑がある



中門左横に西院伽藍に入る受付所があるが、さらに左側に進むと五重塔が見えてくる



西大門への道は人通りも少なく木々の間からみえる五重塔が美しい



同じ参道に写真のように囲われた部分があるが調べてもわからない。周囲と違う所は色が黒ずんでいる点だが



三経院・西室(国宝)
西院伽藍の西側、聖霊院と対称的な位置に建つ。鎌倉時代の建立



三経院は、聖徳太子が勝鬘経・維摩経・法華経の三つの経典を注釈されたこと(三経義疏)にちなんで、西室の南端部を改造して建てられた



奥に人が見える所が西院伽藍の受付所、こちらまで足を運ぶ人は少ない



法隆寺に住む僧が生活していた建物






西室の左奥の石段を上がると西円堂が見えてくる

西円堂(国宝) 
西院伽藍の西北の丘の上に建つ八角円堂。鎌倉時代の建立



他に参拝者もいなかったこともあり、西円堂を担当している男性から建物の歴史や堂内の仏像に至るまで20分程度詳細な説明をしていただいた



扉の隙間から見る形にはなるが、堂内中央には、わが国最大級の乾漆像、本尊薬師如来座像(峯の薬師)が安置されている



係の男性の説明によると、西円堂は法隆寺で最も高い場所にあり五重塔が同じ高さで見ることができる。
写真を撮るなら午後が良いと勧められたので素直に従うことにした



法隆寺には、国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及んでいるという。
今回、紹介した場所は拝観料なしで見ることができる贅沢な場所。ほんの4・5分歩くだけで違った世界が広がり新しい発見がある。

次回(西院伽藍)に続く


撮影 平成25年11月17日
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律宗総本山 唐招提寺 その2(奈良県奈良市五条町)

2014年01月03日 | 神社・仏閣
唐招提寺には過去にも訪れたことはあるが、時間の関係で金堂のみ、それも建物だけというだけという記憶がある
修復工事の様子はTVでも視ていたので気にはなっていたが、今回、訪れる機会に恵まれた

講堂(国宝)
入母屋造、本瓦葺き。正面9間、側面4間
平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築された



東朝集殿は、壁や建具のほとんどない建物で、屋根は切妻造であったが、屋根を入母屋造とし、建具を入れている
奈良時代宮廷建築の唯一の遺構として極めて貴重である



堂内には本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)を安置する



芭蕉翁句碑
松尾芭蕉は貞享5年(1688)陰暦4月8日、唐招提寺に詣で鑑真和上像を拝しての句


 
若葉して 御目の雫 拭ばや (わかばして おんめのしずく ぬぐはばや) 

御影堂(重要文化財)
鑑真の肖像彫刻(国宝)を安置する(開山忌前後の6月5日 - 7日のみ公開)



当日は写経会場となっていたため、中に入ることは許されなかった



鑑真和上御廟
御影堂の右側にある道の奥に御廟がある



左右は苔に覆われ静寂が保たれ、その奥に御廟がある






本坊(蔵松院)






本願堂(旧開山堂)
元は開山堂と称し、国宝の鑑真和尚像は元はここに安置されていた。現在は聖武天皇を祀る



当日も鑑真和尚像(複製)が安置されていた

東室(重要文化財) 
 





経蔵、宝蔵(国宝) 
奈良時代の校倉造倉庫。経蔵は唐招提寺創建以前ここにあった新田部親王邸の倉を改造したものとされ、宝蔵はここが寺になってから建てられたもの






新宝蔵 
例年春と秋に期日を限って公開される
金堂にあった木造大日如来坐像(重要文化財)の他、「旧講堂木彫仏群」といわれる
もと講堂に仮安置されていた奈良時代末期~平安時代前期の一木彫仏像群が収蔵され、一部が展示されている
国宝の天平の鴟尾、「唐招提寺のトルソー」と知られる如来立像(重文)など必見



境内の風景



国宝金堂を右横から見る



戒壇
僧の授戒が行われる場所



覆堂があったが崩壊し以後は野天となっている



唐招提寺での最後の一枚は金堂




撮影 平成25年11月16日

ブログを始めて半年になりますが昨日で訪問者数が延べ人数で2万人をこえました。
これには本人も正直驚いていますし、今後の励みにもなります。
昨年10月からはブログ公開を意識して旅の写真を撮っています。
私がそうであったように写真をみて旅に出るきっかけになってもらえると幸いです。
今後ともよろしくお願いいたします。
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律宗総本山 唐招提寺 その1(奈良県奈良市五条町)

2014年01月02日 | 神社・仏閣
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします

律宗総本山 唐招提寺
奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山
本尊は廬舎那仏、開基は鑑真
井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐の僧鑑真が晩年を過ごした寺
 


南大門から入ると視界に金堂が入ってくる



金堂(国宝)
奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のもの。寄棟造、本瓦葺きで、大棟の左右に鴟尾を飾る



堂内中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置



唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたもの



寺名の「招提」は、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた
つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和尚のための寺」という意味



会津 八一石碑  
おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものこそおもへ



鼓楼<舎利殿>(国宝)
入母屋造、本瓦葺き 鎌倉時代・仁治元年(1240年)の建築



西側の対称的位置に建つ鐘楼に対し「鼓楼」と称するが、この建物には太鼓ではなく、鑑真が唐から請来した仏舎利を安置しており、そのため舎利殿とも称する



礼堂(重要文化財) 
鼓楼の東にある南北に細長い建物
もとの僧房を弘安6年(1283年)に改築した。桁行19間、梁間4間、入母屋造、本瓦葺き
中央やや南寄りに馬道(めどう、土間の通路)があり、それより北の10間分が東室、南の8間は仏堂となり、隣の鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための堂として礼堂(らいどう)と呼ばれる



鐘楼



次回に続く 


撮影 平成25年11月16日
コメント (2)
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