今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

聖徳宗総本山 法隆寺 その3(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内)

2014年01月06日 | 神社・仏閣
東大門(国宝)
「中ノ門」ともよばれるこの門は、西院と東院の間に建っている



この門は珍しい三棟造りという奈良時代を代表する建物の一つ



東大門からは石畳の参道、その横に



四脚門には「上宮王院夢殿」と書かれている、上宮王院とは東院伽藍のこと



夢殿の金銅製の宝珠露盤が目に入ってくる



舎利殿(重要文化財)
聖徳太子が2才の春に東に向って合掌したときに、その掌中から出現したという舎利(釈迦の遺骨)を安置する建物



絵殿(重要文化財) 
絵師 秦致貞が延久元年(1069年)に描いた「聖徳太子絵伝」の障子絵(国宝)が飾られていた
太子の生涯を描いた最古の作品であるが、皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっている



絵殿には代わりに江戸時代に描かれた「聖徳太子絵伝」が飾られている

夢殿(国宝)
奈良時代の建立の八角円堂
聖徳太子が住んでいた斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院(東院伽藍)という
その中心となる建物がこの夢殿



堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置
長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている



この日は秋の開扉期間、参拝客で賑わっていた
救世観音像とは久しぶりの対面ということもあり、4・5回列に加わり拝観した



礼堂(重要文化財)



東院鐘楼(国宝)
この鐘楼は袴腰と呼ばれる形式の建物
内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊されており、中宮寺から移されたものといわれている



舎利殿の舎利を奉出するときや、東院伽藍で法要が営まれる時の合図として撞かれている



伝法堂(国宝) 
聖武天皇の夫人の橘古那可智の住宅を仏堂に改造、当時のお堂としてはめずらしく床が板張りとなっている
堂内には三組の乾漆阿弥陀三尊像(奈良時代)をはじめ多数の仏像が安置されている



東院伽藍の横に中宮寺があるが、後日紹介する






境内案内図のほとんどを廻った。午後からが良いと言われた西円堂に戻ることにする
その途中で紅葉が綺麗だったので撮った一枚だが、この建物がどこだったのか思い出せない

 

再び、西円堂(国宝)へ



繰り返しになるが、この場所は法隆寺では一番高い場所であり、五重塔を横から見ることができる
朝、係の男性から午後になると塔がはっきり見えるとアドバイスしていただいたので戻ってきた



確かに朝とはまったく違った光の当たりかたで、鮮明に見える



係の男性にお礼を言って帰ることにした



男性からは、近くに、藤ノ木古墳があるので是非寄ってみて下さいと言われた
親切には応えなければならない

史跡 藤ノ木古墳
直径50メートル以上、高さ約9メートルの円墳。未盗掘の横穴式石室で、家形石棺に成人男性2人が合葬されていた 



法隆寺から400m程離れた所にある



私も列に加わり1回目は肉眼で、2回目に撮ったのがこの写真、周囲はレンズフードの形



正面から見るとこのようになっている。ガラスに映っているのが私である
ガラスに顔を近づけるとセンサーが感知して古墳内が明るくなるしくみになっている



実際は写真のように明るくは見えない



前園実知雄(奈良芸術短期大学教授)や白石太一郎(奈良大学教授)は、2人の被葬者が『日本書紀』が記す587年6月の暗殺時期と一致することなどから、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部皇子の可能性が高いと論じている
一方、井沢元彦は副葬品や埋葬の様子から「元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟崇峻天皇が合葬された」との説を主張している



出土品は日本国(文化庁)所有で、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館において保管・展示されている 


撮影 平成25年11月17日

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