訪問日 令和6年10月1日
身延山 妙法華院 久遠寺
日蓮宗の総本山
伽藍は、明治8年(1875年)の大火で焼失し、現在立ち並ぶ堂宇は再建されたものが多い
三門(二王門)
「空」「無相」「無願」の三解脱をあらわす三門

79世日慈上人の筆による「身延山」の扁額

仁王像(身延町指定文化財)
伝運慶若しくは定朝作で鎌倉期の彫刻


菩提梯
全287段の石段(菩提=覚り、梯=かけはし)
登り切れば涅槃に達するという意味の梯は、南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、7区画に分けられている

上りきれば満足感を得られると思うが、私は前回と同じように、上にある有料駐車場まで車を走らせた

さらに駐車場からも文明の利器を有効に利用した

手水舎

五重塔
現在の五重塔は3代目で平成20年(2008年)竣工

初代の塔は元和5年(1619年)加賀前田利家の側室寿福院の建立。文政12年(1829年)焼失
2代目の塔は万延元年(1860年)起工、慶応元年(1865年)落慶、明治8年(1875年)焼失


鐘楼


本堂
久遠寺の歴史について
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした
日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言を行ったが、受け入れられることはなかった

祖師堂
当時、身延山は甲斐の国波木井郷を治める地頭の南部実長の領地だった
信者であった実長の招きにより、日蓮聖人は文永11年(1274年)身延山に入山し、西谷に構えた草庵を住処とした
文永11年(1274年)5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開創の日としている

報恩閣
弘安4年(1281年)年11月には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名した
翌弘安5年(1282)年9月、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かった
同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じた

「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人の遺言のとおり、その遺骨は身延山に祀られた

拝殿
約200年後の文明7年(1475年)西谷から現在の地へと移転し伽藍の整備がすすめられた
のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護を受けて栄え、宝永3年(1706年)には、皇室勅願所となった

仏殿

これまで堂宇の外観を紹介してきたが、本堂から仏殿までは廊下によってつながっている
開基堂


境内の主な建物を回ってきたが、これより報恩閣から堂内に入る
本堂
昭和60年(1985年)落慶(日蓮聖人第七百遠忌記念事業)

堂内の様子


本尊:須弥壇を含めて高さ9mの一塔両尊四士

天井画の「墨龍」は加山又造の作

祖師堂(棲神閣)
江戸時代に廃寺となった「感応寺」のお堂を、明治14年(1881年)に移築・再建


日蓮聖人の神霊を祀る

御真骨堂
日蓮聖人の御真骨を奉安する八角堂


客殿

書院の襖絵

駐車場へ戻る

撮影 令和6年10月1日
身延山 妙法華院 久遠寺
日蓮宗の総本山
伽藍は、明治8年(1875年)の大火で焼失し、現在立ち並ぶ堂宇は再建されたものが多い
三門(二王門)
「空」「無相」「無願」の三解脱をあらわす三門

79世日慈上人の筆による「身延山」の扁額

仁王像(身延町指定文化財)
伝運慶若しくは定朝作で鎌倉期の彫刻


菩提梯
全287段の石段(菩提=覚り、梯=かけはし)
登り切れば涅槃に達するという意味の梯は、南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、7区画に分けられている

上りきれば満足感を得られると思うが、私は前回と同じように、上にある有料駐車場まで車を走らせた

さらに駐車場からも文明の利器を有効に利用した

手水舎

五重塔
現在の五重塔は3代目で平成20年(2008年)竣工

初代の塔は元和5年(1619年)加賀前田利家の側室寿福院の建立。文政12年(1829年)焼失
2代目の塔は万延元年(1860年)起工、慶応元年(1865年)落慶、明治8年(1875年)焼失


鐘楼


本堂
久遠寺の歴史について
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした
日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言を行ったが、受け入れられることはなかった

祖師堂
当時、身延山は甲斐の国波木井郷を治める地頭の南部実長の領地だった
信者であった実長の招きにより、日蓮聖人は文永11年(1274年)身延山に入山し、西谷に構えた草庵を住処とした
文永11年(1274年)5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開創の日としている

報恩閣
弘安4年(1281年)年11月には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名した
翌弘安5年(1282)年9月、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かった
同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じた

「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人の遺言のとおり、その遺骨は身延山に祀られた

拝殿
約200年後の文明7年(1475年)西谷から現在の地へと移転し伽藍の整備がすすめられた
のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護を受けて栄え、宝永3年(1706年)には、皇室勅願所となった

仏殿

これまで堂宇の外観を紹介してきたが、本堂から仏殿までは廊下によってつながっている
開基堂


境内の主な建物を回ってきたが、これより報恩閣から堂内に入る
本堂
昭和60年(1985年)落慶(日蓮聖人第七百遠忌記念事業)

堂内の様子


本尊:須弥壇を含めて高さ9mの一塔両尊四士

天井画の「墨龍」は加山又造の作

祖師堂(棲神閣)
江戸時代に廃寺となった「感応寺」のお堂を、明治14年(1881年)に移築・再建


日蓮聖人の神霊を祀る

御真骨堂
日蓮聖人の御真骨を奉安する八角堂


客殿

書院の襖絵

駐車場へ戻る

撮影 令和6年10月1日