今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

無夷山 箟峯寺(宮城県遠田郡涌谷町箟岳字神楽岡1)

2024年03月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月7日

無夷山(むいさん) 箟峯寺(こんぽうじ)
天台宗の寺院
宝亀元年(770年)鎮守府将軍大伴駿河麻呂の草創
大同2年(807年)坂上田村麻呂の創建と伝えられる



案内板によると、箟峯寺とは観音堂、白山社などを中心に24坊からなる一山寺院(総称)
当初、「霧岳山 正福寺」と称していたが、嘉祥2年(849年)に円仁が中興し、「無夷山 箟峯寺」と改称した



この寺を選択したのは
武光誠 著「地図でめぐる神社とお寺」に「笑みを浮かべたように見える仁王像がある」の記載があったからだ
これまで訪れた寺院の仁王像を地域別に発信した際に「笑顔の仁王像はないのか」とコメントを頂いたことがある
仁王像なので「ありませんよ」と応えただけに確かめたいと思った



仁王門
長い階段を上がっていくと、仁王門が見えてみた



仁王像の事ばかり頭にあり、狛犬を撮り忘れていたことに、今気づいた



仁王像を観る前に、呼吸と心拍数が落ち着くまで休憩した
仁王門は、文久2年(1861年)に再建された



仁王像(微笑み仁王)
確かに憤怒の表情ではなく、微笑んでいるように見える
最近のものなのかと思ったが、天保14年(1843年)完成とある

阿形像(金剛神・東王父)
これまで仁王門を通過する際、両側から睨めつけられていた



笑顔で迎えられるのはとても気持ちがいい



作者は、法橋雲竜安高



吽形像(執金剛仏・西王母)









奉納草鞋



観音堂(宮城県指定文化財)
仁王門から更に階段が続く
正面に観音堂が見えてくる



大同2年(807年) 京都清水寺より「十一面観世音菩薩」を御本尊として勧請
天保13年(1842年)火災によって消失
嘉永4年(1851年)観音堂を再建









一隅碑



国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり
道心ある人を名づけて国宝と為す
故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず
一隅を照す、此れ則ち国宝なりと
古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり
能く行いて言うこと能わざるは国の用なり
能く行い能く言うは国の宝なり
三品の内、唯言うこと能わず
行うこと能わざるを国の賊と為す
乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す
悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり



観音堂の彫刻












額には「奥州鎮護」



本尊:十一面観世音菩薩(秘仏)
平成20年(2008年)33年に1度の本尊の御開帳が行われた



菩提樹



義啓・雄淳・六字名号供養碑









寛文の鐘



山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』を読んで感動したことを思い出した
平幹二朗主演のNHK大河ドラマも視たが、この寺とつながらなかった縁があったとは……



田村麻呂将軍一千年供養塔






天台大師像
頭に大きなこぶが乗っているように見える珍しい像



頭上のこぶは大師が座禅に打ち込んだ際に居眠り防止のために使用した禅鎮で
うとうとすると頭から落ちてしまう



四郎杉(涌谷町指定天然記念物)






三郎杉(涌谷町指定天然記念物)






夫婦杉(涌谷町指定天然記念物)






二郎杉(涌谷町指定天然記念物)



太郎杉(涌谷町指定天然記念物)



健康の鐘
苦しみは楽しみに  楽しみは喜びに
喜びは幸せに 幸せは健康に
健康は一生の宝物



「おくのほそみち」展望台



かつて、源義経が弁慶を供にして歩き、松尾芭蕉も曽良を供に眼下の道を歩いたという



東北6県を旅をするにあたり、芭蕉縁の地を訪れようと思っていた(思い出した)



忠魂碑



地蔵菩薩
寛保3年(1743年)の建立



秋の山唄発祥之地碑






山王堂



堂内の様子



鐘楼



観音堂前に戻った



眼下には仁王門



仁王像






白山堂






撮影 令和5年10月7日
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竹峰山 華足寺(宮城県登米市東和町米川字小山下2)

2024年03月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月7日

竹峰山 華足寺(けそくじ)
真言宗智山派の寺院
大同2年(807年)坂上田村麻呂が蝦夷征討で当地を訪れた際、戦没者の霊と戦死した愛馬を慰める為に馬頭観音(馬頭明王)を勧請
愛馬を埋めた塚の上に堂を造営したのが始まりとされる

山門(宮城県指定文化財)
寛政11年(1799年)に仙台藩9代藩主 伊達周宗から寄進された
屋根は、過去数回修理され更に吹き替えられたが、その他は創建時(225年前)のままの姿



2階には十二支の守り「本尊八神像」を安置



案内板



二天像

「増長天」南方を護る守護神 青い顔で宝剣を持った姿で表される



「多聞天」北方を護る守護神



二天像のピントが合っていない
格子の中央に(高い場所にある)空間があるが、そこにレンズを突っ込み、背伸びして腕を伸ばして震えながら撮っている
堂内は暗く、目視できない状態でシャッターを押しているため失敗している



仁王像は寺で唯一写真が撮れる場所なので工夫しているが、その姿は不審者そのものだ
過去にパトロール中の警察官から、職務質問を受けたこともある



新田次郎文学碑
「密航船水安丸」という小説が、この地方の取材作品で全国的に有名になったそうだ
明治39年、及川甚三郎が率いる82人の密航者は、宮城県の荻浜港から、帆船で新天地・カナダへ向かった……
日本人の理想郷をつくるため、あらゆる困難を乗りこえ、勇気と行動力とで、その夢の実現に生涯を賭けた男を描いている



高倉健主演の映画「八甲田山」は観たことがあるが、小説はこれまで読んだことがない



(違和感のある黒牛)
牛馬の守護神として関係者から信仰の対象とされた事からか



鐘楼堂






馬頭観音堂(登米市指定文化財)
馬頭観音は動物燐憫の守護仏であり、馬の霊場としては日本最古と伝えられる



平安時代には奥州藤原氏の庇護を受けたが、1570年(元亀元年)に焼失した



天明6年(1787年)に仙台藩8代藩主 伊達斉村から観音堂を寄進された



案内板









額には「観世音」



堂内の様子



絵馬が壁と同化している錯覚に陥る



回廊の床一つみても、匠の技が施されている



少し離れた場所から観音堂を眺める



観音堂から少し高い場所に建物が見えた



観音堂から3つの建物が一直線で並んでいる



奥之院






地蔵堂






納骨堂



小安観音堂



田村麻呂将軍姿見の池



客殿
建築年代は不明
特徴は玄関の位置が正面ではなく端に設けてある



床面の向きが逆向きになっていること、天井が竿天井であること、欄間の造りとなっていることが特徴



道路沿いに咲いていた「曼珠沙華(彼岸花)」



この薄紫色の花の名前は知らないが気に入っている
普段、花など興味は無いのだが、旅先ではカメラを向けてしまう



撮影 令和5年10月7日
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妙見山 黒石寺(岩手県奥州市水沢黒石町字山内17)

2024年03月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月6日

妙見山 黒石寺(こくせきじ)
強風警報が発令されていたようで、途中、倒木により道路の半分が塞がれていた場所もあった
平成28年(2016年)5月に重要文化財の仏像拝観を目的に一度訪れたことがある

寺号標
その時は残念ながら受付が開いていなくて拝観することができなかった
東北6県を巡る旅は今回が最後になると思い再訪することにした



黒石寺蘇民祭
今回、投稿するためにホームページを検索していたところ
千年以上続くとされる奇祭「黒石寺蘇民祭」は、2月17日 黒石寺で開かれ、惜しまれながら歴史に幕を下ろすことになった
その理由は、現在祭りの中心を担っている人の高齢化と、担い手不足により、祭りを維持していくことが困難な状況となったためとのこと





御供所・鐘楼
1階は御供所(ごくしょ)といって、本尊に供える供物を準備するところ
2階は鐘楼。この梵鐘は戦時中、鰐口とともに供出されたが、まもなく返還されたという



本堂(薬師堂)
天平元年(729年)行基菩薩の開山
東光山 薬師寺と称したが、延暦年間の蝦夷征伐の戦火に遭い寺は焼失した



狛犬






大同2年(807年)飛騨の工匠が方七間の薬師堂を再建
嘉祥2年(849年)慈覚大師「円仁」が復興し、妙見山黒石寺と改名した
現在の本堂と庫裏は、明治17年(1884)に再建された



本堂の彫刻









扁額には「薬師如来」






奉納額









実は今日も受付は閉じられていて仏像を拝観することができなかった
仕方なく、いつものようにこの格子にレンズを当て、堂内に何があるかを確認した



本尊:木造薬師如来坐像(重要文化財)<収蔵庫>
堂内は暗く肉眼ではよく見えないが、デジタルカメラなら堂内の様子をうかがうことができる



木造四天王立像(重要文化財)
須弥壇の四隅に安置される四天王像









収蔵庫
拝観料:大人500円(事前に予約が必要)



釈迦観音堂






黒石寺も今回が最後と思い訪れたが、念願が叶わず落胆していた
ところが……



前を歩く女性は「歴女」なのか、御朱印帳を持って歩いていた
駐車場から車を動かそうとしたところ、この女性が受付で手続きをしていた
急いで車を降り、受付で仏像拝観を申し出ると30分後に団体予約があるのでいいですよと解錠してくれた
ということで、念願の重要文化財の仏像を拝観することができた



撮影 令和5年10月6日
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駒形神社(岩手県奥州市水沢中上野町1-83)

2024年03月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月6日

駒形神社
あてのない放浪旅といえども、いくつかの目的を持って各地を訪れている
昨年春の旅から、全国の「一宮神社」を巡る旅も追加してみた
駒形神社は「陸中一宮」ということで訪れた

大鳥居
鳥居の奥に駐車場があり入ってみたが満車状態、特に長い車体の車には厳しいものがあった



狛犬






手水舎



神門
女の子は3歳と7歳、男の子は5歳を迎えた年に神社にお参りする「七五三」の時期だった
5・6組の家族と言っても、最近ではカメラマンを含めると狭い境内では賑やかな状態になっている



絵馬掛け



拝殿
特に拝殿前は撮影スポットになるため混雑し、この写真を撮るのに20分程度待った
駒形神社は、約1500年前に駒ケ岳山頂に奉斎された
山頂への参詣が厳しかった為、北上市、金ヶ崎町に各里宮を造営した



明治36年(1903年)山頂より現鎮座地(旧鹽竈神社本殿)へ遷った
現在、山頂の社殿を奥宮と呼んでいる



拝殿扁額には社号の「駒形神社」
扁額には、水沢出身の偉人「後藤新平」(医師、官僚・政治家)の名がある






本殿
馬の守護神を祀り、勝負運や運命を切り開く神社とされている



祭神:駒形大神
(天照大御神・天常立尊・国狭立尊・吾勝尊・置瀬尊・彦火尊の6柱の総称)



瓢箪掛け



末社 山神社
祭神:木花開耶姫神・大山祇神



別宮 鹽竈神社
駒形神社本社の新設以前より、当地に鎮座していた神社
康平5年(1062年)に源頼義・義家父子が石田・大明神の屋敷に社殿を造営し塩竈神を勧請したことに始まるという
実際には寛文6年(1666年)に水沢城に入った留守宗利が勧請したことに始まると推測されている
祭神:鹽竈神(塩土老翁神・武甕槌神・経津主神)



水沢招魂社
祭神:郷土出身の国事殉難者1099柱



七五三のお参りにきた主役の子供より、若い母親の着物姿に目を奪われた



撮影 令和5年10月6日
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日高神社(岩手県奥州市水沢字日高小路13)

2024年03月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月6日

日高神社
本殿が重要文化財に指定されているということで訪れた



社号標
創建は弘仁元年(810年)に第52代嵯峨天皇の勅命によりこの地に勧請した事が始まりとされる



征夷大将軍 源頼義・義家父子が前九年と後三年両度の役で戦勝祈願に訪れた
嘉応2年(1170年)に藤原秀衡が再造させている
慶長年間(16世紀末)には伊達政宗が再興させ、社領の寄進と社殿の造営を行い、参拝の記録も残る



狛犬1






姥杉(奥州市指定文化財)
別名「義家杉」
前九年の役で安倍一族を征討した事を祝す宴が開かれた際に、源義家が使った杉の箸を地面に刺したものが根付いて巨木になったという伝説



留守宗利公
留守 宗利(るす むねとし)は、陸奥国仙台藩一門第三席・水沢伊達家2代(留守氏19代)当主
父・政景は小田原征伐に参陣しなかったため領地を没収され、以降は実家の伊達家に戻って甥の伊達政宗に仕えた
宗利は元服前の文禄元年(1593年)に伊達姓を拝領しているため、実際に留守宗利と名乗った期間はない
明治2年(1869年)に水沢伊達家は留守氏へと復姓
これに伴い昭和49年(1974年)に日高神社に建立された宗利銅像の銘板では「留守宗利公」と標記している



宗利は伊達政宗の許しを得て水沢城を修築し、留守氏の旧本拠地であった岩切城や、利府城周辺に残してきた同氏ゆかりの寺社を水沢に移転させた
水沢城下の整備に努めたほか、寛永2年(1625年)から飛地の名取郡飯田で最上氏旧臣・小野常信(継室・多与の弟)に新田開発をさせるなど、所領の発展に力を尽くした
寛永15年(1638年)8月15日死去。享年49



手水舎



神門



狛犬2






拝殿
本殿、拝殿、幣殿から成るが、現在の拝殿、幣殿は昭和24年に完成したものである



「火防祭(ひぶせまつり)の日高囃子」は岩手県指定無形民俗文化財



拝殿の扁額には「日高宮」



拝殿の足もとに置かれていた額には「日高神社」






本殿(重要文化財)
寛永9年(1632年)初代水沢城主留守宗利(伊達宗利)が改築
三間社流造銅板葺(もと茅葺)



祭神:天之御中主神ほか7柱






針塚



氏子宮



瑞山神社鳥居



瑞山神社 (岩手県指定文化財)
留守氏代々の祖霊社で歴代の当主ほかを祀る






瑞山神社と十一人の殉死者
殉死は戦国時代から江戸時代初期にかけては、盛んに行われていた
主君宗利 寛永15年(1638年)8月15日死去後、殉死した家臣8名も合祀されている
他国にいた3名も追殉死した
寛文3 (1663))年5月 江戸幕府は「殉死」を禁止している



五輪塔



天神社



おみくじ掛け






撮影 令和5年10月6日
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丹内山神社(岩手県花巻市東和町谷内2-303)

2024年03月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月6日

丹内山神社(たんないさんじんじゃ)
最初に訪れた「三熊野神社」で、会話を交わした地元の方に、社殿が美しいと強く勧められた神社である
毎朝、その日の訪問場所の候補を4~7程検索しているのだが、この神社は入っていなかった

参拝案内図
参拝順路が記されているが、他に参拝者もいなく自分の歩いた順に写真を掲載した



案内板



駒形神社






爺杉の根(花巻市指定文化財)



観音堂
案内板では「相殿・祖霊社・観音堂」となっている



丹内山神社は、かつて「大聖寺」と呼ばれていたが、明治維新のときに神社となり現在の名に改めた
この建物はその名残をとどめている感じがする



木造十一面観音菩薩立像(岩手県指定文化財)
平安時代、平泉 藤原氏から寄進されたもの
丹内山神社仏像<不動明王立像>(花巻市指定文化財)



廃仏毀釈により「凌雲寺」に移されていたが、後に丹内山神社に戻された
十一面観音像は魅力的な像であるが、拝観することはできなかった



源義家弓射場跡
源義家がこの石の上で弓を射たと伝えられている
源頼朝や足利尊氏の祖先で、東国における源氏勢力の基盤をつくった人物



疱瘡神・安産神



雲南神



舞踊殿



八幡神社(右)・賀茂神社(左)



狛犬






五ノ鳥居
案内図では、四ノ鳥居もあり確認できたが、1~3の鳥居は何処にあるのだろう
「一ノ鳥居」は花巻市指定文化財になっている







神門



扁額には「丹内山」



本殿(岩手県指定文化財)
丹内山神社の草創は今から1200年前
この地を開拓した神である多邇知比古神(たにちひこのかみ)を祀ったと伝えられている



創建は承和年間(834~847年、平安時代)
弘法大師の弟子である「日弘」が不動明王を安置したことによる
当時は「大聖寺不動丹内大権現」と称していた



藤原清衡の篤い信仰を受け、また江戸時代には南部藩主の祈願所として繁栄した
その後、明治の神仏分離により丹内山神社となった






本殿内から作業をしている物音が聞こえていたので周辺を歩いてみた



彫刻
地元の方から「美しい社殿」と聞いて訪れたのだが、その言葉通りだった



外壁は和・漢の故事、物語を主題とした彫刻で飾られている












福井県越前市にある「大瀧神社」の社殿とその外壁の彫刻に魅了され複数回訪れているが、そこを思い出した

大瀧神社・岡太神社(福井県越前市大滝町23-10) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

大瀧神社・岡太神社(福井県越前市大滝町23-10) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

訪問日令和4年5月19日大瀧神社・岡太神社全国で唯一“紙の神様”をおまつりする神社大徳山という霊山の山上にある「奥の院(上宮)」と、山のふもとにある「下宮」から成り立...

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現在の本殿は文化7年(1810年、江戸時代)に再建されたもの









風雨に曝された屋外の彫刻とは異なり本殿内は極彩色
普段は扉が閉められ公開していないが、運良く清掃に来られたということで観ることができた
祭神:多邇知比古神ほか4柱



アラハバキ大神の巨石(胎内石)
古事記や日本書紀に登場しない謎の神
アラハバキ神が祀られているところには必ず磐座があるという



1300年前から御神体として祀られてきた



胎内石としても有名らしい






さらに驚くのは巨石の上に巨木があるということ



壁面に触れぬよう通り抜けると大願成就、安産の願いが叶うという
誰もいなかったので挑戦してみようと覗いて見たが、妊婦のような腹が邪魔して無理だと諦めた



本殿内の清掃が終わったようだ
丹内山神社は女性の宮司で質問に対し、丁寧親切に対応していただいた



撮影 令和5年10月6日
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三熊野神社・成島毘沙門堂(岩手県花巻市東和町北成島5区1)

2024年03月13日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月6日

三熊野神社
三熊野(みくまの)神社の正式名称は「熊野神社」
鳥居前の二つの石柱には「熊野神社」「毘沙門堂」とある



鳥居の近くに駐車場があるが、一般道路から徒歩により参拝する場合は長い階段を上がらなければならない



鳥居の額には「毘沙門天」「熊野神社」と並記されている



この写真付きの参拝順路はとても分かりやすい



鳥居
鳥居の前には社務所、総合案内がある



手水舎



手水舎の先に「拝殿」が見える



幼児成長祈願石像



神社といえば狛犬だが、ここには一対の幼児の石像がある






拝殿



社伝によれば、坂上田村麻呂が対蝦夷戦争に際して、征矢立の森に登って紀伊の熊野三山に戦勝を祈願
戦勝後の延暦21年(802年)にこの地に熊野三山の神を勧請して創祀したという



康平5年(1062年)に源義家が前九年の役で安倍貞任を追撃した際には鏑矢を奉納して戦勝を祈願し、奥羽平定を叶えたという



額には「熊野神社」
近世には「熊野権現宮」と呼ばれ、境内に隣接する毘沙門堂(成島毘沙門堂)の鎮守とされ、古くからともに熊野山成島寺(じょうとうじ)を別当としていた
明治の神仏分離で成島寺を廃寺とした際に独立し、毘沙門堂とも分離した



本殿(岩手県指定文化財)
本殿は桁行3間梁間2間の切妻造平入の身舎前面に、桁行3間の吹放ちの庇が接続し、さらに庇中央に1間幅の向拝を設ける



祭神:伊弉冉命、事解男命、速玉男命の3柱を祀る



御神木「千年杉・爺杉」



石川啄木の短歌
「不来方のお城の 草に寝転びて 空に吸はれし 十五の心」



古代杉の根元に寝転び、大空を仰ぎ見ることにより
自らの生命力 勇気と自身が湧いてくる<宮司>

何と枕まで用意されている



熊野神社十二番角力式(東和町指定民族文化財)
幼児による泣き相撲として知られる角力(相撲)神事
猿ヶ石川を境に南北に分かれる集落から長男で数え年2歳の幼児6名宛を力士として選び、本殿脇の土俵上で対面させるというもの



坂上田村麻呂が戦勝の祝宴をこの地で開いた際に両集落の若者に相撲を取らせ、田村麻呂が勝った側の集落に豊作を約束した事に由来する神事であった
宝永3年(1706年)から幼児による泣き相撲に変えられた



本来は作占(豊凶占い)の神事であるが、現在は幼児の成長を祈る意も込められている



さざれ石
東日本大震災の際、参道に落石したさざれ石



おみくじ掛け



成島毘沙門堂(重要文化財)
坂上田村麻呂または円仁の開基と伝える



様式上、室町時代後期の建立と推定される
方三間、寄棟造、鉄板葺(もと茅葺)の仏堂



毘沙門堂の前に置かれている石仏?






扁額には「毘沙門堂」
堂内に「兜跋毘沙門天像(重要文化財)」が安置されていた






堂内に入る



堂内には多くの「奉納額」がある












年代を見ると多くは明治時代に奉納されもの









鏡の置かれている場所に「兜跋毘沙門天像」があった






鳴嶋観音(平成3年に奉納されたもの)



「兜跋毘沙門天像」の拝観のみ有料になるが楽しみにしていた



宝物殿
拝観料:大人500円 小中学生300円



木造兜跋毘沙門天立像(附:二鬼坐像 2躯)(重要文化財)
平安時代中期(10世紀頃)の作
像高3.59m、足下の地天像を含む総高4.73m(樺の一本彫成仏としては日本一を誇る)

木造伝吉祥天立像(重要文化財)<左奥>



宮沢賢治詩碑
詩の5行目に
 「ナリトナリアナロ御堂のうすあかり
 毘沙門像に味噌たてまつる」とある



私の住む北海道では自生しない「曼珠沙華(彼岸花)」



地元の参拝者と話しをする機会に恵まれ情報を得た(次回投稿)



ここに来た目的である重要文化財の毘沙門堂と毘沙門天をじっくり拝観することができた(満足)



撮影 令和5年10月6日
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盛岡八幡宮(岩手県盛岡市八幡町13-1)

2024年03月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月5日

盛岡八幡宮
康平5年(1062年)源頼義が安倍氏討伐の際に、戦勝を祈願して石清水八幡を勧請したのに始まる

社号標「盛岡鎮守」
皇后陛下の曾祖父にあたる、盛岡出身の海軍大将 山屋他人の揮毫



鳥居



額には社号の「盛岡八幡宮」
南部家第四十六代当主南部 利文謹書とある



青銅燈籠 二基(盛岡市指定文化財)









手水舎



この手水石は、滝壺のなかにあり、流水により自然にくぼみができた「水掘石」



神馬舎






社殿側から鳥居を眺める



正面の階段を上がるごとに社殿の姿が見えてくる



狛犬1






拝殿
現在の社殿は平成9年(1997年)12月に新八幡宮として建て直されたもの



美しい拝殿の前では若い女性グループが個性的なポーズで写真を撮っていた
撮り方も撮られ方も良く知っている若者の写真は爺の記録写真とは異なり面白い



正面扉の上には旧拝殿から引き継がれた「八幡宮」の額



文禄2年(1593年)南部氏が盛岡城を築城した際に城内鎮守の神社として再建
延宝8年(1680年)南部重信は青森より南部氏の氏神であった「櫛引八幡を勧請」
鳩森八幡の御旅所のあった現在地に祀って「新八幡」「南部新八幡」と称した
明治22年(1889年)市内の白山神社を合祀



祭神:八幡大神=誉田別命(ほんだわけのみこと)<応神天皇>
   春日大神、白山大神



社務所



神宝殿



縁結美神社(えんむすびじんじゃ)



赤い「結び紐」を結び良縁成就、恋愛成就を願う
よく見ると「ハート形」になっている



瓢箪には神霊が宿るとされ、邪気を吸い込み空気を浄化すると信じられてきた
くびれた独特の形から、一度吸い込んだ邪気を逃さない(封じ込める)とされており、除災招福のお守りや魔除けとなった



絵馬掛け






「目出鯛おみくじ」



神社側もよく考えるものだ



狛犬2






十二支神社



旧神門
境内の中で一番興味を持った建物
調べて見ると旧神門だった



八幡宮の文字や奉納額に歴史を感じる






大黒様



恵比須様



この右側に拝殿がある



明治大帝聖像






撮影 令和5年10月5日
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不動の滝・桜松神社(岩手県八幡平市高畑)

2024年03月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月5日

不動の滝
八幡平安代地区にあるのどかな桜松公園駐車場に車を駐め「不動の滝」を目指す
歩いて10分程の距離というが、雨予報ということもあり急ぎ足で向かった



高さ15mの滝
三段からなる名滝・不動の滝は「日本の滝百選」の一つに数えられている
「岩手の名水二十選」にも認定されている



滝では若いカップルに気持ちのよい挨拶をされた
女性が滝の写真を撮り、その女性を男性が撮っている



この男女と少し会話をしたが、言葉遣いを含め礼儀作法が素晴らしく、印象に残った
こちらから声をかけ、橋の上で滝を背景に二人の写真を撮ってあげた



かつて修験道僧の修行の場だった不動の滝
修験道というのは、神道と仏教が習合した山岳信仰の伝統のひとつ



不動は知恵の王である 5五大明王の中心となる尊格で、その猛々しさで怒りを救済へと変える



さて、不動の滝は一番奥にあるのだが雨予報だったこともあり優先した
その帰り道に山道にある社殿を撮っていった
分かりやすくするため、駐車場から滝に向かう順序に並び変えた

案内板
不動の滝の管理者が「桜松神社」になっている
自然界にある滝に管理者がいるとは知らなかった



鳥居
案内板によると国道入口に高さ15mの「大鳥居」があるという
この、写真の鳥居は「二の鳥居」ということになるのか
更に奥にも鳥居が見える



狛犬1
朱色の鳥居の前の狛犬
この後、狛犬が出てくるので比較するのも面白い






鳥居
朱色の鳥居は「四の鳥居」になるのか



山門



桜松神社
その昔、松の木に桜が咲いたのを見て村人が驚き、吉兆として崇めたという言い伝えにより、桜松神社と呼ばれるようになった
延享元年(1744年)の棟札あり



松の木に桜の花が咲いているのを見つけた老夫婦が渓流沿いを歩いていたところ
清流の中に瀬織津姫の美しい姿を目にしたという
老夫婦はたまたま滝に出くわし、妻は滝に瀬織津姫がいるのを感じ、夫のほうは不動明王がいるのを感じたという



奉納額には社号の「桜松神社」



祭神:瀬織津姫(せおりつひめ)
<瀬織津姫を祀る日本最北の神社>



狛犬2
拝殿前の狛犬






縁結びの木
2本の楓の幹が結ばれた木で、良縁成就にご利益があるとされる



狛犬3
既にどこに置かれていたかの記憶もない
纏わり付いている苔のような物から一番歴史を感じるのだが






狛犬4






不動堂
岩壁の窪みの中に建造されている



そして、この先に不動の滝がある



撮影 令和5年10月5日
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大日霊貴神社(秋田県鹿角市八幡平堂の上16)

2024年03月10日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月5日

大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ)
その日の訪問地を決める際、スマホに「最寄りの観光地」「最寄りの有名寺社」と囁き決めることが多い
車中泊した道の駅に近い場所にあり向かった

鳥居
鳥居横の社号標から「おおひるめむち」神社とは読めなかった



由緒
継体天皇(26代)の御代を調べて見ると507~531年になる
1500年の歴史を持つ古社ということになる



「姥杉ノ柵奉納」と刻まれている



神門
神仏混交の名残を見せる神社山門



板碑(鹿角市指定文化財)
鎌倉後期の記年銘をもつ、秋田県内では最古に属する



高さ80cmの五角柱の自然石の板碑
江戸時代にはその梵字が「阿弥陀三尊」であることから「三尊石」と呼ばれていた



手水舎



石柱には「鹿角厄除大日堂」
「大日堂」とも称されている



牛のようにも見えるが、参道両脇に置かれている






昭和24年(1949年)に社殿が全焼した
同26年(1951年)拝殿は元の9間四面の土台に建立し、幣殿本殿を増築して、同31年(1956年)竣工した



狛犬






拝殿
奉納額には「大日霊貴神社」
社殿は10間4面あり、秋田県の社殿建築では最大級



継体天皇がこの地域を開拓したダンブリ長者の徳と娘の吉祥姫(継体天皇の后)の御霊を慰めるために建立したのが始まりとされている
養老2年(718年)奈良時代の僧 行基によって再建されたと伝えられる
行基に随行した工匠・音楽師等が、里人に舞楽を伝授したのが、現在の大日堂舞楽である



宝形の形式で内部が吹き抜けで中央に舞台が設えてあり、大日堂舞楽にふさわしい空間構成がされている
1月2日の例祭の際に演じられる舞楽「大日堂舞楽」は重要無形民俗文化財、ユネスコの無形文化遺産












祭神:天照皇大神・吉祥姫命 ほか11柱






拝殿からの眺望






大己貴神社(おおなむちじんじゃ)









私の住む北海道には歴史的背景を持つ古社が少ないのでいつも羨ましく思う



撮影 令和5年10月5日
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十和田神社(青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋486)

2024年03月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月4日

十和田神社
乙女の像に至る道程、「開運の小径」と名付けられた分岐に入ると「十和田神社」の参道につながる
明治初年の神仏分離以前は「額田嶽熊野山 十灣寺」を号する十和田湖畔に建つ神仏習合の寺院であった

鳥居



鳥居の額には、社号の「十和田神社」
かつては、熊野や日光に比すべき北東北最大の山岳霊場であった
僧侶や修験者の山岳修行の場であり、民衆の信仰登山、山岳修行の山であった



正面に手水舎、右手の石鳥居の階段を上がると社殿が見えてくる



手水舎



石鳥居



狛犬1
石鳥居前の狛犬
拝殿前の狛犬との比較も面白い






階段の途中から木々に囲まれた社殿が目に入ってくる



拝殿
神仏分離以前は、十和田青龍権現を祀っていた
現在の拝殿の場所に観音を本地仏として安置する仏堂「十和田御堂」が建っていた



明治維新後に、十和田信仰は神仏分離と廃仏毀釈の嵐にさらされた
明治5年(1872年)には、修験宗が廃止され、修験は天台宗か真言宗に属するか、神職になるか還俗するかを命じられた
神仏習合による権現は排斥され、古事記や日本書紀の日本古来の神に戻すことが強要された。



十和田別当の織田氏は「十湾寺を十和田神社」として、青龍権現を外に移し、祭神をヤマトタケルと申し立てたが、認められなかった
明治6年(1873年)奥瀬の新羅神社に合祀され、御堂は取り壊された
2年後、復社を許され、御堂の跡地にささやかな社殿が建てられたが、十和田信仰は大きな打撃を受けた



社務所



狛犬2
鳥居前の狛犬と比べると随分細身になっている






さて、拝殿であるが遠目では分からなかったが、見事な彫刻で飾られていた



拝殿の彫刻


















拝殿内部



本殿
祭神:スサノオ、ヤマトタケル
創建についての縁起には2つの説がある
一つは大同2年(807年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂創建とされる説
東征のおり湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという



もう一つは、南祖坊(南蔵坊、南草坊ともいう)によるもの
熊野で修行した南祖坊が、鉄の草鞋と錫杖を神から授かり、「百足の草鞋が破れた所に住むべし」と夢のお告げを得た
諸国をめぐり、十和田湖畔で百足の草鞋が尽きたという



熊野神社
十和田湖には八郎太郎というマタギが、湖の岩魚や水を喰らううちに八頭の大蛇となり、湖を支配していた
そこで、南祖坊は、その霊験により九頭の龍に変化し二十尋(約36m)の身体を、十曲(とわだ)に曲げ、八郎太郎を退治たという伝説が残っている



南祖坊を青龍権現として崇め祀った名残りが今もあり、境内の熊野神社には彼の履いていたという鉄の草鞋が奉納されている



稲荷神社



拝殿前の参拝者
20年ほど前に訪れていると思うのだが記憶が蘇ってこない
寺社には全く興味関心がなかった頃だ(もったいない)



撮影 令和5年10月4日
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櫛引八幡宮(青森県八戸市八幡字八幡丁3-2)

2024年03月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月3日

櫛引八幡宮
本殿など5棟の社殿が重要文化財に指定されているということで訪れた

一の鳥居



社号標



社務所



二の鳥居



手水舎
コロナ対策と思われるが柄杓(ひしゃく)がない



参拝前に手や口を清める場所であるが美しい花で心も清らかになる



由緒
由緒等が大きな石に刻まれている



八幡馬(やわたうま)
「御神馬」と刻まれた台座の上に、注連縄をまとった花崗岩の八幡馬が置かれている
八幡馬は、八戸市を中心とする南部地方で古くから作られている、子供や家族の幸せを願う愛情溢れる木彫り馬の郷土玩具・民芸品
これまで多くの「御神馬」を観てきているが、この形は初めてである



太鼓橋



正門<南門>(重要文化財)
慶安元年(1648年)盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営された
平屋の門のなかで最も格式の高い形式の切妻造銅板葺の四脚門



狛犬





彫刻



扉部分に「乳金具と六葉文様」があるのはこの地域では珍しい






拝殿
昭和59年11月に竣功した桁行15間梁間8間入母屋造平入銅板葺の建物






扁額には社号の「櫛引八幡宮」






拝殿に置かれている像






拝殿内部






末社 神明宮(重要文化財)
元文4年(1739年)に勧請、創祀された
本社拝殿の右方に鎮座し、本殿は一間社流造、銅板葺



祭神:天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)






合祀殿
大国主神をはじめ、十五柱の神々を祀る



十五柱の神々



撫で大黒さん



絵馬社






幣殿



本殿(重要文化財)
慶安元年(1648年)建立 盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営
三間社流造、銅板葺



細部に施された彫刻や極彩色の文様等の華やかな意匠に桃山時代の遺風が認められる



木鼻 獅子



御室の栗形(七不思議の一つ)



御神木 三杉



末社 春日社(重要文化財)
神明宮と同じく元文4年に勧請、創祀された



祭神:天津児屋根神(あまつこやねのかみ)



本殿に向かって左側、先の神明宮と対称の位置に奉られている
小規模ながらも正規の一間社春日造の形式である



松福稲荷神社



悶破(もんぱ)稲荷神社






長所<旧拝殿>(重要文化財)
慶安元年(1648年)建立
桁行七間・向拝一間・入母屋造・銅板葺



かつての拝殿で、現拝殿の新築に伴って現在の場所に移築された






国宝館
国宝 赤糸 威 鎧兜大袖付 附唐櫃ほか重要文化財・県重宝・市文化財など計25点の文化財を収蔵・展示
入館料:大人300円



明治記念館<旧八戸小学校講堂>(青森県指定文化財)
明治14年(1881年)8月に八戸小学校の講堂として堀端町に建てられた
同月24日には明治天皇の奥羽巡幸に際しての行在所とされた



靑森県内に現存する洋風建築では最古のもの



明治大帝御聖像



撮影 令和5年10月3日
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楞巌山 清水寺(青森県八戸市 是川字中居18-2)

2024年03月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月3日

楞巌山 清水寺
青森県八戸市にある清水寺であるが「きよみずでら」ではなく「せいすいじ」と読む
山号は楞巌山(りょうごんざん)真宗大谷派の寺院である



この寺を訪れた目的は、重要文化財の観音堂の拝観である
寺社巡りを中心に車旅をしているが、訪れた地域にある国宝や重要文化財の建築物や仏像を可能な限り観たいと思っている



山門
「真宗大谷派」の札があるが、明治2年(1869年)天台宗から改宗した



山門を進むと正面に本堂が見えてくる



鐘楼



本堂



扁額には寺号の「清水寺(せいすいじ)」



観音堂(重要文化財)
本堂裏の高い木々に囲まれた場所に観音堂は建っていた



カメラを構え、ゆっくり前に進みながら写真を撮っていった
茅葺屋根というのも嬉しい



案内板
堂内に残されている棟札から、天正9年(1581年)に建立されたことが分かっている
靑森県内最古の木造建築として知られている



鎌倉時代に中国から伝わった禅宗様という様式を主体として造られている
所々の彫刻には室町時代の特徴を持った文様も残されている
構造は、桁行3間、梁行3間の一重宝形造で、茅葺屋根



昭和55年(1980年)に国の重要文化財に指定された
翌56年から58年にかけて解体復元工事が行われ創建当初の姿に復原された



観音堂の周りを歩いてみる



積雪に対する木組みなのか、頑丈にできている感じがする(しかも美しい)



糠部(ぬかのぶ)33観音第2番札所となっている



令和3年10月に屋根の葺き替え工事が行われたが、すでに雑草が根付き始めている
数十年後には屋根全体に広がり、周囲の緑と一体化していくことだろう



庭園
本堂裏手にある庭園



その奥に観音堂がある



再び本堂へ



観音堂の場所が分からず住職に尋ねた際に本堂へ入ることの許可もいただいた



堂内は多くの彫刻で飾られていた






草創は平安時代に天台宗の高僧 慈覚大師 円仁(第3代天台座主)によるとの伝説はあるが定かではない
開山当初は天台宗に属していたが、藩政時代には真言宗へ改宗、その後天台宗に復帰
明治2年に真宗大谷派となり現在に至る



本尊:阿弥陀如来



親鸞聖人



額には山号の「楞巌山」






撮影 令和5年10月3日
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龗神社(青森県八戸市内丸2丁目1-51)

2024年03月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月3日

法霊山龗神社
社号標には、法霊山龗神社(ほうりょうさんおがみじんじゃ)と刻まれている
旧陸奥國八戸藩総鎮守にして、八戸市内最古と言われる神社



鳥居



訪れるきっかけとなったのは、この案内板の内容を旅行雑誌か何かで知ったからだ



頼朝に追われた義経は平泉「高館」にて、文治5年(1189年)閏4月 頼朝の圧迫に耐えかねた泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられている
平成28年(2016年)5月に平泉の「高館義経堂」を訪れた時、面白い案内板(下記写真)があったことを覚えていた
「平泉を脱し北へ向かった」とあり、龗神社の案内板と結びついたのだ
若い頃、高木彬光の推理小説「成吉思汗の秘密」を夢中になって読んだことがあり、今でも義経の名が出てくると興味を持ってしまう



手水舎



お御籤掛け



社務所
義経に関係する資料を探したがなかった






狛犬






拝殿
この神社の創建は不明であるが、その歴史は記録上では約1000年前の平安後期にまで遡り、伝承を辿るとさらに遡るという



雑誌等では「龗神社」と記載されているが、正しくは「法霊山龗神社」といい、法霊神社、法霊山という通称でも呼ばれている



拝殿の彫刻






扁額には社号の「龗神社」
「おがみ」の漢字は珍しい文字で、雨かんむりの下に「口」を横並びに3つ、その下に「龍」を書く
一説によると、源義経の正室と言われる京の久我大臣(こがのおとど)の娘が自害した場所と伝わり
その御霊が祀られているという伝説が伝えられている場所だという
久我大臣が使っていたという手鏡が現在も所蔵されている
『類家稲荷大明神縁起』という古文書が所蔵されており、平泉を脱出した義経一行が八戸に到着し、滞在した経緯が記されている



本殿
現在の本殿は、約190年前に大名南部家より寄進されたもの
主祭神:高龗神、法霊大明神



八戸三社大祭(重要無形民俗文化財、ユネスコ世界無形文化遺産)発祥の神社
享保6年(1721年)に行われた長者山虚空蔵堂(新羅神社)への神輿渡御に始まる
その後明治17年(1884年)から新羅神社との2社祭礼となり、その5年後に神明宮が加わり、現在の形となった



少し離れた場所から社殿を眺める






周囲を散策して拝殿前に戻る
「成吉思汗の秘密」をまた読みたくなってきた



撮影 令和5年10月3日
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恐山 菩提寺(青森県むつ市田名部字宇曽利山3-2)

2024年03月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月2日

恐山 菩提寺
高校時代から霊感が強かったのか、本来なら見えないものが見えるし、話しかけてもくる
就職して間もない頃、大学の先輩と旅先である小樽市の焼鳥屋に入った時の話しだが、若くて美人の女将がいた
ところが、目と目が合うと妙な感じになり全身に鳥肌がたつ
しばらくして、また視線が合うと同じ感じになる
不思議に感じていたが、先輩が席を外したときにその女将から「霊感が強いですね」と言われた
店に入ったときから向こうも感じていたらしく、話しをしたいと思っていたそうだ
その女将は夕張出身で幼い頃から炭鉱事故で亡くなった人がよく出てきて一緒に遊んでもらったという経験をたくさん持つという
その女将から言われたのは「恐山に行きなさい。あなたの人生が変わるかもしれない」と

この言葉は常に頭から離れず、その時から30年後にやっと実現することになったのが前回
そして、10年後に再び訪れてみた

奪衣婆と懸衣翁



奪衣婆(だつえば)は、三途川で亡者の衣服を剥ぎ取り懸衣翁(けんねおう)に渡す
懸衣翁は、奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣類を衣領樹の枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計るとされる



太鼓橋
三途の川の上に架かる太鼓橋



年齢も増し、この川を渡る日が年々近づいているような気がする
美魔女なら許せるが、奪衣婆だけには衣服を剥ぎ取られたくないので、もう少し長生きしよう(笑)



境内案内図
恐山は、カルデラ湖である宇曽利山湖を囲む外輪山と円錐形の火山との総称
外輪山は「釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山」の八峰



来迎の像






総門
総門から有料施設になる(入山料500円)
開山期間は5月1日から10月31日で、毎年7月20日から24日に恐山大祭が行われる



山門
下北地方では、古くから「人は死ねばお山さ行ぐ」と伝えられてきた
恐山は死者の霊魂が集まる場所と信じられており、「恐山大祭」ではイタコの口寄せも行われる



扁額には「霊場 恐山」



「恐山」は、「比叡山」「高野山」とともに日本の三大霊場の一つ



仁王像
ガラスケースで護られている









本堂



本堂唐破風の彫刻
「甕を割って友人を救う」



中国の学者・政治家の司馬光が甕を割って友人を救ったという話し



参道の正面は「地蔵殿」 奥の山は案内図では「地蔵山」



塔婆堂



堂内の様子



塔婆とは、先祖供養のためにお墓の後ろや脇に立てる木の板のこと



湯治場
境内には4つの温泉があり、共同浴場として利用されている
入浴料は入山料に含まれている
女湯



こちらは「男湯」
車に戻りタオルを持って再入場する人の姿を数組見かけた



参道を進む



手水舎






地蔵殿
円仁が唐に留学中、「汝、国に帰り、東方行程30余日の所に至れば霊山あり。地蔵大士一体を刻しその地に仏道を広めよ」という夢告を受けた
円仁はすぐに帰国し、夢で告げられた霊山を探し歩いた。苦労の末、恐山にたどり着いたと言われている
その中に地獄をあらわすものが108つあり、全て夢と符合するので、円仁は6尺3寸の地蔵大士(地蔵菩薩)を彫り、本尊として安置したとされている



寺伝によると、貞観4年(862年)天台宗の慈覚大師「円仁」がこの地を訪れ創建
その後衰退していたが、大永2年(1522年)曹洞宗の僧「聚覚」が南部氏の援助を受け、円通寺を建立して恐山菩提寺を中興し、曹洞宗に改めた
本尊:伽羅陀山地蔵大士
額には「伽羅陀山」






奥の院参道



案内板には、不動明王は地蔵菩薩の化身と記されている
地蔵の「地」は大地を、「蔵」は生命を産み出す母胎、母の心をあらわしている



奥の院地蔵山不動明王
本尊の「伽羅陀山地蔵大士」を中心に奥の院「地蔵山不動明王」と「釜臥山嶽大明神本地釈迦如来」が一直線上に奉納されている






高台からの眺め



一体の岩場は地獄に見立てられている



大王石



みたま石



無間地獄



大師堂






大師説法の地






慈覚大師座禅石






八葉塔



塩谷地獄



血の池地獄
10年前に訪れた時には独特の不気味さがあったが、今回は何も感じない






賽の河原地蔵堂



堂内の様子



水子供養御本尊



極楽浜と宇曽利山湖






無縁佛



胎内くぐり



重罪地獄



金堀地獄



修羅王地獄



順路に従って歩いていると山門横に着いた
10年前同様恐山を歩いても何も感じるものはなかった(霊感が消滅したようだ)
それよりも、温泉に入るか次の予定地に向かうか悩んだ



撮影 令和5年10月2日 
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