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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

白山比咩神社(石川県白山市三宮町ニ105-1)

2024年08月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月1日

白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)
加賀国一宮
全国に2,000社以上ある白山神社(はくさんじんじゃ)の総本社である
地元では「しらやまさん」とよばれ親しまれている

北参道鳥居
この日は土曜日ということもあり、「混むのかな」と思い、いつもより早めに道の駅を出た
初めて訪れる神社なので様子が分からない
カーナビが案内したのは、3つある駐車場のうちの「北駐車場」



かなり大きな駐車場で私が着いた時にはまだ多少の余裕があった
帰りには満車状態であった



狛犬1






手水舎






芭蕉句碑
元禄2年(1689年)7月、芭蕉が「おくのほそ道」の旅で詠まれた句とされる



「風かをる越の白嶺を國の華」
さわやかに風が吹き渡る白山こそは、国の誇りであることだなあ



社務所



大ケヤキ(白山市指定天然記念物)
胸高周り約5m、樹高25m、推定樹齢は1000年



荒御前神社 (あらみさきじんじゃ)
参道を進む先には長蛇の列



鳥居の額で確認すると「荒御前神社」だった



荒御前大神は、『日本書記』の中に、「神功皇后」が三韓征伐した際、守護した神として登場する




白山奥宮遙拝所(はくさんおくのみやようはいじょ)
またまた長い列が……



その先に何があるのかを確認をすると、岩があった
後に調べて見ると、大汝峰、御前峰、別山の「白山三山」の形をした大岩だという



ここは、霊峰白山を御神体とする全国白山神社の総本宮(奥宮)の遥拝所となる
長い列をつくり、拝もうとする理由が分かった気がする



神馬舎
私はと言うと信仰心も無く、記念に一つでも拝んでみようかと短い列の所に並んでみた
目の前に現れたのは神馬だった
翌日は金沢競馬場で一日楽しもうと考えていたのでちょうど良かった



白山比咩大神を乗せて白山に登拝するといわれる神馬
白山麓の大欅を素材に絢爛豪華な装飾がこれまで観てきた神馬と違うところだ



拝殿
当然のことながら、拝殿前も長い列
境内に入った時から、次回は平日に訪れゆっくりお参りしようと心に決めていた



初めて訪れた場所で何処になにがあるのか分からず、人の歩いている方へ進んでみた



狛犬2






この参道の緑の素晴らしさは感動もの



社号標、一の鳥居
着いたようなので振り返ってみると、社号標と鳥居があった
白山比咩神社には長らく鳥居がなく、白山七不思議のひとつといわれていた



どうやら歩いて来た道は「表参道」のようだった
(この時は表参道ということも知らず)がっかりして戻ったと記憶している



今、振り返ってみると、表参道駐車場から参道を歩き、社殿を目指すのがいいと感じている



杉や欅、楓などの樹木に覆われたおよそ250mの表参道が続く



参道左に流れ落ちている小さな滝



上流を見ると緑の中を小さな川が流れている



御神木<老木>(白山市指定天然記念物)
根元の周り約12m、胸高幹周り約10m、樹高約42mの巨木
樹齢はおよそ800年



二の鳥居



社殿(下白山、白山本宮)
主祭神:白山比咩大神 - 菊理媛神と同一神
    伊邪那岐尊
    伊弉冉尊



白山奥宮遙拝所前には長い列が続いている
日本人の神々に対する信仰心には驚く



狛犬3






拝殿前の様子



お御籤掛け



宝物館



土産店に立ち寄り、駐車場に戻る
次回は平日に訪れることにする



撮影 令和6年6月1日
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安宅住吉神社(石川県小松市安宅町タ17)

2024年08月26日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月31日

安宅住吉神社
境内に安宅の関址があり、「安宅」「勧進帳」にも取り上げられた伝承から、難関突破の神として知られる



陽のみち
6月1日月次祭当日の早朝、大鳥居の真正面から太陽が昇り、光は本殿まで差し込み、表参道は「陽のみち」となるという
前日の5月31日に訪れたのだが、「陽のみち」についてこの時は理解していなかった(残念)



狛犬1






鳥居



額には社号の「安宅住吉神社」



社殿へつながる参道は木々に囲まれ趣がある



神輿倉



狛犬2






神亀石






稲荷社






勧進帳



勧進帳を読み上げる弁慶像



拝殿
古くより陸・海路の要所として栄えた北国の港安宅の地に祀られ「安宅の住吉さん」として親しまれている
昔は安宅住吉大明神・二宮住吉大明神・住吉宮とも称された



創建は古く、歴史を遠く溯る事1200有余年前、奈良時代天応2年(782年)で、琴佩山(ことおびやま)に鎮座
天暦2年(948年)鷹降山に、天正5年(1577年)小倉野に遷座
正保4年(1647年)現在の二堂山に遷座された



「縁ありて社頭に詣づる人、誠を込めて神前に祈りを捧げば、その祈りは必ずや成就されん」
義経と弁慶一行が、安宅の関守・富樫に疑われながらも難を逃れたとの伝承から、難関突破に霊験ありとされる



本殿
主祭神:住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
相殿神:別雷神・少彦名命



安宅関址(石川県指定史跡)
寿永元年(1182年)創設と伝えられる北陸道の要衝
源義経の北国落ちを題材とした歌舞伎《勧進帳》,謡曲《安宅》の舞台として有名



「安宅の関 こまつ勧進帳の里 勧進帳ものがたり館」
勧進帳にまつわる資料や遊んで学ぶ体験展示、歌舞伎「勧進帳」のダイジェスト映像
テラスでは日本海を一望しながら食事やショッピングも楽しめる



この近くの道路を何度か通っているのに「安宅の関」がこの場所にだとは気づかなかった






3体の銅像が並ぶ
銅像の武蔵坊弁慶は七代目松本幸四郎が、富樫泰家は二代目市川左團次がモデルとなっている



「智・仁・勇」の文字は、我国の古来の国民性の美しさを端的に表現している
智は「弁慶の知恵(中央)」
仁は「富樫の情け(右)」
勇は「義経の勇気(左)」



弁慶一行は山伏に、義経は荷物持ちに主従逆転の変装して奥州平泉へと逃れて行く
「安宅の関」で関守・富樫左衛門は「義経ではないか?」と疑いをかけ厳しい尋問をする



弁慶は「勧進(寄付)を集める旅をしている」と嘘をつき、たまたま持っていた巻物を勧進帳に仕立てた



関守・富樫左衛門は、主君を思う弁慶の強い気持ちに心をうごかされ、自分が罰せられるのを覚悟で一行を見逃す



去ろうとした弁慶一行について行く強力が義経に似ていると番卒が告げ、富樫は一行を呼びとめる
疑いを晴らすため、弁慶は杖を取り、義経を打つ
家来として絶対にはたらいてはいけない無礼であった
あえてそうしてでも主君を助けようとする弁慶の姿に富樫は心を打たれた



関ノ宮



右には「源義経」左には「富樫左衛門」が祀られている



与謝野晶子歌碑






金比羅社






絵馬掛け



社殿に戻る



この神社を巡り日本人の美しい心「惻隠の情」という言葉が頭に浮かんだ



撮影 令和6年5月31日
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蓮如の里 吉崎(福井県あわら市吉崎)

2024年08月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月31日

蓮如の里 吉崎
道の駅 「蓮如の里あわら」ができたということで立ち寄ることにした
道の駅ができる前に「蓮如の里」には、平成21年(2009年)7月に訪れたことがある

史蹟 蓮如御坊跡
浄土真宗中興の祖・蓮如上人が北陸での布教の中心拠点に選んだ場所
付近一帯は「蓮如の里」と呼称されている



蓮如上人像
御山の上に7mの高座を設け、その上に高さ4.85mの銅像を安置
高座の正面には「慧燈高照」の文字(諡号:慧燈大師)
「智慧の燈を高く照して大衆を済度された」蓮如上人の徳をたたえたもの



高村光雲の手により型が作られ鋳像された銅像で、高村光雲の3大名像の一つ
(あと2つは皇居外苑の「楠木正成」、上野公園の「西郷隆盛」)



吉崎御坊 本堂跡
永正3年(1506年)、朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退けた後、吉崎の坊舎を破却し、以後廃坊となる



お腰掛けの石
吉崎御坊の本堂西側の庭に据えられた庭石



蓮如上人はこの庭石によく腰掛けて日本海を眺めることを好まれたという



蓮如上人が眺めたであろう景色



北潟湖
福井県では三方五湖の水月湖、三方湖に次いで3番目に大きい
正面の大きな島が「鹿島の森」 奥に日本海が見える
室町時代、文明7年8月吉崎退去の際、蓮如上人は小舟によりこの北潟湖から日本海を経て小浜へと移動
夕日に照らされた吉崎の山を振り返り「夜もすがら たたく船端吉崎の 鹿島続きの山ぞ恋しき」と句を残した



見玉尼のお墓
蓮如上人第1夫人の第4子二女
蓮如は、5人の妻との間に27子をもうけた(13男、14女)
*第1夫人(7人)第2夫人(10人)第3夫人(1人)第4夫人(2人)第5夫人(7人)



蓮如上人の吉崎御坊の建立をきき父のもとへ馳せ参じたが、まもなく病に伏せて1年余りで亡くなった
お墓に今も美しい花が手向けられている



真宗大谷派吉崎別院(東別院)
山門



吉崎東別院会館



本堂
本尊:阿弥陀如来



蓮師堂
蓮如上人58歳御姿



本願寺派吉崎別院(西別院)
山門<念力門>(あわら市指定文化財)
かつての西本願寺北総門。天正19年(1591年)に豊臣秀吉から寄進されたと伝承



中宗堂
蓮如像を安置



本堂
本尊:阿弥陀如来



蓮如上人御影






撮影 令和6年5月31日
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雄島・大湊神社(福井県坂井市三国町安島)

2024年08月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月31日

雄島・大湊神社
東尋坊を訪れた時、遠くに見える赤い橋と島の存在がずっと気になっていた
今回は東尋坊には寄らず、気になっていた橋と島を目指した

雄島橋(おしまばし)
橋の近くに無料の駐車場がある
雄島橋周辺は小学生の校外学習(写生)で賑わっていた
そのバスの運転手から「北海道からですか」と声を掛けられ、しばらく会話を楽しんだ



雄島(おしま)
橋の奥に見えるのが「雄島」
標高27m、周囲2kmの越前海岸では一番大きな島である



土地の人は昔から、「神の島」とあがめている
島全体が流紋岩でできている
東尋坊同様に「柱状節理」が発達しているほか、「板状節理」も見ることができる



この橋の長さは224m






鳥居
鳥居の奥には洞穴のようなものがある
初めて訪れるので不気味な感じがする



鳥居の額には「大湊神社」



今にも雨が降ってきそうな空模様なので「大湊神社」を目指すことにした



社務所
遠くから見て洞穴と思っていた(実際は木のトンネル)入口近くに社務所がある
無人で無防備でも安全なとことが日本の良いところ



社務所を過ぎると石段が続く



社号標



更に、石段が続く



参道に置かれている扁平の石だが、溶岩の名残を示す美しい縞模様が美しい



木を利用した鳥居のようだ



神木 藪椿
案内板には「神木 藪椿(やぶつばき)」とある
昔から椿は長寿を保つ崇められた霊木



燈籠 一対









参道の石
平地を歩くより、石の上を歩く方が楽しい






目的地に到着
この島に渡るまでこの神社の存在すら知らなかった



手水舎



拝殿(福井県指定文化財)
白雉年間(650年~654年)に勤請されたと伝えられる
源義経が落ち延びる際に立ち寄って家臣の兜を奉納した



社が朝倉義景の後援を受けていた際に明智光秀が訪れて漢詩を詠んだという話もある
かつての社殿は天正年間(1573年~1591年)織田信長の兵によって焼き払われた
現在の社殿は元和7年(1621年)福井2代藩主 松平忠直により再建されたものである



拝殿内部







扁額「大湊神社」が拝殿内に置かれていた



本殿(福井県指定文化財)
祭神:三保大明神(三尾大明神)



鳥居



鳥居の先には東尋坊が見える



少し前に、この女性に気持ちの良い挨拶をされ、数分間、話しをする機会を得た
とても上品で美しい女性であった
岐阜県からの旅人で、スマホではなく一眼レフカメラで撮影していたことに興味を持った



駐車場に戻る



散策路の板状の岩はリズミカルな歩きに誘い、疲れが軽減されるような気がする



最後の石段を用心深く下りる



晴れていたら、一周約1.2km、約40分の散策路を歩いてみたいと一瞬思った
「磁石岩・瓜割の水・雄島灯台」などがあるようだ






東尋坊は賑わっていると思うが、こちらは閑かで趣がある
車に戻るとポツポツ雨が落ちてきた



撮影 令和6年5月31日
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三國神社(福井県坂井市三国町山王6-2-80)

2024年08月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月31日

三國神社(別名:山王宮、お山王さん)
この近くを何度か走っていたのだが、訪れたのは今回が初めてとなる
正面鳥居の右側50mの所に駐車場がある

社号標
天文9年(1540年)竹田川 の支流の兵庫川から流れてきたとされる御神体を住人が拾い、当地の正智院に納めたのに始まる
天文13年(1544年)正智院の院主・澄性が境内に小社を建立
永禄7年(1564年)澄性の弟子の澄元が現在地の桜谷を開き、「山王宮を建立」したのが創建年となる



鳥居
額には「三國神社」
明治2年(1869年)山王宮を桜谷神社に改称
明治18年(1885年)に三國神社と改称し、現在に至る
地元では「おさんのさん(お山王さん)」と呼ばれている






狛犬1






手水舎



大好物のツブ貝が奉納されている
日本海の豊富な海産物に恵まれ、近くには有名な観光地「東尋坊」がある



随身門(福井県指定文化財)
鳥居の正面に見えるのが随身門
この楼門は元治元年(1864年)に釘始・明治3年(1870年)に完成した



棟梁・森町大工・安右ェ門・23歳
神社楼門(随身門)は和様を基調としながら扇垂木など禅宗様を加味している



楼門上の額「光華閣」は慶応4年(1868年)第17代福井藩主 松平茂昭の寄進



随身像
明治2年(1869年)松ケ下町の寄進



随身像の作者は志摩竜斉









宝物殿



山王宮旧跡



天文9年に「御神体」を拾い上げ、永禄7年に「山王宮」を建立した場所となる
御神体:大山咋命(山王権現)



跡地に「大岩」を据え鳥居を建てるとある



木立神社



明治24年(1891年)に三国神社内に建立



狛犬2






祭神:松平慶永
*伝説的な英雄ではなく、幕末から明治における福井藩の名君



郷土出身の彫刻師島雪斎が彫刻した松平慶永の寿像に太刀一振りと立願文を添えて氏子が祭った



随身門と直線で結ばれる地点に社殿が建っている



八幡神社



扁額には社号の「八幡神社」



拝殿正面の彫刻






祭神:応神天皇
「桜谷地主神」として古くから祀られていた
鍛冶職が多く居住していた関係から、弓矢の神である応神天皇が守護神として崇敬されていた



初めて訪れたこともあり、左回りで移動してきた
最後になったが、三國神社の拝殿に着いた



拝殿
天保2年(1831年)窮民救済のため社殿改築、境内整備の工事がはじまる
天保11年(1840年)還宮式 棟梁 八十島四郎兵衛



狛犬3






拝殿正面



額には「三國神社」



拝殿内部



主祭神の額が掲げられている
右から「大山咋命(山王権現)」「継体天皇」



唐破風の彫刻
大きな「鳳凰」が目立つが、一番下にある「群猿像(28匹)」が坂井市の文化財に指定されている



本殿
祭神:大山咋命(おおやまくいのかみ)
*竹田川 の支流の兵庫川から流れてきた御神体
明治5年(1872年)に水門宮の御神体 継体天皇を合祀



神輿堂






撮影 令和6年5月31日
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長林山 往生院 称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎19-17)

2024年08月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月30日

長林山 往生院 称念寺
平成30年(2018年)、丸岡城を訪れた時に、偶然、この寺の存在を知り訪れたことがある
明智光秀縁の寺(「黒髪伝説」)ということで興味を持った

山門
山門左の寺号標には「時宗 長林山 稱念寺」



右には「史跡 新田義貞公墓所」と彫られている



案内板の文字が小さい



参道の正面に(案内図によると)「御像堂」



水屋



参道横の石仏



贈位碑
昭和23年(1948年)に発生した福井地震の際、上部が欠損したとのこと
「(近衛)中将新田義貞公贈位碑」と読める



新田義貞公墓所(福井県史跡)
鎌倉幕府も北条高時の頃になると、世の中が乱れ不満を持つ武士たちが現れた
その代表的な武士たちが足利尊氏や新田義貞、楠木正成だ
そして鎌倉幕府を滅ぼした武士が新田義貞になる



中雀門
その後、足利尊氏と新田義貞が争い、南朝と北朝に別れ日本中を巻き込んだ戦乱の世になった
新田義貞は、南朝方として京都や兵庫県で戦ったが、暦応元年・延元3年(1338年)に灯明寺畷の戦いで戦死した
新田義貞は称念寺の住職と、古くより交友を深めていたこともあり
その遺骸は時宗の僧侶8人が輿に乗せ往生院称念寺に送り、手厚く葬られた



門の隙間からレンズを当て撮影(周辺が暗く丸くなっている)



墓所の横にある扉が開いていて中に入ることができた



「太平記」で確認すると
義貞の首は朝廷・幕府の仇敵第一として、大路引き回しの上で獄門に懸けられたとある
ということは、運ばれた遺骸は首無しということになる
敵方であった足利義政もその武勇をたたえ、長禄2年(1458年)安堵状と寺領を寄進し、将軍家祈祷所として栄えた




御像堂
縁起によれば、養老5年(721年)に元正天皇の勅を得て泰澄大師によって創建
正応3年(1290年)他阿真教によって「時宗」に改められた



鎌倉時代に時宗の二代目に当たる真教上人が称念寺を念仏の道場にした
長崎道場は北陸では一番の念仏道場になり、その末寺も、県下各地に建てられた



扁額には「忠誠殿」の文字が
戦乱の中で新田一族は、最後まで南朝の後醍醐天皇を裏切ることなく戦い続けた武士だった



堂内の様子



本尊:新田義貞座像
*多くの寺院を巡ってきたが、本尊が仏像ではないというのは初めて






宝篋印塔
墓所とは別に、境内には義貞を慰霊する宝篋印塔がある



明智光秀と称念寺
弘治2年(1556年)に齊藤義龍の大軍に敗れ、妻の熈子(ひろこ)や家族と伴に、越前大野を経て越前の称念寺に逃れる
永禄5(1562年)年貧しいながらも夫婦で、門前に寺子屋を開き、仲良く生活していた



黒髪伝説
称念寺住職の推薦で、越前の朝倉義景に仕官の口添えを得る事が出来た が貧しい為に朝倉の重臣をもてなす資金がなかった
妻の「煕子」は自慢の黒髪を光秀に黙って売り、 その資金で連歌の会を開いた
後にその事を知った光秀は「きっと今に天下を取って 妻の献身に応え 煕子を幸せにする」と誓った
称念寺で、永禄6年(1563年)に生まれたお玉(後の細川ガラシャ)も、両親に劣らぬ夫婦愛に生きた方だった


*上記写真は駐車場横の案内板を撮影したもの

松尾芭蕉の師弟愛
この「夫婦愛の物語」は、称念寺門前の伝承になり、江戸時代の松尾芭蕉が、「奥の細道」の旅の途中に、取材した
後に芭蕉は、才能がありながら、出世できないことに悩んでいた門弟の山田又玄に、『月さびよ明智が妻の咄せむ』の句を贈って励ました



芭蕉句碑
『月さびよ明智が妻の咄せむ』



「又玄よ、今は出世の芽がでてないが、あなたにはそれを支える素晴らしい妻がいるじゃないか
 今夜はゆっくり明智の妻の黒髪物語を話してあげよう」



忠霊塔



この寺が大切にしているものが「忠」の精神なのか、振り返ってみると建物に「忠誠殿・忠霊塔」が記されている






称念寺を初めて訪れた後に、滋賀県にある「西教寺」を訪ねたときの事である
俳優の長谷川 博己氏が、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主演をすることになったと
明智光秀の墓前で報告をしていた(カメラを向けることのできないくらいの厳戒態勢で)



下記は初めて訪れた時の感想
「大好きな古い建築物も仏像も見当たらない寺であったが、新田義貞の忠誠心、明智光秀の夫婦愛、それに感激して詠んだ芭蕉の句
現代に生きる日本人の心の原点に触れたような心地よさを感じた寺であった」
今回も同じような思いである



撮影 令和6年5月30日
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大瀧神社・岡太神社(福井県越前市大滝町23-10)

2024年08月20日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月29日

大瀧神社・岡太神社
数年前、社殿が重要文化財に指定されているということで訪れたのが最初
地元愛、神社愛に溢れるボランティアガイド(若い女性)の説明を受けてから何度も訪れている
魅力は社殿の美しさにである

鳥居
上宮(奥の院)には大瀧・岡太両神社の本殿が並んで建っている
下宮(里宮)の本殿・拝殿は両神社の共有となっていることから、2つの神社の名前が併記されている



狛犬1






手水舎



観音堂(絵馬堂)
伝承によれば、養老3年(719年)、泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする「神仏習合の社」を創建
後に明治時代の神仏分離令により、現在の大瀧神社となった



額には「観音堂」



堂内に安置されている観音像だが、いつも隙間から拝観していた



木造十一面観音坐像(越前市指定文化財)
堂内に入って驚いたの観音像の前にある襖障子が解放されていた
撮影禁止の注意書きも無い



仏像を撮る機会など極めて稀で幸運に恵まれた



堂内の扁額には「神仏道場」









観音堂は絵馬堂としての役割も担っている






境内を歩き目的の社殿に向かう



神馬



狛犬2






階段を上がった場所からの社殿



正面からではこの社殿の美しさは伝わらない



神楽殿
神楽殿の扉が開放されているのも初めてだ
「紙祖神 岡太(おかもと)神社 御神輿」









この左の神輿は三十三年と五十年の記念すべき大祭のときにだけ担がれるという



拝殿(重要文化財)
江戸時代末期、天保14年(1843年)建立
大型の一間社流造本殿とその前面に建つ入母屋造妻入の拝殿を連結させた複合社殿



拝殿正面の彫刻(獅子、龍、鳳凰、草花の彫刻)



額には「岡太神社・大瀧神社」



参拝しているご夫婦もここが初めてということで、その社殿の美しさに感動していた



大久保勘左衛門(代表作は曹洞宗本山永平寺の勅使門)棟梁による、複雑な曲面を持つ積層した屋根が特徴
この屋根は設計図にはなかったと説明を受けた



この場所からの眺めが一番美しい



社殿壁面の彫刻(中国の故事を題材とした彫刻)



凝灰岩切石積みの基壇・石の亀腹は創建当時のものと地元の男性が以前話してくれた



三手先腰組みも珍しいという



袖面は「截髪図(せつぱつず)」
左面は「賢媛諫言図(けんえんかんげんず)」



右面は「厳子陵図(げんしりょうず)」



団体参拝者が近くに来ているとの情報があり、撮影スポットに戻り数枚撮る



ここも定番であるが、私の好きな場所である


















観光バスによる参拝者
ボランティアガイドによると知名度が上がってきているとのこと



撮影 令和6年5月29日
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総社大神宮(福井県越前市京町1丁目4番35号)

2024年08月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月29日

総社大神宮
総社とは大化改新の結果、越前国にも国府が置かれ、国司は管内の官社をはじめ、国内神名帳所載の諸社を巡拝することになっていた
やがて巡拝の労を少くする為や、急を要する祈願や祭礼のために、国司所祭の神霊を一ヶ所に合祀して総社が建てられた

鳥居
長徳2年(996年)、紫式部は越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向
もしかしたら、父とともに総社を参拝していたかも知れない
『源氏物語』の浮舟の巻には
「武生の国府に移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを…」 とあるそうだ
宇治から帰京する浮舟の母が
「たとえあなたが、遠い武生の国府のような所へ行ってしまったとしても、こっそりとお伺いしましょう…」



狛犬1






鳥居
鳥居の額には「總社大神」



正面に社殿が見える



手水舎



狛犬2









拝殿
鎌倉・室町時代の争乱により社殿は焼失し衰退した
前田利家が府中在城の時、本殿及び拝殿を寄進



現在の社殿は大正15年(1926年)6月に造営された
本殿は流造り、拝殿は入母屋造りで、千鳥破風を乗せ唐破風の向拝がついている



額には「總社」
拡大すると「海軍大臣 海軍大将 岡田啓介 謹書」とある
調べて見ると連合艦隊司令長官、昭和9年(1934年)には福井県初の内閣総理大臣に






本殿
祭神:大己貴命(大国主命)
   越前国中官社 百二十六座 (越前国延喜式内社126座)
*奈良時代の天平11年(739年)には、聖武天皇の勅願で諸国の総社に大己貴命を併せて祀る事になった



神馬






神楽蔵



忠魂堂






征清祈念碑



天満宮










国分寺
偶然、国分寺の案内板が視界に入ってきた
いくつかの国分寺巡りをしていたので嬉しい発見であった



本堂






堂内の様子






撮影訪問日 令和6年5月29日
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大塩八幡宮(福井県越前市国兼22-2)

2024年08月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月29日

大塩八幡宮
仁和3年(887年)、中納言紀友仲が仲間のねたみにより、越前国府へ流罪となった
現社地に榊を植えて石清水の八幡神に帰洛を祈願したところ、寛平元年(889年)に勅許を得て京都へ戻ることができた
寛平3年(891年)に社殿を造営して石清水八幡宮の神霊を勧請したのが当社の創建

一の鳥居



社号標
社号であるが、中世期の大塩保の中心集落であったことから、「大塩保八幡宮」と称された
明治以降「八幡神社」を正式な社号とした
昭和46年(1971年)、現社号「大塩八幡宮」に復称した



社務所
石段の途中に社務所がある



社務所付近からの眺め



二の鳥居
額には「八幡宮」



手水



幟には紫式部が暮らした福井県とある
越前市は、紫式部が生涯でただ一度都を離れて暮らした地とのこと
雄大な自然や文化に触れた暮らし、上質な越前和紙との出会いは、才能ある紫式部の感性をさらに豊かにした
このことがのちに源氏物語を執筆する原動力になったといわれている



梵鐘(越前市指定文化財)
仁安2年(1167年)に滋賀県の善勝寺で鋳造
慶長20年(1615年)に本多富正によって大坂夏の陣の戦勝記念として当神社に奉納された



拝殿(重要文化財)
社伝によれば寿永2年(1183年)、木曽義仲が平家を追ってこの社に陣を張った折、兵火により消失
誠に申し訳なしとて杣山山麓の日吉山王社の拝殿を三日三晩で移築したと云う
その後、数回修復されたが、文化6年(1809年)大修復の際、屋根もこけらから瓦葺となった






創建年代は不詳であるが、室町時代末期(1467年~1572年)の建造
桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、こけら葺
北陸地方唯一の大型拝殿である






拝殿内部






額には「大塩八幡宮」






「一之大鳥居」旧用材 台輪再生記念



「一之大鳥居」旧用材 旧主柱(寄木造り)






絵馬殿(兼神輿庫)









本殿
拝殿より一段高い場所にある



狛犬






額には「八幡宮」
祭神:帯中日子天皇(14代 仲哀天皇 )
   応神天皇(15代天皇)
   神功皇后(仲哀天皇皇后)



この地が雪国という事もあり、本殿全体が覆われ護られている



本殿から拝殿を観る






境内の6社
別宮 高岡神社
祭神:須佐之男尊



寿王神社(疱瘡神社)



準別宮 天国津彦神社、天国津彦天国津比咩神社
祭神:伊邪那岐尊
   伊邪那美尊



源嫡神社(東照宮)



天八百萬比目咩神社



高良神社



清務霊社



木曽義仲本陣跡伝承の地
源平合戦の際、木曽義仲は境内に本陣を置き、必勝を祈願したと伝わっている
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、「倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦い」で平氏の大軍を破って入京
源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた



堀切の跡
堀切とは、山城に用いられる防御のための土木建築



尾根を断ち切って分断し、先の平場へ進もうとする敵の侵入を防ぐ堀
写真では分からないが、確かに掘ったような痕跡が残っている



神門
神門を通って駐車場に戻る



二の鳥居から下方の眺め



常光寺(福井県越前市国兼町)
駐車場の案内によると日本一背が高い「如意輪観音像」があるという



如意輪観音像のイメージは艶めかしく座っている姿だが、ここは立像である



撮影 令和6年5月29日
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瑞巌山 高源寺(兵庫県丹波市青垣町桧倉514)

2024年08月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月27日

瑞巌山 高源寺
臨済宗妙心寺派の寺院
円通寺、石龕寺とともに「丹波紅葉三山」の1つとして知られる

大きな石には「高源寺」と彫られている
紅葉で有名な寺院らしいが、新緑の季節も美しい






惣門
弘巌玄猊が柏原藩の支援により再建



額の「丹丘勝處(たんきゅうしょうしょ)」は弘巌玄猊の筆



惣門をくぐると、モミジのトンネルになる
境内の大半のカエデは「天目楓」だが、山モミジ等のカエデもある



紅葉の季節になると、この木々の葉が紅く染まる



歩いてきた坂道を振り返ると惣門が見える



先には白壁の建物が見えてくる



山門(紫鳳楼)
寛政2年(1790年)頃、弘巌玄猊による再建



額には山号の「瑞巌山」と「西天目」
高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された、臨済宗中峰派の本山
甲斐(山梨)の「栖雲寺が東天目」と呼ぶのに対して、「高源寺は西天目」と呼ばれ、丹波屈指の名刹として知られている



仏殿(本堂)
享保5年(1720年)頃、天岩明啓禅師による再建
訪れた時には修復作業中で工事車両や道具類が周辺に置かれていた
当時の木材を出来るだけ使用して改修を進めているので時間がかかっているようだ



当山の中心をなす建物で、額にもあるように「灋王殿(ほうおうでん)」ともいう
本尊:釈迦如来坐像(天台宗の僧、恵心僧都の作と伝えられる)



幽霊もたれの松






幽霊水鏡の池(心字池)









境内にある滝






石仏
境内ではいくつかの石仏を目にしている
そのいずれもが、周囲の環境と同化している



高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された
遠谿祖雄は、幼少の頃より出家し、1306年に中国に渡り、杭州天目山の中峰国師のもとで約10年修行をして悟りを開く
帰国後、霊夢で得た天目山に似た佐治郷小倉に堂宇を創建
1326年には後醍醐天皇より高源寺号を賜り、また後柏原天皇の代には、勅願所の礼遇を許され、末代紫衣の宣旨を受けた



天正年間、織田信長の丹波攻略で建物をことごとく焼失
その後、享保の始めに天岩明啓禅師が再興
寛政11年(1799年)には、弘巌玄猊禅師が柏原藩の援助を得て再び再建し、現在に至っている



方丈
弘巌玄猊禅師による再建
庫裏を兼ねている









天目楓
境内の多くのカエデは、「天目楓」と呼ばれている
中国天目山より持ち帰ったカエデを境内に植えたことから始まる



葉が小さく、葉の切れ目が深く、枝が垂れ下がるといわれている



鐘楼
梵鐘は1947年(昭和22年)12月に鋳造
以前の鐘は太平洋戦争中に金属類回収令によって供出



画聖 雪舟作「大痩嶺」
この築山は、中国の大痩嶺をかたどって樹木岩石が配置されている



三笑橋



三重塔(多宝塔)



寛政2年(1790年)頃、弘巌玄猊禅師の建立
中は「輪蔵」という造りで、経典を納めている



周辺を歩いてみたが、塔全体を撮ることができるのは、この場所のみ



正面には三国伝来の印度昆須鳩摩の作と伝えられる開運「毘沙門天」を祀る












高源寺滞在中には降雨はなかったが、駐車場に戻ったころにポツポツ雨が落ちてきた
滞在している兵庫県は線上降雨帯に入り警報が出ているため100km離れた福井県に避難することにした

撮影 令和6年5月27日
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十九山 達身寺(兵庫県丹波市氷上町清住259)

2024年08月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月27日

十九山 達身寺
平安時代前期から鎌倉時代の仏像が多数納められており、「丹波の正倉院」の別名をもつ
寺伝によれば開山は行基菩薩

曹洞宗の寺院

石柱
達身寺(たっしんじ)は丹波地方有数の千年以上の歴史を持つ古刹
「丹波古刹十五ヶ寺霊場」第六番霊場になっている



寺号の「達身寺」と彫られている
寺名についていは、十九山の「達身堂(たるみどう)」を本堂としてこの地に移した為
十九山 達身寺(じゅうくさん たっしんじ)と名付けられた



仏像拝観を目的で訪れたのだが、遠くに見える茅葺き屋根の本堂に魅了された



戦国の時代、達身寺は、僧兵を抱え山岳仏教の教権を張るような大寺院であった
織田信長が丹波平定を行った際、明智光秀が丹波の地を攻めた
寺院は、焼かれてしまい、僧侶たちは仏像を近くの谷へ運び出したが、長い年月置き去りにされた



元禄8年(1695年)当地に疫病が流行し、占った結果、仏像を放置した罪が原因だといわれた
明智光秀の来襲の際に山に隠したまま放置されていた仏像を村人たちが回収
その際に山中のお堂を麓に移転させて、現在の達身寺の前身としたとされる



昭和52年(1977年)松竹映画「八つ墓村」で、渥美清 演じる金田一耕助が、「デカンショ節」など口ずさみながら向かった先が「達身寺」だと他のブログで知った
八つ墓村にたどり着いた落ち武者たちの総大将・尼子義孝の奥方と子息が播磨三日月、但馬生野、丹波篠山と落ちのびていったことをお寺の過去帳などをたよりにたどついたという



達身寺には、丹波仏師がいて造仏していたのではないかという郷土史家の説がある
その理由として、未完成の仏像、本尊仏が多い、同名の仏像が多い等があげられる



奈良の東大寺の古文書の中に丹波講師快慶と記されており「私は丹波仏師である。もしくは丹波の地とつながりの深い仏師である。」と言っている
とすれば、鎌倉時代の有名な仏師快慶は、達身寺から出た仏師もしくは、達身寺とつながりの深い仏師であると言える

前日に、浄土寺を訪れ、仏師快慶の代表作「阿弥陀三尊像(国宝)」を拝観しているだけに
当日、それを知っていたら、仏像の見方が変わっていたかも知れない



歴史ある本堂の軋む戸を開けて堂内にはいる(拝観料:400円)
お目当ての仏像は「宝物殿」に安置されている
その内容が凄い
重要文化財(12躯)/ 兵庫県指定文化財(34躯)/ 丹波市指定文化財(33躯)/破片(134片)



「阿弥陀如来、薬師如来、十一面観音」の重要文化財が中心的な存在となるが、黒色の衣装を身につけている仏像を初めて観た
また、数多くの仏像を目の当たりにすると、丹波仏師がいて造仏していたのであろうという説に納得してしまう



自宅に戻り調べることによって奥の深い古刹であると再認識した



駐車場には私の車が一台
怪しい空模様の通り、この数時間後には線状降水帯による豪雨で避難することになった



撮影 令和6年5月27日
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柏原八幡宮(兵庫県丹波市柏原町柏原3625)

2024年08月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月27日

柏原八幡宮(かいばらはちまんぐう)
前日に訪れる予定が降雨により、1日延びた
いつもなら通り過ぎた場所に戻ることはしないのだが、何故か気になっていた

社号標



鳥居
額には寺号の「八幡宮」



神馬



厳島神社(表弁天)



猿田彦神社



先の見えない参道を進む



初めて訪れたということもあり、先に何があるかも分からず上るのは辛いものだ



先に建物が見えてきた



祓殿



ゴール地点と思っていたが甘かった
つづら折りの参道がまだ続く



若宮社



手水舎



鳥居



拝殿・本殿(重要文化財)
社伝によると、舒明天皇の御代(629~641)に出雲連が入船山に素戔鳴尊を奉祀したのが当宮の創始と伝えられている
境内には、三重塔と釣鐘が現存し、神仏習合当時の景観を今日に伝える神社



狛犬
文久元年(1861年)柏原大新屋の上山孝之進・柏原北山の田口金次の寄進
作者は丹波佐吉(村上照信)



この狛犬は佐吉の晩年の作品で、豪快で躍動感のある最高傑作
平成23年(2011年)老朽化に伴い修理され、創建当時の姿に



拝殿(重要文化財)
天正13年(1585年)に羽柴秀吉が堀尾吉晴を奉行として再建
入母屋造妻入、正面唐破風付き、檜皮葺



拝殿の彫刻



本殿(重要文化財)
創建当初の社殿は南北朝時代の貞和元年(1345年)荻野安芸守が足利氏とこの地で戦い、その兵火によって焼失
再建された社殿も戦国時代の天正7年(1579年)織田信長の命をうけた明智光秀の丹波攻略の戦火により焼失



その後天正10年(1582年)羽柴秀吉は黒井城主堀尾毛介吉晴を普請奉行に任じて武運長久の祈願所として社殿造営を開始
天正13年(1585年)に再々建したのが現存する社殿



祭神:誉田別命(応神天皇)
   息長足姫命(神功皇后)
   比賣三柱命(多紀理比賣命・多紀都比賣命・市杵島比賣命)



香良神社



春日神社



西宮神社



祖霊社






三重塔(兵庫県指定文化財)



鐘楼



銅鐘(兵庫県指定文化財)
銅鐘には康応元年(1389年)と天文12年(1542年)の2つの年号が刻まれている
豊臣秀吉の寄進
神仏分離の際、棄却の対象となったが「時の鐘」として特別に存続を許されて、今日に至っている



八坂神社



三重塔(兵庫県指定文化財)
応仁2年(1469年)に創建されたが、本殿と同様に焼失・再建を繰り返す
現存する塔は江戸時代後期 文化12年(1815年)に彫刻師中井権治が中心となって再建された



三間三重塔婆、本瓦葺、檜皮葺、総高23m



神仏分離令の際に棄却されようとしたが、「八幡文庫」と称して存続を特別に認められ今日に至る






神社に塔が残っている事例は全国で18例のみであり極めて珍しい






住吉神社



厄除神社






社殿(本殿及び拝殿)は1913年(大正2年)に古社寺保存法により「特別保護建造物」に指定




西楽寺
駐車場前にある寺









撮影 令和6年5月27日
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御嶽山 清水寺<播州清水寺>(兵庫県加東市平木1194)

2024年08月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月26日

御嶽山 清水寺<別称:播州清水寺>
天台宗の寺院
京都市の音羽山清水寺と区別するため「播州清水寺」と呼ばれる
寺伝によると、天竺(古代インド)僧の「法道仙人」が創建したとされる

仁王門
この楼門は旧参道の頂上にあったが、昭和40年(1965年)の台風で全壊
昭和55年 (1980年)に場所をかえてこの地に再建した



金剛力士像
金剛力士像は、大正10年(1921年)に奈良の仏師 菅原大三郎が作成(遺作)






清水寺縁起



坂上田村麻呂佩刀奉納画



清水茶屋
参道は緩やかな坂道が続くが、疲れが出てくる場所に茶屋がある






手水舎



薬師堂
創建は、平安時代末期。平清盛の義母である「池禅尼」



現在の建物は、昭和59年(1984年)檜材にて再建



本尊:薬師如来






十二神将
平成13年(2001年)東京芸大・藪内佐斗司教授作



これまで観てきた「十二神将」との違いに驚く



大講堂<札所堂>(国登録有形文化財)
清水寺には2つの本堂がある
その一つが大講堂である(もう一つは根本中堂)



神亀2年(725年)の創建
聖武天皇の勅願所



大正2年(1913年)焼失、同6年(1917年)7月に再建された



扁額には寺号の「清水寺」



賓頭盧(びんずる)尊者



堂内外陣の様子



本尊:千手観音坐像(大正時代作)



地蔵堂
昭和57年(1982年)11月3日の再建



本尊:地蔵菩薩



昭和12年(1937年)、東京芸大 菅原安男 名誉教授の作



鐘楼(国登録有形文化財)
大正2年(1913年)焼失、同9年(1920年)の再建
梵鐘も鋳造された






梵鐘(開運の鐘)
この鐘の音は、播磨、丹波、摂津の国に響き渡り、開運の鐘として親しまれている



稲荷社
祭神:荼枳尼天尊



石造十三重塔



聖観世音菩薩
壇信徒の遺髪や分骨を納め祀る






根本中堂<本堂>(国登録有形文化財)
推古35年(627年)の創建
推古天皇勅願所



大正2年(1913年)焼失、同6年(1917年)の再建






本尊 :十一面観音立像(開山法道仙人一刀三礼の秘仏)
脇侍:毘沙門天立像・吉祥天立像(30年に一度の開帳の秘仏)



滾浄水(おかげの井戸)
開山法道仙人が水神に祈って湧水した霊泉



「清水寺」と称される由緒の地



この井戸をのぞきこんで自分の顔を写したら「寿命が3年延びる」と言い伝えられる
試してみたが、残念な結果に



大塔跡
明治40年( 1907年)に焼失、大正12年(1923年)に再建される
昭和40年(1965年)に台風で層輪が大きく傾く
さらに昭和48年(1973年)夏、落雷のため上層部が崩壊、その後撤去された



平清盛の武運長久を祈願して祇園御女により建立されたと言われている



撮影 令和6年5月26日
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鹿野山 朝光寺(兵庫県加東市畑609)

2024年08月13日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月26日

鹿野山(ろくやさん) 朝光寺
高野山真言宗
伝承によれば、白雉2年(651年)、「法道仙人」が権現山に開基したとされる
法道は天竺(インド)から紫の雲に乗って日本へやって来たと伝えられる、伝説上の人物
法道開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に多数ある

参道
令和2年10月に初めて訪れた時は、駐車場の場所が分からず苦労したことを思い出す
新緑に包まれた参道と川の流れる音が心地よい



山門



寺伝によると、文治年間の創建
三間一戸の八脚門形式は江戸初期から中期の様式



仁王像












本堂(国宝)
4年前(この時は2年前だと思っていた)に初めて訪れた時にボランティアガイドにお世話になった
この日は日曜日でガイドが待機していることを知っていたので訪れてみた



前回、お世話になったガイドの男性に声を掛け、以前お世話になったことを伝えた
勿論、私の記憶など無いのだが、再訪を喜んでくれた
と言うわけで、今回もガイドをお願いした



海老虹梁(えびこうりょう)
主に主柱から、低い位置にある向拝柱を結ぶ虹梁
湾曲している形から「海老」と名前が付けられている



この寺院の「海老虹梁」は、柱の曲線に注目すると、一つ一つが異なった造りになっている



本堂から山門を見る



本堂は、内陣に残されている旧壁板の墨書の内容により、応永20年(1413年)に建立されたことが判明
内部は外陣と内陣を敷居・格子戸で画し、内陣奥には須弥壇・厨子を設置し、本尊を安置している



本尊:十一面千手観世音菩薩 二躯

*写真はガイドさんの写真資料
京都・三十三間堂の十一面千手千眼観世音菩薩立像のうちの1躯を本尊(西本尊)として安置
三十三間堂の千体が「国宝」になったので、ここの仏像も「重要文化財」に格上げされたそうだ



内陣の須弥壇(左右に本尊を安置)



修復後の本堂柱



ここも普段は無視する場所だが説明を受けると面白い
足元の空間を広くしているのは、この場所が山中にあり湿気を防ぐために通気性を良くしているとのこと
本堂は斜面に建っているため柱の高さが違う
右側では立っていられたが、左側では膝を曲げなければ通ることができなかった



一本だけ形状の違う木があるのは何故か
創建当時からの未完成の柱
完成した時点から崩壊が始まるので完成させていないという(面白い)



多宝塔(兵庫県指定文化財)









鐘楼(重要文化財)
鎌倉後期、1275年~1332年頃の建立
桁行一間、梁間一間、袴腰付、寄棟造、とち葺形銅板葺



私の場合、建物だけに目がいくが、石の土台にのっている鐘楼というのも珍しい






屋根の形、ゴチャゴチャしている木組みも珍しいそうだ(確かに)



鎮守社、護法社



ツクバネ(加東市天然記念物)
羽子板で突く羽根に似ているので「衝羽根(つくばね)」と名付けられた



落下する時、羽根つきの羽根のようにクルクル回転するという



つくばねの滝






撮影 令和6年5月26日
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極楽山 浄土寺(兵庫県小野市浄谷町2094)

2024年08月12日 | 神社・仏閣
訪問日令和6年5月26日
極楽山 浄土寺
高野山真言宗の寺院
開山は重源で、建久5年(1194年)の創建

浄土堂<阿弥陀堂>(国宝)
治承4年(1180年)、平重衡の軍勢による南都焼討で、東大寺や興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた
この大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった



重源は大仏再興事業の拠点として、伊賀国(現・三重県)、周防国(現・山口県)など日本の7か所に東大寺の「別所」を創設した
七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である
この地は播磨国大部荘(おおべのしょう)といい、東大寺領であった



この地から西に約2kmのところに、奈良時代の僧・行基が建立したとされる浄土寺の前身寺院とされる「広渡寺」があった
建久5年(1194年)に広渡寺を現在地に移転して寺名を浄土寺へ改めた
建久8年(1197年)に本堂の薬師堂と浄土堂が大仏様で建立された



屋根は宝形造(四角錐状の屋根形)、本瓦葺きで平面の大きさの割に立ちが低い
屋根の形づくる線にほとんど反りがなく直線的であることが特色



堂内に入る(仏像拝観料:500円)



阿弥陀三尊像(国宝)
仏師快慶の代表作
巨大な三尊像で、阿弥陀如来は像高5m30cm(須弥壇を含めると7m50cm)
両脇侍、右・観音菩薩と左・勢至菩薩の像高は各々3m70cm



*写真の阿弥陀三尊像は駐車場案内板を撮影したもの
この阿弥陀三尊像を拝観するために、浄土寺を何度も訪れている

浄土堂は極楽浄土の位置する西側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ
堂の背後の蔀戸(しとみど、建物の内側または外側へ跳ね上げる形式の戸)を開け放つと背後からの西光が入る
晴れた日の夕刻には堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現す



浩宮徳仁親王殿下御参拝記念樹(今上天皇)









鐘楼堂(兵庫県指定文化財)






鎮守八幡神社






拝殿(重要文化財)
延応元年(1239年)創建
鎌倉時代後期の再建



本殿(重要文化財)
文暦2年(1235年)創建
室町時代中期の再建



不動堂






薬師堂(重要文化財)
浄土寺の本堂である
もとは建久8年(1197年)創建で、浄土堂と同じ大仏様であったとされる
現在のものは明応7年(1498年)に焼失後の永正14年(1517年)の再建



本尊:薬師如来






開山堂(兵庫県指定文化財)



経蔵



阿弥陀三尊像は何度観ても感動する
今度は晴れた日の夕刻に訪れ、来迎の風景を見たい



撮影令和6年5月26日
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