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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

妙義神社(群馬県富岡市妙義町妙義6番地)

2025年04月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月2日

妙義神社
妙義山の東麓に鎮座し、妙義山信仰の中心となっている神社
今回が2度目の参拝になるが、訪れた2ヶ月後に多くの建造物が重要文化財に追加された
境内は上部の神域と下部の旧寺域に分かれている

第一鳥居
最寄りの道の駅に車を駐め、少し歩くと鳥居が見えてくる



本社まで275段の石段がある



総門(重要文化財)
神仏習合時代、妙義神社には別当として上野寛永寺の末寺である「白雲山 高顕院 石塔寺」があった
現在の妙義神社の総門は、明治の初めに廃寺となった石塔寺の「仁王門」である



扁額には院号の「高顕院」



仁王像












銅鳥居(重要文化財)



稲荷神社(右)と和歌三神社



波己曾社(重要文化財)
現在の社殿は、宝暦年間(1751年 - 1764年)の大改修によるもの
古くは「波己曽(はこそ)神社」といい、『日本三代実録』に記載がある






拝殿内部



天井画






厳島社



手水舎



太鼓橋
太鼓橋を渡ると男坂と女坂に分かれている



男坂と女坂
今回も男坂を選択、165段の石段を上がることにした



随神門・廻廊(重要文化財)



随神像












唐門(重要文化財)
江戸時代後期、宝暦6年(1756年)の建立



上空には神社から許可を受けたカメラ搭載のドローンが飛んでいて、社殿の撮影をしていた
操縦していた2人の若者は映像のプロで、後に話しをする機会に恵まれた



天井画



門扉彫刻






拝殿(重要文化財)






拝殿内部









社殿の彫刻
日光東照宮の彫刻師がここに来て彫りあげたと伝えられている
















本殿(重要文化財)
祭神:日本武尊、豊受大神、菅原道真公、権大納言長親卿






帰りは女坂から









水神社



社務所(重要文化財)









撮影 令和6年10月2日
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身延山 久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町身延3567)

2025年04月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年10月1日

身延山 妙法華院 久遠寺
日蓮宗の総本山
伽藍は、明治8年(1875年)の大火で焼失し、現在立ち並ぶ堂宇は再建されたものが多い

三門(二王門)
「空」「無相」「無願」の三解脱をあらわす三門



79世日慈上人の筆による「身延山」の扁額



仁王像(身延町指定文化財)
伝運慶若しくは定朝作で鎌倉期の彫刻






菩提梯
全287段の石段(菩提=覚り、梯=かけはし)
登り切れば涅槃に達するという意味の梯は、南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、7区画に分けられている



上りきれば満足感を得られると思うが、私は前回と同じように、上にある有料駐車場まで車を走らせた



さらに駐車場からも文明の利器を有効に利用した



手水舎



五重塔
現在の五重塔は3代目で平成20年(2008年)竣工



初代の塔は元和5年(1619年)加賀前田利家の側室寿福院の建立。文政12年(1829年)焼失
2代目の塔は万延元年(1860年)起工、慶応元年(1865年)落慶、明治8年(1875年)焼失






鐘楼






本堂
久遠寺の歴史について
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした
日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言を行ったが、受け入れられることはなかった



祖師堂
当時、身延山は甲斐の国波木井郷を治める地頭の南部実長の領地だった
信者であった実長の招きにより、日蓮聖人は文永11年(1274年)身延山に入山し、西谷に構えた草庵を住処とした
文永11年(1274年)5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開創の日としている



報恩閣
弘安4年(1281年)年11月には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名した
翌弘安5年(1282)年9月、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かった
同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じた



「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人の遺言のとおり、その遺骨は身延山に祀られた



拝殿
約200年後の文明7年(1475年)西谷から現在の地へと移転し伽藍の整備がすすめられた
のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護を受けて栄え、宝永3年(1706年)には、皇室勅願所となった



仏殿



これまで堂宇の外観を紹介してきたが、本堂から仏殿までは廊下によってつながっている

開基堂






境内の主な建物を回ってきたが、これより報恩閣から堂内に入る

本堂
昭和60年(1985年)落慶(日蓮聖人第七百遠忌記念事業)



堂内の様子






本尊:須弥壇を含めて高さ9mの一塔両尊四士



天井画の「墨龍」は加山又造の作



祖師堂(棲神閣)
江戸時代に廃寺となった「感応寺」のお堂を、明治14年(1881年)に移築・再建






日蓮聖人の神霊を祀る



御真骨堂
日蓮聖人の御真骨を奉安する八角堂






客殿



書院の襖絵



駐車場へ戻る



撮影 令和6年10月1日
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天守君山 願成就院(静岡県伊豆の国市寺家83-1)

2025年04月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月30日

天守君山 願成就院(国史跡)
高野山真言宗の寺院
国宝の仏師運慶の阿弥陀如来坐像など5躯を所有する

山門
数年前に国宝の仏像を拝観するため、一度訪れたことがある



創建は文治5年(1189年)
『吾妻鏡』によると、北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立
北条時政とその子義時、孫の泰時の代にかけて次々に伽藍は拡大した



延徳3年(1491年)に北条早雲 による動乱で願成就院はほぼ全焼し
僅かに再建された堂宇も後年の豊臣秀吉の「小田原征伐」の際に再び全焼



運慶作の7体の仏像は僧侶らの手によって運び出され焼失は免れたが多くの寺宝は灰燼に帰し、願成就院は事実上壊滅した



江戸時代に後北条氏の末裔、北条氏貞が再建
現在の遺構はほぼその当時のものである
現存する茅葺の本堂は、棟札から寛政元年(1789年)の建立



北条時政の供養墓



<石碑に刻まれた内容>
北条時政公は願成就院の創健者で、今日に伝わる国宝指定の運慶作諸仏の檀越である
時政公はこの地、伊豆国北條に居館を有した平家一門の伊豆における有力豪族の一人で、伊豆国府在庁官人であった
1160年14歳で伊豆配流となった源頼朝を伊東祐親と共に監視する立場にあった



激動する歴史の中、娘政子が流人頼朝に嫁し、一転して頼朝の岳父となる
1180年8月17日の頼朝伊豆挙兵では、平家目代山木兼隆攻めの主将となりてこれを成功させる



以後は、平家討伐、鎌倉幕府創設では頼朝の参謀役、智将として大いに活躍してその立役者となる
頼朝亡き後も、鎌倉初代執権に就任して、東国武家政権の確立に努め、北條氏繁栄の礎となり、鎌倉北條氏の祖と呼ばれる幕府草創期の最重要人物の一人である



鐘楼















弘法大師像















本堂
現存する茅葺の本堂は、棟札から寛政元年(1789年)の建立



大御堂
拝観時間まで周囲を散策しながら写真を撮っていた
この堂内に運慶作の国宝の仏像が安置されている



一年ほど前に、梓澤要著の小説「荒仏師 運慶」を読んだ
小説ではあるが、時政と運慶とのやりとりが面白く表現されていた
「運慶に頼む、他の者では駄目だ。運慶一人にやらせろ。」
「政子は頼朝殿を支え、おなごの身でわれら北条一族の未来を背負うのじゃ。おぬしの造る仏の力で守ってやってくれ」



小説の影響もあり、もう一度運慶作の仏像を拝観したいと思い訪れた
拝観料:800円(↑)、受付も説明も外国人と時代の流れを感じた



仏像の胎内から銘札が発見され、施主が北条時政で文治2年(1186年)制作と判明
平成25年(2013年)仏像5躯が国宝に一括指定された






撮影 令和6年9月30日
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福地山 修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964番地)

2025年04月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月30日

福地山 修禅寺
正式名称は「福地山修禅萬安禅寺」で、略して「福地山修禅寺」と呼んでいる



数年前、修禅寺を目指して伊豆半島に来たことがあったが、途中強い雨がふり引き返してしまった
前日の夕方、温泉に入りに修善寺にきたのだが、道が狭く駐車場を探せなかったりでこの周辺を彷徨っていた
筥湯(はこゆ)で入浴し、有料駐車場の場所も確認し翌日に備えた



山門
大同2年(807年)に空海が創建したと伝えられている
奥之院(正覚寺)は、延暦10年(791年)に18歳の空海が修行したところと伝わっている



空海は、桂川で年老いた父親の患部に川の水を掛ける親子を見かけた
不憫に思い、独鈷(どっこ)で岩を砕いた所、熱湯が湧き出たと伝わっている
熱湯が湧き出た場所は、現在でも「独鈷(とっこ)の湯」として修禅寺前の桂川にある



仁王像












百度石



水屋



鐘楼堂



本堂
NHK大河ドラマ「鎌倉殿と13人」を熱心に視聴し興味がわき、吾妻鏡や太平記にも目を通していた



源範頼は、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の異母弟
平氏打倒のために挙兵した兄、頼朝と合流し10年に渡り頼朝公を支えた
曽我兄弟の仇討ちにおける頼朝遭難時の発言であらぬ嫌疑をかけられ、修禅寺に幽閉されそこで自刃した



源頼家は、建久10年(1199年)に父、頼朝が急死、これにより二代将軍となった(18歳)
頼家は病に倒れ、重篤な状態となり、これを機に有力御家人たちは、朝廷に頼家が死去したとの虚偽の報告を行い、弟である千幡(三代将軍 源実朝)が将軍職に就く許可を得る
病気から回復した頼家公は激怒するも、修禅寺に流され、ほどなくして刺客に命を奪われた



その後、戦乱や応永9年(1409年)の大火災で伽藍が全焼し荒廃
伊豆一国を治めた伊勢新九郎長氏(北条早雲)により、曹洞宗寺院として再興



現在の本堂は明治16年(1883年)に再建したもの
平成19年(2007年)には開創1200年祭が行われた



堂内の様子



本尊:金剛界大日如来坐像(重要文化財)
この地に流され命を落とした鎌倉幕府二代将軍の源頼家公の七回忌(承元4年:1210年)に母である北条政子(当時54歳)から寄進された
胎内から慶派の仏師「実慶」の墨書とともに三束の髪の毛が出てきた



欄間の彫刻と天井画












弘法大師空海像






壇信徒会館












庭石






宝物館
源範頼(左)・源頼家(右)肖像画



大黒天像






撮影 令和6年9月30日
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乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市塩山小屋敷2280)

2025年04月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月29日

乾徳山 恵林寺
臨済宗妙心寺派に属する寺院
甲斐武田氏の菩提寺

黒門
元徳2年(1330年)に、二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山
二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる



足利義満により鎌倉禅林十刹に準ずる寺格を与えられた
応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興した



永禄7年(1564年)11月に美濃崇福寺から「快川紹喜」が招かれる
快川紹喜は恵林寺住職となると、信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めた



天正4年(1576年)4月、遺言通り三年間の秘喪の後、武田勝頼は快川国師の導師のもと、父信玄の盛大な葬儀を厳修した



四脚門<通称・赤門>(重要文化財)



織田信長の甲州征伐(1582年)で焼失、その後、徳川家康によって再建(1606年年)された



再建時の姿を今日に伝える唯一の遺構



額には山号の「乾徳山(けんとくさん)」



参道周辺の庭園






三門(山梨県指定文化財)
天正10年(1582年)3月、勝頼は時運を味方につけることができず天目山下に自刃、甲斐武田氏は滅亡した
武田氏滅亡後、織田氏は恵林寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを要請するが、寺側が拒否



織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって恵林寺は焼き討ちにあった



快川紹喜が燃え盛る三門の上で
「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と発して快川紹喜は火定した



後代には快川の遺偈(ゆいげ)として広く知られている















寺院巡りをしていて、もう一度訪れたいと強く思っていたのが恵林寺のこの三門である
年齢的にも車旅では今回が最後だと決めていたのでしばらくの間眺めていた



開山堂兼法堂(甲州市指定文化財)



「夢窓国師、快川国師、末宗禅師安置」と記された札があった












佛舎利宝塔(三重塔)






信玄公宝物館



駐車場から境内に入る門となる
分かりやすくするため黒門から写真を並べ替えている






方丈
この奥に、国指定の名勝 庭園、武田信玄公墓所、柳沢吉保公墓所などがある(有料)



庫裡
拝観受付所になっている
拝観料:500円 駐車場:無料






撮影 令和6年9月29日
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甲斐善光寺<定額山浄智院善光寺>(山梨県甲府市善光寺3-36-1)

2025年04月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月28日

甲斐善光寺
正式名称は、定額山 浄智院 善光寺
浄土宗の寺院
各地の善光寺と区別するため「甲斐善光寺」と呼ばれることが多い

山門(重要文化財)
寺号柱にある「甲州善光寺」とも呼ばれている
棟札によれば、明和4年(1767年)の上棟



重層の楼門で、桁行16.88m、梁行6.75m、屋根幅22.9m、棟高15m
和様と唐様を折衷した本格的な大建造物



中央の扁額には山号の「定額山(じょうがくざん)」



仁王像
立派な仁王像ではあるが撮る側からすると障害物が多くて難しい



可能な限り目線が合うように撮っているため、同じアングルになってしまう



悩みながら撮っていると3人組の女性から声を掛けられた
山門を背景に写真を撮って欲しいとの依頼であった



一人旅をしていると会話する機会もなく、数日ぶりに話しをすることができた



山門の正面に本堂が見えてくる
工事中なのか網が張られている



香炉からの眺め






石仏群



手水舎



本堂(重要文化財)
棟札によれば、寛政元年(1789年)の上棟
竣工は寛政8年(1796年)と伝える



単層裳階付二重の撞木造で、正面梁行き23.6m、正面屋根幅30.8m、側面桁行38.0m、総奥行49.1m、総高27m
建坪310.8坪という、東日本最大級の木造建築として名高い



武田信玄は、川中島合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ、弘治元年(1555)本尊三国伝来阿弥陀如来をはじめとして、諸仏寺宝類を悉く佐久郡禰津村に移した
武田氏滅亡後は織田信長へ、その後、徳川家康から豊臣秀吉を経て信州へ帰仏した



甲府では、本尊の信州への動座により、新たに前立仏を本尊とした
本尊:善光寺如来(秘仏、重要文化財)



武田信玄公訓言
およそ軍勝五分を以って上と為し、七分を中となし、十分を以って下と為す
その故は、五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りをするが故
たとえ戦に十分の勝を得るとも、驕りを生ずれば次には必ず敗るるものなり
すべて戦に限らず世の中のことこの心がけ肝要なり






賓頭盧尊者






間断なく参拝者が訪れる



本堂から山門



鐘楼



銅鐘(山梨県指定文化財)












撮影 令和6年9月28日
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武田神社(山梨県甲府市古府中町2611)

2025年04月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月28日

甲斐 武田神社
武田八幡宮の後に訪れたのが「武田神社」
今回が2度目の参拝になるが駐車場が少し離れた場所にあるのが難点だ



鳥居



国史跡 躑躅ヶ崎館跡(武田氏館跡)
信玄の父 信虎が永正16年(1519年)に石和より移した「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡に鎮座」している
この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住した



大正4年(1915年)大正天皇の即位記念に武田信玄に従三位が追贈されたのを契機に、大正5年(1916年)に山梨県知事を総裁とする「武田神社奉建会」が設立
大正8年(1919年)には社殿が竣工し、信玄の命日にあたる4月12日には初の例祭が行われた



右近乃橘・左近乃櫻
京都御所の紫宸殿の左右に植えられていた桜と橘に由来する言葉






狛犬






手水舎



拝殿前に参拝者が並んでいたので周辺を散策
甲陽武能殿
「甲陽」とは、甲斐武田氏の軍学書「甲陽軍艦」より引用、「甲陽」の意は甲斐の国の輝く様を表している






武能とは、武田氏の「武」であり能楽の「舞」と同じ音につながる
古来より武芸を嗜む者は同時に舞をも嗜み、その拍子を己の武芸に取り入れたと伝えられている



社務所



水琴窟



姫の井戸(茶の湯の井戸)






初めて訪れた時の引率の女教師と女生徒とのやりとりを思い出す
教師「この水を飲むとお姫様のように美しくなるかも」
生徒「じゃ、今の私ってブスっていうこと」 
教師「…………」周囲は大爆笑だった



拝殿















奉納絵馬



額には社号の「武田神社」






本殿
祭神:武田信玄公



信玄公御使用井戸



次々と訪れる参拝者
戦国の英雄武田信玄の人気は今も続いている



撮影 令和6年9月28日
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武田八幡宮(山梨県韮崎市神山町北宮地1185)

2025年04月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月28日

武田八幡宮
山梨県というと武田信玄の名が頭に浮かぶ
社殿が重文に指定されているということで訪れたが1200年の歴史を有するとは知らなかった



一石百観音石像(韮崎市指定文化財)
宝永6年(1709年)に天下太平・国土安全を願って建立された



百観音石像は文字塔が一般的だが、像が彫刻されているものは珍しく貴重だ



三ノ鳥居(明神鳥居)と石垣(山梨県指定文化財)
石垣の上に立つ石鳥居と正面参道側の石垣と石段、随神門前の石積みは神社の境内の入口にあたる社頭の形態としては珍しい



随身門(楼門)
天保12年(1841年)に再建されたもの



手水舎



社務所



楼門の先に見えるのが神楽殿



神楽殿






秋の例大祭では、多数の舞が奉納されている









拝殿









本殿(重要文化財)
弘仁13年(822年)嵯峨天皇の勅命により、武田武大神(日本武尊の御子)を祀る祠を桜の御所から現在の地に遷宮
九州の宇佐神宮(八幡総本宮)を勧請、合祀し創建されたのが起りといわれている



祭神:武田武大神(日本武尊の御子)誉田別命(応神天皇)足仲津彦命(仲哀天皇)息長足姫命(神功皇后)



甲斐源氏の流れをくむ、新羅三郎義光のひ孫・龍光丸は13歳の保延6年(1140年)武田八幡宮の神前で元服し、武田太郎信義と名乗った
これが名門 甲斐武田氏の発祥となる



末社 若宮八幡神社本殿(山梨県指定文化財)
永久2年(1220年)武田信義の弟 加賀美次郎遠光によって建立された
祭神:仁徳天皇



若宮八幡神社本殿と武田八幡宮本殿



末社 為朝神社
鎮西八郎 源為朝を祀った神社



徳川家康も参拝し、「御武運長久・疱瘡麻疹安穏」を祈ったという



来た道を戻る(武田八幡宮の社殿)



階段を下り駐車場に戻る



ニノ鳥居(山梨県指定文化財)
両部鳥居
「武田八幡宮」と書かれた額があるが、武田信玄が書いたものだと伝えらえている



撮影 令和6年9月28日
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仁科神明宮(長野県大町市大字社宮本1159)

2025年04月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月27日

仁科神明宮
久し振りの再訪となる
途中、中央線をはみ出してきた大型車と接触するところだった



三本杉(長野県指定天然記念物)
周囲5m余、高さ50m余、樹齢推定800年余



昭和54年(1979年)3月、突風により「三本杉」の中央の杉の木が倒伏
その根元の部分をもとの位置に復元保存



手水舎



手水鉢



二ノ鳥居



仁科神明宮の社叢(長野県指定天然記念物)
周囲の木の高さに驚く



社務所



三ノ鳥居



神門



拝殿



拝殿内部には「神明宮」の扁額



国宝の社殿(本殿・中門)
国宝の社殿を近くで観ることができる
平安時代の終わりごろ、伊勢神宮領仁科御厨(伊勢神宮の庄園)を守るために、この地方の支配者である仁科氏により祭られた
以来、1000年以上にわたり20年に1度の遷宮(式年造営)が行われてきた



本殿(国宝)
祭神:天照皇大神
屋根檜皮葺、千木高く棟木の上には巴紋をつけた勝男木6本が置かれた平入の建造物で、内宮式神明造









左側に移動
20年に1度の式年造営が続けられたため以前の社殿の形式手法を保つことが出来ていることは貴重だ



特徴的な屋根の形



釣屋
本殿と中門との間をその屋根の中段から両下造にして連ねており、屋根は板葺で棟木を置き、柱を用いていない






中門(国宝)
単層平入の四脚門で、屋根切妻造・檜皮葺で千木と勝男木とが置かれている
屋根の形式は本殿とほぼ同じであるが、勝男木が四本であることと勾配の緩やかであることとが異なっている



神楽殿



元御神木



境内社









平日ということもあり参拝者の数は多いとはいえないが、途切れることもない
駐車場の車のナンバーを見ると県外車が多い感じがする






撮影 令和6年9月27日
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信濃国分寺(長野県上田市大字国分1049)

2025年04月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月26日

信濃国分寺
聖武天皇の詔により天平13年(741年)日本各地に建立された国分寺のうち、信濃国国分寺の後継寺院にあたる



この日は天気にも恵まれ、大法寺と安楽寺の国宝の三重塔を拝観、生島足島神社を参拝し、ここが4カ所目となる
重要文化財の三重塔の拝観が主な目的になる



観音堂
江戸初期の百体観音像を安置するというが、拝観することはできない



真田・徳川会見之地
慶長5年(1600年)真田昌幸が徳川秀忠と国分寺境内で会見し、和平を結んだと見せて油断させ、徳川軍をやぶる
このため秀忠は関ケ原の合戦に間に合わなくなった
現在、池波正太郎著「真田太平記」を読んでいる途中だが、まだ、この場面には至っていない



地蔵堂



郷土の名彫物師藤川仏師による地蔵尊と閻魔十王を安置する



三重塔(重要文化財)
三重塔は高さ20.1m 源頼朝の発願と伝えられる
塔内には建久8年(1197年)の墨書があったと伝わるが、様式から室町時代中期の建立と推定されている



初層内部は四天柱を立て、大日如来坐像を安置する






天正13年(1585年)の「上田合戦」では、三重塔を除いた他の堂宇が兵火にかかったと伝える






本堂(長野県指定文化財)
文政12年(1829年)の発願で、天保11年(1840年)に起工、万延元年(1860年)に竣工
発願以来30余年の歳月を要し、東北信全域より浄財をあおいで建てられた



本堂の彫刻









堂内に入る



扁額には「瑠璃光」
江戸時代には「浄瑠璃山真言院国分寺」と号した



本尊:薬師如来
諸国国分寺の本尊の多くが釈迦如来であるのに対して当寺は薬師如来である



本堂の薬師堂には「八日堂」の別称がある









白い象
釈迦の母のマヤがある日、白い象がお腹に入る夢を見た
年月が経って生まれたのが釈迦






鐘楼
享和元年(1801年)棟上 梵鐘は昭和27年再鋳



大黒天堂
輪王寺一品親王作と伝える尊像を祀る 大正13年(1924年)再建









撮影 令和6年9月26日
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生島足島神社(長野県上田市下之郷中池西701)

2025年03月31日 | 神社・仏閣
訪問日 令和9年5月26日

生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)
2度目の訪問になる
「日本中央」とは、日本の中心に鎮座する神社からきている



東鳥居
境内には二つの鳥居がある
夏至の日には東鳥居の真ん中から太陽が昇り、冬至の日には西鳥居の真ん中に太陽が沈むように造られている



鳥居の額には社号の「生島足島神社」






手水舎



神池
池心宮園地の神島内に社殿がある



参橋を渡る



小安社



良縁子宝、安産子育、夫婦円満の神






御本社(上社)
ここを訪れて数ヶ月後にあるYouTubeを視聴した
「縄文時代から存在する謎多き9つの神社」の1つに生島足島神社の名があった
創建が不詳というのは、日本という国ができる前から存在していたということらしい



主祭神:生島大神(いくしまのおおかみ)、足島大神(たるしまのおおかみ)
本殿内殿には床板がなく、土間が御神体になっている

社伝では、建御名方富命(タケミナカタノカミ)が諏訪へ向かっていた時、この地に留まり、生島・足島両神に米粥を煮て献じたという
伝承自体は現在も特殊神事の「御籠祭(おこもりさい)」に名残を残している



磐座・磐境
祭りに際して神が降臨する岩石もしくは石を築きめぐらした一定の場所






御神橋









「天皇陛下 幣帛料御下賜」と記されている
幣帛料(へいはくりょう)とは、神社に貨幣を奉納する祭祀の行いで、国の安全と繁栄を祈願する目的で行われる
この神社の祭神を祀る神社は少なく、近畿に少しと皇居内の宮中三殿だという



社務所






神楽殿



この日は真夏のような暑さで、一時の清涼感を味わうことができた






御神木(欅)



諏訪神社
生島足島神社摂社(下宮)






真田家縁の神社で、真田信幸が再建した



父は真田昌幸、弟は真田幸村(信繁)で、戦国武将として活躍した



祭神:建御名方富命、八重事代主命、八坂刀売命



歌舞伎舞台(長野県指定文化財)
農村歌舞伎舞台の中で最大規模を誇る
伝えでは、明治元年(1868年)に建設され、その後校舎や集会所としても利用された



資料館のようになっている






撮影 令和9年5月26日
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崇福山 安楽寺(長野県上田市別所温泉2361)

2025年03月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月26日

崇福山 安楽寺
曹洞宗の寺院 開山は樵谷惟仙(しょうこくいせん)
*伝承では天平年間(729 - 749年)「行基」の建立、平安時代の天長年間(824 - 834年)の創立いうが、鎌倉時代以前の歴史は判然としない 



境内図



山門



禅寺の境内は常に整備されていて気持ちがいい



鐘楼






本堂



扁額には寺号の「安楽禅寺」



堂内の様子



本尊:釈迦如来






扁額の文字「護聖(ごしょう)」は大切なものを守るという意味



庫裡



ここから有料となる 拝観料:300円

経堂(上田市指定文化財)
寛政6年(1794年)宇治の黄檗山萬福寺から購入した鉄眼の一切経を保管するために建てられた



「傅大師」によって考案されたといわれる廻転式書棚のような輪蔵
輪蔵には古来から必ず傅大師をまつる習慣がある



八角輪蔵(上田市指定文化財)



天井画も美しい






空穂(うつぼ)歌碑
「老いの眼に 観る日のありぬ 別所なる 唐風八角三重塔」



六地蔵





島木赤彦歌碑
「山かげに 松の花粉ぞ こぼれける ここに古りにし み佛の像」



傳芳堂
上記歌碑の「み佛の像」とは、傳芳堂に安置されている二つの像を指す



安楽寺前開山 樵谷惟仙和尚像(重要文化財)
鎌倉時代の中期、宋に渡って修学し、寛元4年(1246年 鎌倉時代)鎌倉建長寺開山「蘭渓道隆」と同船帰朝して後、安楽寺を開いた



安楽寺前二世 幼牛恵仁和尚像(重要文化財)
恵仁は幼牛と号し、惟仙にしたがって来朝して、安楽寺二代となった中国僧
墨書銘により、嘉暦4年(1329年 鎌倉時代)に造られた






八角三重塔(国宝)
階段を上がっていくと塔の姿が見えてくる



建立年代は平成16年の年代調査によって三重塔用材の伐採年代は正應2年(1289年)ということが判明
少なくとも1290年代(鎌倉時代末期)には建立されたことが明らかになり、わが国最古の禅宗様建築である



建築様式は禅宗様「八角三重塔」で、初重に裳階(もこし)をつけた珍しい形式






中国の塔を観ているような感じがする













参拝者も少なくゆっくり拝観することができた









撮影 令和6年9月26日
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一乗山 大法寺(長野県小県郡青木村当郷2052)

2025年03月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月26日

一乗山 大法寺
比叡山延暦寺を総本山とする天台宗の寺院
飛鳥時代の大宝年間(701年~704年)に、藤原鎌足の子の定恵によって開山
平安初期の大同年間(806年~810年)に、坂上田村麻呂の祈願から天台宗座主・義真により再興が図られた

観音堂
拝観料:300円 観音堂内部特別拝観:700円(予約)






予約をしていないため堂内には入ることできない



扁額には「開運大悲閣」
大悲閣とは、観世音菩薩の像を安置した仏堂(観音堂)を指す
慈悲深いという意味もある



本尊:十一面観音菩薩及び脇侍普賢菩薩立像 2躯(重要文化財)
   厨子及び須弥壇(重要文化財)



観音堂横にある観音像



とても美しい姿である



大法寺には「国宝の三重塔」があり、ここを訪れた目的でもある



三重塔(国宝)
坂を上がっていくと、日本一の美しさという「見返りの塔」が見えてくる



創建は、正慶2年(1333年)
この塔はその美しさから、近くを通る旅人がふり返りふり返り塔を眺めたことから「見返りの塔」の名でも親しまれれている



塔の初重(一階)が二重や三重に比べて大きいことで、塔全体の落ちついた感じや、優雅な印象を生んでいる
大法寺三重塔では、手先の数を初重と二・三重で変えることで、独特の変化をつけている
この技法は、三重塔としては極めて珍しく、奈良興福寺の三重塔だけにみられる工法である



国宝の三重塔は13基
長野県には2基あり、もう一つは「安楽寺」にある






少し高い場所に移動
このアングルで撮ることができる塔は少ない






塔を観るのが好きで国宝の塔(五重塔 9基、三重塔 13基、多宝塔 6基の計 28基)は既に全塔巡っている



大法寺の三重塔は今回が3度目の訪問になる
初回は午後に訪れたが光の関係でうまく撮れず、受付の方に聞くと午前中の早い時間がいいと
翌日の朝に再び訪れたのが2回目になる



観音堂の屋根



駐車場に戻る前に「見返りの塔」を観る
年齢的にも今回が最後になると思っている






撮影 令和6年9月26日
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淨瑠璃山 醫王院 淨光寺(長野県上高井郡小布施町雁田676)

2025年03月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月25日

淨瑠璃山 醫王院 淨光寺
真言宗豊山派の寺院
別名:雁田薬師、妻恋薬師

仁王門
久し振りになるが、3度目の訪問になる
仁王門横の説明機のスイッチを押すと境内に大音量で流れる



仁王像
雁田薬師には七不思議というものがある
「七不思議 其の五」に、土中から掘り出された紅白の仁王像もその一つ






二人の仏師によって彫られたためで、色も縁起の良い赤と白に塗られている






参道の石段
「七不思議 其の四」に自然石の石段がある
一見雑然としているが、下の方から体を低くして見上げると、石段の鼻先が一直線に揃っている






石段横に安置されている石仏









薬師堂(重要文化財)
室町時代の応永15年(1408年)の建立
「七不思議 其の一」には、この時代に施薬院が置かれ、薬師堂が建立されたことがそもそも不思議だという



「国宝薬師堂」と彫られている
昔は国宝に指定されていた



茅葺屋根は、平成19年(2007年)に葺き替えられた



翌年の平成20年(2008年)に建立満600年を迎えた






本尊:薬師瑠璃光如来十二神将
(通称:お薬師さま)
「七不思議 其の二」には、人々の病気をなおし、寿命を延ばすことを本願とするお薬師さんが「縁結びのお薬師さん」になった



岩座の上に日光・月光両菩薩と十二神将に囲まれている
胎内銘に応永16年(1409年)とあり、薬師堂 建立の翌年の作である



何百年も崩れたことがないという石段を下りる



社務所



時代の流れか駐車場の一部がRVパークになっていた

撮影 令和6年9月25日
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金峯神社(新潟県長岡市西蔵王2丁目6-19)

2025年03月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年9月24日

金峯(きんぷ)神社

鳥居
鳥居横にある駐車スペースに車を駐める
鳥居の前に道路があり、車に注意しながら撮った



鳥居から少し歩いた所に社殿があり、その近くに駐車場があった



手水舎



手水鉢には美しい花が飾られている



拝殿へと続く参道では風車が迎えてくれる



よく見ると金峯神社と書かれた風鈴もある
この日は30℃を超える高温で風が吹くと涼やかな音が耳に入ってくる



振り返ると三色の風車が規則的に置かれている



神馬



拝殿
和銅2年(709年)元明天皇の勅願により北国鎮護のため大和国吉野山の蔵王権現を分霊して古志郡楡原の地に創建
秋葉三尺坊は後に信州戸隠を経て遠州に渡り一大修験勢力を築いたが戦に破れ仁治3年(1242年)現在の又倉村の地に遷座



信濃川河川交通の重要地であるこの地に門前町を築き、軍事勢力を持ち蔵王堂城を築き長岡の町の基礎を築いた
河川沿いの長い丘状に発展した町の様から「長岡」という地名が起こった



蔵王堂城主堀直竒は信濃川にかけるこの地から平方原に城を築城した(長岡城)
江戸時代、東叡山寛永寺天海僧正により別当寺の「安禅寺」が真言宗から天台宗に宗旨替えとなる



明治維新の神仏分離令により別当寺の「安禅寺」は分離・廃寺となり、蔵王堂は「金峯神社」と改名



本殿
祭神:金山彦命(かなやまびこのみこと)



明治40年(1907年)社殿炎上し、大正2年(1913年)再建
平成15年(2003年)出火により拝殿の外壁の一部と屋根部分を焼失
平成16年(2004年)新潟県中越地震により本殿基礎部分に被害



平成21年(2009年)創建千三百年祭を斎行



間断なく参拝者が訪れている



撮影 令和6年9月24日
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