goo blog サービス終了のお知らせ 

今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

東郷池(鳥取県東伯郡湯梨浜町)

2013年11月11日 | 名所・旧跡
 三仏寺から道の駅に向かっている途中に幻想的な湖があり、近くに駐車場があったので車を駐め外に出た。
 近くにいる人に何という湖ですかと尋ねると「東郷池」と教えてくれた。

 東郷池
 池の中央付近の湖底からは温泉が湧くという全国でも珍しい池であり、湖畔にははわい温泉と東郷温泉がある。
 冬には池から湯気が立つ神秘的な風景も見られることがある。

 

 左側を見ると池の上に家が浮かんでいるような感じがする。

 

 車から望遠レンズを取り出し撮してみる

 


 右側を見ると「ここは日本なの」という不思議な光景が

 

 中国風の建物が並んでいて、何か不思議な感じがする

 
 

 ここは公園になっていて、親子連れや、釣り人なども多い

 

 とてもリラックスできる場所で1時間近く遠くを見ていた 


 


 撮影 平成25年10月31日 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

餘部鉄橋・橋梁(兵庫県美方郡香美町香住区)

2013年11月07日 | 名所・旧跡
悪いことは重なるもので道の駅でブログを作成しているとどこからともなく笛の音が聞こえてくる。
「悪魔が来たりて笛を吹く」ではないが延々と続き止める気配もない。
車から降りて様子を見ると女性二人が外に立ち車内灯のわずかな光を利用して朗読に合わせ笛を吹き、何かの練習をしている。
11時前には終わったが笛の音色と旋律が耳に残っている。
朝は朝で騒々しい女性の声で目が覚めた。朝の6時前からグループで賑やかに話している。
道の駅が集合場所のようだ。うとうとして目が覚めると8時40分になっていた。
外は小雨がちらつき比叡山に行こうかという気持ちもなくなり、琵琶湖周辺を回ることにした。

ブログの方であるが餘部橋梁について写真で紹介する。



餘部鉄橋・橋梁 
余部鉄橋列車転落事故で鉄橋の存在を知り数年前に来たことがある。
そのときは鉄橋の補修か補強工事をしているものと思っていたが、今回訪れてその変わりように大変驚いた。



鉄橋がなくなっている。いや、正確には観光用に一部を残している。



観光客が歩いて行く方向に行ってみることにする。細い坂道が続き40m上にある駅まで続く。



余部鉄橋 空の駅 
本線の横に観光用に100m程度の線路が設置されていて自由に歩くことができる。



少し前まで強い雨が降っていたが上から見える景色もなかなかいい。



以前訪れた時は観光客もなく寂しい感じではあったが、観光バスが駐車できるスペースや、道の駅までできいてとても活気がある。
この「空の駅」も(あまり見たくはないが)一部だが床部分がガラス張りになっていて下が透けてみえるなど工夫されている。



撮影スポット
駅と反対側の高台に撮影スポットとかかれた案内板があったので、列車の出発時間を確認し行くことにした。



約20分間待つことになったが他の観光客と話をする機会を得て新たな情報を入手することができた。
放送で列車が着くことがアナウンスされる。
このように待機して列車を撮るのは初めての経験なので緊張する。



望遠レンズも持ってはいたが距離が近いため標準レンズで久しぶりの連写を堪能した。



縦社会の生活が長かったので、つい写真も縦にしてしまう。



できあがってみると横の写真の方が全体の様子もわかりいい感じがする。






1986年(昭和61年)12月28日、香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車と、お座敷列車「みやび」7両の計8両編成が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より転落した。



転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。
回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員だった主婦5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った。



余部橋梁は2代存在し、初代の旧橋梁は鋼製トレッスル橋で「余部鉄橋」の通称でも知られ、1912年(明治45年)3月1日に開通し、2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了した。



2代目の現橋梁はエクストラドーズドPC橋で、2007年3月からの架け替え工事を経て、2010年8月12日に供用が始まった。



慰霊碑の聖観世音菩薩

 


撮影 平成25年10月30日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊根の舟屋<重要伝統的建造物群保存地区>(京都府与謝郡伊根町)

2013年11月06日 | 名所・旧跡
昨日は京都近郊の道の駅に宿泊したが、最低気温を記録したようで駐車している多くの車も苦慮していた。
私も着込んで暖をとってはいたが途中からは我慢ができずマナー違反にはなるがエンジンをかけてしまった。
今日から京都に入ったが狭い道で対向車を避けたときに車体をガードレールに擦ってしまった。
車の傷は大事には至ってはいないが、私の心の傷は大きく、温泉でも気が動転していたのか裸になって浴槽には行かずロビーの方へ歩いて行き注意されてしまった。


 
伊根の舟屋(重要伝統的建造物群保存地区) 
伊根の舟屋については以前にも掲載しているが、夕方でしかも雨という条件だったので、もう一度訪れてみた。

今日は3部構成で報告する
第1部 遊覧船からの風景
遊覧船の出航時刻は1時間に2便、00分、30分になっている。乗船した証拠に私の愛車が駐車場にある。



久しぶりに望遠レンズを本体につけた。最近では筋力が低下しレンズが重く感じるようになってきた。



この地区でも船が大型化して外に停泊している家も多くなってきているという。



湾内には「生け簀」がたくさん浮いている。






小さな赤い灯台。岩が亀の形に似ている。湾内のあちこちには釣り人がいる。



湾内は穏やかで波などまったく見えないが、潮の流れはよくわかる。






船から遠くに見える山の風景。薄く二重三重になりとてもきれいだ。



 


曇天でこれだけきれいなら晴れたらどうなのかなとつい考えてしまう。



第2部 女性杜氏 久仁子のお酒
NHKの旅番組で歌手の松崎しげる氏が紹介した番組を偶然視ていた。
向井酒造の感じの良いご夫婦でとくに女性杜氏の久仁子さんが造った赤い色をしたお酒を買いたくてこの5月に舞鶴の道の駅に行ってみた。
しかしどこにも置いてなく今日は店を訪ねることにした。



狭い道路を注意しながら走行していると神戸ナンバーの車が駐まっていた。
もしやと思いその後ろに駐まるとそこが「向井酒造」だった。
お目当てのお酒は人気商品で予約がなければ手に入らないと申し訳なさそうに話してくれた。



私は個人的にお酒を飲むことはほとんどないが、酒場放浪記にはまっている知人のためにお土産として購入した。
お店所有のいかだがあるのでよかったらご利用くださいといわれ案内された。そこから撮った写真である。



神戸ナンバーの車の方ともここで20分程度話をすることができた。
各シーズンに1回、年間4回は来ていると話してくれた。
下の写真の1軒があまり知られていない旅館だがとてもすばらしく数回宿泊されているようだ。
音の出るものは部屋にはなく、海の音を聞いてくださいという旅館だそうだ。



 


第3部 展望台からの風景 
以前来たときに道の駅を作っていたがついに完成したようだ。しかし、何もない。
50m程上に以前からあった土産店がある。お店の中に入り、突き抜けて外に出ると展望台があり「伊根の舟屋」全体を見ることができる。






あいにくの曇天だが霞んではいない。



関西のおばちゃん軍団が話をしていてその内容も面白いので聞き入ってしまった。



湾は雲で覆われていたが上空では風が強いため時々陽が射す。
おばちゃん軍団に今がシャッターチャンスだと教えてあげたが何のことかわかってもらえない。
その後、最近よくあるのだが、私のカメラがフリーズしてしまった。 




撮影 平成25年10月29日
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九頭竜ダム(福井県大野市長野)

2013年10月28日 | 名所・旧跡
名所旧跡を訪ねる旅

九頭竜川沿いの道路はとても景色がきれいで車を止めたい衝動にかられるが、道路幅が狭く駐車スペースがないため我慢することになる。



この白い橋からの景色が良かったので車から降りてはみたが。



まもなく九頭竜ダムの駐車場があったので立ち寄ってみた。



生まれて初めてダムにきたと思う。ただ、高所恐怖症なのでダムの写真は苦手だ。



もちろん人造湖だが水面が特に美しい。気温は10℃北海道と大差ない寒さだ。木々も色づいてきている。






屋内の建物内ではダム建設についてのビデオが「プロジェクトX」風に流れている。



短期間で完成したダムのようだが、その分困難も多かったようである。









寒風降雨のなか命綱を張って作業している人がいる。電気を無駄には使いたくないものだ。




撮影 平成25年10月26日 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有楽苑<国宝茶室 如庵>(愛知県犬山市御門先)

2013年10月27日 | 名所・旧跡
名所旧跡を訪ねる旅

体の幅はこれ以上広げる訳にはいかないが、知識の幅が広がると人生が豊かになる。
豊かな人生を送るために国宝の茶室を見学することにした。入場前に案内板を撮る。
この内容を後で振り返りながらブログの参考にしている。
横幅の広い人影が映っているがそれが私だ。



国宝の茶室を見るのに入苑料1,000円は高い。
お茶はいかがしますかと聞かれたが「いらない」とはっきりことわった。
 
入ってすぐ、自分が予想していたものとはずいぶん違う感じがした。
歩道の左右には美しく手入れされた木々が続き、国宝の茶室がぽんと置かれていると思っていただけに、この先何があるのか読めず、しかも茶室という未知の世界というこのもあり精神的に不安になった。



「有楽苑」と書かれた門が見えてきた。ここが入り口になる。



旧正伝院書院の裏手を通る。



歩道の左右の緑がとても美しい。



含翠門をくぐる



弘庵 
茶会のために新築された茶室。



水琴窟(すいきんくつ)といい水の音が琴のような音に聞こえる。
音楽が流れているのかと思うほどの音色だ。



国宝茶室 如庵
雰囲気のある萱門をくぐると如庵が見えてくる。ここまでくる道が長く感じられたがやっと到着した。



「如庵」何と洒落た名前ではないか。
一説によれば庵主織田有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から付けられたという。






「有楽好み井筒」



「せっかくですから、こちらでお休みになりませんか」と係の女性から声をかけられた。
(ここは500円で抹茶を飲むところだが)
「お休みいただくだけでも結構ですから、おかけ下さい」と更にすすめられた。
女性の親切には本当に弱い。
「ありがとうございます」と言って、ついお茶を注文してしまった。



この係の女性は私がお茶を飲んでいるこの場所「旧正伝院書院(重要文化財)」と「如庵(国宝)」の歴史について30分近く説明してくれた。
忙しい日は、1時間に80回お茶の注文が入るようだが、空いているときにはこのように直接説明することを大切にしているようである。



もう一人の女性も途中から説明を聞いていたが、別れ際に「ご一緒に話を聞かせていただきありがとうございました」と一礼して去っていった。
会話をしたわけでもないのになかなか言えないことばである。

「萱門」は古風でとてもすばらしい。






旅の醍醐味は人との出会いだが、今日はいい人と出会えた。




撮影 平成25年10月24日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島平和記念公園(広島県広島市中区中島町)

2013年10月03日 | 名所・旧跡
昨夜、伊勢神宮で「遷御の儀」が行われた。
ドナルド・キーン氏は「国籍という枠組みを超越した神事で、もはや伊勢や日本国内だけの儀式ではなくなっている」という。
安倍首相が参列したことに賛否両論があるようであるが、国民的・国家的行事に日本国の代表が参加することは当然のことと私は思っている。 

自分がその場にいたら、どのような行動をしたのだろうか。「助けなきゃ」と父親に最後の言葉を残しとびだしていった踏切事故。
若い頃には「人のためには…」と考え行動してきたつもりだが、いつのまにか「自分のために…」に変わってきている。
彼女が残した、最後の言葉と行動が頭から離れない。(この日のニュースから)



今日は広島平和記念公園の原爆ドーム周辺の写真を紹介。説明文はHPから掲載した。


原爆の子の像
佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかける。



2歳の時被爆した佐々木禎子さんは、幸いけがもなく、元気で活発な少女に成長していた。
ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診断され、8か月間の闘病生活の後、1955(昭和30)年10月25日に短い生涯を終えた。
禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けた。
病気を乗りこえ、懸命に生きようとした「サダコ」の物語は、ヒロシマの悲劇の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれている。


平和の灯 
水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため建立。

広島平和記念資料館(重要文化財)
「広島平和記念都市建設法」に基づき、平和記念公園の中に、1955(昭和30)年6月に平和記念館が、8月に平和記念資料館が開館。
2006(平成18)年7月5日には、平和記念資料館の本館部分が国の重要文化財に指定された。




全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火された。
この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっている。


原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑) 
世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立した。







原爆ドーム




  

原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼、中にいた30人余りの人々は全員死亡したと伝えられている。



爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらした。



その形から、占領が明けた頃には「原爆ドーム」という言葉が広く使われ始めた。













動員学徒慰霊塔
第二次世界大戦中、労働力の不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍にたおれた学徒と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるため。






夕暮れ時の公園駐車場



撮影 平成21年10月11日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浮島湿原 その2(北海道上川郡上川町字上越)

2013年09月21日 | 名所・旧跡
失言は多いが、湿原は初めて。写真は多いが植物の判別ができない。
そんな私の写真による旅日記の続きである。 



沼の上に円く浮かんでいる植物がわかるだろうか。これが湿原の名前となった浮島である。



沼の色が「真っ黒」のため、近くの木々、青空や雲などが鏡のようによく映る。
また、多くは実物よりきれいに映し出されるので、ついついシャッターを押してしまう。
何でも実物以上に映るので顔に自信のない人は一度試してみるとよい。
ただし沼に頭から落ちてしまうというリスクもあるので気をつけること。これも失言かな。



これまでこのような風景を見たことがなく、外国の風景に近いのかなと思ったが、外国に行ったこともなかった。



あたりが急に暗くなり湿原に色が消えてきたので、白黒にしてみた。



私は神社仏閣の写真が好きだが「白黒」にしたらどうなるのかなとイメージが膨らんできた。
そう考えていると空の所々に青空が見えてきた。












大きな沼が見えてきた。この沼の周辺はまだ緑が多い。






今、思い出したが、レンズを購入して初めての撮影になる。
ネット中古だが自分では格安で落札したと思っている。
キャノンの24-105mmのズームレンズでとても使いやすい。






この木を見たとき東北の「奇跡の一本松」を思い出した。

















もう一度浮島









雨がぱらぱら音をたて落ちてきた。



帰りは私の人生と同じように、ほとんどが下り坂。人生なら苦しいが、歩いて戻るには楽だ。



調べると日本の湿原の85%は北海道に集中しているそうだ。
どの季節がいいのかわからないが、浮島湿原にはまた来てみたい。 


撮影 平成25年9月18日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浮島湿原 その1(北海道上川郡上川町字上越)

2013年09月20日 | 名所・旧跡
今回、初めて地元北海道を紹介する。
浮島湿原は興味のない人にとっては知られていない場所で観光客も多いとは思えない。
昔、紋別市に5年間勤務していたことがあり、浮島湿原に入る道路(273号線)は50回以上は通行していたが今年に入るまでその存在は知らなかった。 



旭川方面からは無料高速道路があり「浮島」で下りる。
滝上・紋別方面に向かって5分程走ると右側に小さな看板が見える。
浮島トンネルが見えてくると行き過ぎなので戻ることになる。
私などは約40年間見過ごしてきたので心配することはない。

下の写真は車道ではなく、湿原に向かう歩道。湿原までの車道はこの歩道の2倍の幅、今となっては珍しい砂利道走行を往復5キロ程度経験できる。



湿原までは1.6Kmとの案内板があるが、歩道の左右は写真のような雰囲気。



この日は曇りで雨雲が空を覆い小雨も降る天気。時々青空が見える。



湿原などでコケ類も


 
比較的新しい倒木



このような風景に慣れてくると、気になるのが「あとどれくらいで着くの」ということ。
そのような気持ちを察してか、次の控えめな案内板には距離が書いてあり、あと700mということがわかる。
歩道にはウッドチップが敷かれ、柔らかく膝にも優しいが、この日は台風の2日後でもあり足型がくっきり残り、それなりの対応が必要であるということを学んだ。



到着。案内板で沼が多いことを初めて知る。案内板では42になっているが、大小合わせて70余りの沼が点在している。



湿原遊歩道の入口、先が見えないだけに「ワクワク」してくる。



最初に見える湿原風景。



大きな沼には案内板がある。雲が厚く夕方のような感じもするが午前11時過ぎである。



沼の中央に円い植物の固まりがあるが、実は沼に島のように浮かんでいる。「浮島」である。












この日は曇天だったためか沼の色は「真っ黒」。
今、北海道では「青い沼」に観光客が集まっているようであるが、この自然の黒い沼も面白い。



沼に周囲の木を入れて撮すことによって面白い写真になる。
風景写真など撮したことがなかったので新鮮で楽しい気持ちになる。









これはやり過ぎかも知れないが本当に楽しい。



北海道に住む人間には見慣れている光景だが、木の枝が雪の重みで下に向いている。



風向きの関係で枝が一定方向に向いている。



海抜850メートル、面積約700ヘクタールの高層湿原。

  

1日では紹介できないほどの空間なので続きは明日。興味のある人はぜひご覧ください。 

次回へ続く


撮影 平成25年9月18日
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊根の舟屋(京都府与謝郡伊根町)

2013年09月19日 | 名所・旧跡
石山寺の次に三井寺にいったのだが私のハードディスクの中に画像が1枚も残っていない。
この旅行中の画像を整理しているうちに消去してしまったようだ。
一瞬青ざめてしまったが再度訪れるきっかけになったのでよかったと考えることにする。

さて、この日舞鶴港から小樽港行きのフェリーで帰る予定だったが、同僚から伊根に行くようにと言われていたので、人間関係の悪化を防ぐため最後の目的地とした。



途中にある「天橋立」には2度訪れたが、伊根町まで車を走らせることはなく、舟屋のことをTVで放映されていたのを視た程度の知識だ。



伊根町に向かう途中の狭い道路で接触事故を起こすところだった。
舟屋のある道路は特に狭く、車を駐めることによって迷惑をかけそうだったのでいい場所を探そうと思い車を走らせると、高台にいい場所を見つけた。



レストランや土産物屋もある場所で、近くに道の駅を建てていた。
私は「晴れ男」で旅行中、雨にあたることはほとんどないがその雨が降ってきた。
時間も午後5時半、周囲は暗くなり今回、初使用となる「傘と三脚」を車から取り出した。



200mmの望遠レンズでの撮影となったが、デジタルカメラのため実際はかなり暗いのだが昼間のように写る。



舟屋は江戸時代中期頃から存在しているものと見られる。
舟屋は2000年現在、238棟が確認されている。



漁村では全国で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けている。



今年になって伊根町に関するTV番組で、女性杜氏が造った地酒が紹介された。
今年5月に舞鶴の道の駅に置いているのかなと思い寄ってみたが残念ながらなかった。



舞鶴港から出港する前に舞鶴のパチンコ屋に行くのがほぼ習慣化されている。
そして、いつも勝つ。この夏はエヴァンゲリオンという台であったが、午後9時頃から大当たりが続き帰りの船賃におつりがきた。


撮影 平成22年7月28日
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村大字島庄)

2013年09月08日 | 名所・旧跡
2020年のオリンピック、パラリンピックの開催が東京都に決定した記念すべき日である。
私の母校となる高校や大学も多くのメダルを獲得しており、今回の決定は夢のようである。




さて、今日の石舞台はNHKの朝ドラを視るきっかけとなった「あすか」の舞台となった場所である。
子役の榎園実穂が遊んでいたのがこの石舞台である。
視るきっかけとなったのは女優竹内結子が高校生役で登場した瞬間からで衝撃を受けるほどの美しさがその当時あった。


石舞台古墳の歴史(特別史跡)
奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出する。
被葬者は明らかではないが、7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかといわれている。




封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。






夏休みということもあり親子連れが多い。駐車場も満車で他の駐車場を探すのに苦労した記憶がよみがえる。



30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれる。



地元では他に「石蓋」(いしぶた)などの名前で呼ばれていた。
古墳でありながら「石舞台」と呼ばれているのは,天井石を舞台にして狐が女に化けて舞を見せたという伝説があり,また,いつの時代かわからないが,旅芸人がこの石の上で舞を披露したという云われから名付けられているらしい。




石室入り口 



埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口している。



石室内部



外気温は30℃をこえているが石室内は涼しく過ごしやすい。



石室はすでにほとんどの埋葬品が盗掘に遭った後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。



長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を有する。
また、石室内部には排水施設がある。




見学者の身長から石室の高さが想像できる。



大小の石が巧みに組み込まれ安定している。



石と石の隙間から見学者を撮影した。



石舞台はまた歴史の舞台でもある。 



撮影 平成22年7月25日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

落柿舎(京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町)

2013年07月31日 | 名所・旧跡
念仏寺からの帰路、京都では多分初めて見る畑、その奥に鳥居が見えた。
近くまで行くと嵯峨天皇皇女の陵であるということがわかったが、その近くに「落柿舎」と書かれた小さな案内札があった。
落柿舎という名前を知っている程度だったが案内札の小ささに逆に大きな興味が湧き入ってみることにした。




見過ごしてしまいそうな案内札。



落柿舎の歴史
松尾芭蕉の十哲の一人として名高い向井去来の別荘として使用されていた草庵で、去来がこの草庵について書いた「落柿舎ノ記」がある。
古い家の周囲には40本の柿の木があったという。



当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちにほとんどおちつくし、かねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。
これが落柿舎の名の由来である。

建物を右側から順に撮してみた。







これまで俳句には全く縁がなかったが、この場所に座ると五七五を頭の中で数えているから笑ってしまう。



去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。
かつて武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。
 その句 「鴨なくや弓矢を捨てて十余年」 はよく知られているそうだ。







私以外の観光客は全て女性で、とてもその場に長居できる雰囲気ではなく、周囲を歩きながら撮影する。












句碑や石塔などもある。



 


松尾芭蕉「嵯峨日記」
芭蕉が初めて訪れたのは元禄2年(1689)、 併せて三度来庵す。
元禄4年(1691年)4月から5月までここに松尾芭蕉が滞在して嵯峨日記を著した。













蓑と笠
落柿舎の入口には常に蓑と笠がかけてある。
これは本来庵主の在庵と不在を示すもので、ここに蓑笠がかけてあったら在庵、なければ外出中というしるしであるが、今は落柿舎の象徴として常にある。




撮影 平成25年5月25日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

錦帯橋(山口県岩国市岩国)

2013年07月16日 | 名所・旧跡


錦帯橋の歴史
山口県岩国市の錦川に架橋された木造のアーチ橋。
初代岩国領主吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と城下町をつなぐ橋は、数回架けられているが、錦川の洪水により、たびたび流失していた。
3代領主吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。
橋脚を無くすことで流失を避けられるとのアイディアのもと、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。
しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋とするのは困難であった。
広嘉は、明の帰化僧である独立性易(どくりゅうしょうえき)から、杭州の西湖には、島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知る。
これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至った。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。
児玉九郎右衛門の設計により、1673年(延宝元年)に5連のアーチ橋の錦帯橋が完成した。
しかし、翌年の1674年(延宝2年)、洪水によって流失してしまった。
同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。


河原にある駐車場から見た錦帯橋。山の上に岩国城が見える。




さらに近づいてみる。橋の下で記念写真を撮っている人も多い。




もう少し接近すると苦労してここに至った橋の構造を見ることができる。



日本三大奇橋・日本三大名橋
諸説はあるが、
三大奇橋:錦帯橋(山口県岩国市)、猿橋(山梨県大月市)、神橋(栃木県日光市)、かずら橋(徳島県西祖谷山村)  <何故か4橋?>
三大名橋:錦帯橋(山口県岩国市)、眼鏡橋(長崎県長崎市)、日本橋(東京都中央区)


昔は一般庶民はこの橋を渡ることはできなかったが、現在は渡橋料300円で往復することができる。
橋の上からの風景も良く、川の流れも橋を境に違うことがわかる。だが短い距離なので油断するとあっという間に着いてしまう。
渡橋料のことを考えると、途中何度か立ち止まって風景を楽しんだり、用もないのに他人に話しかけたり、観察したりすることをおすすめする。
橋の上からの撮影は屋形船でも浮かんでいれば別だが意外にも好きな景色はなかった。
夢のない話だが対岸に行くには遠回りになるがもちろん普通の橋もある。

対岸からの風景
こちらには川岸に芝生もありゆっくり休むことができる。若い恋人同士、疲れた老人が多かった。










槍倒し松(やりこかしまつ)
岩国武士の負けず嫌いを表徴する槍倒し松。
昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていた。
しかし大藩が小藩の城下を通るときには、儀礼を守らず通った。
岩国の武士達はこれを見て憤慨し、かなり成長した横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえども槍を倒さなければ通ることができないようにした。




巌流ゆかりの柳
佐々木巌流小次郎は宮本武蔵との勝負に敗れたが、「つばめ返し」の剣法は天下無双だった。
吉川英治の小説「宮本武蔵」のなかで、岩国で生まれた小次郎は、母から家伝の長光の刀(一名 物干し竿)を授かり、このあたりの柳とつばめを相手に独りで工夫し、努力を重ね、遂に「つばめ返し」の術を編み出したと記している。




小説の中に小次郎と岩国の場面もあったが、はっきりとは覚えていない。
しかし学生時代、吉川英治や司馬遼太郎の小説を少ない小遣いの中から(二子玉川園駅にある高島屋の1階にあった紀伊國屋書店で)購入し、夢中になって読んでいたことを思い出した。懐かしい。


撮影 平成25年5月21日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊野磨崖仏(大分県豊後高田市田染平野)

2013年07月11日 | 名所・旧跡
熊野磨崖仏とは
大分県豊後高田市にある平安時代後期の磨崖仏である。
国の重要文化財(1964年5月26日指定)及び史跡(1955年2月15日指定)に指定されている。




山道・鳥居
受付所の係の女性が私の何を見て判断したのか、お好きな杖を使うようにと促してくれた。
大分の友人から勧められた磨崖仏であり「石段を歩くけどいいのか」との内容を地元の言葉で念を押された場所でもある。
自分の意思に逆らい、手になじむ杖を選び山道に向かった。




緑に囲まれ鳥や虫の声を聞きながら最高の気分で歩が進む。しかし……。



自然石の石段
急な山道を300メートルほど進むと、鬼が一夜にして積み上げたという伝説が残る自然石を乱積にした石段に達する。

鳥居の横の石柱に次の文字が刻まれている

信心を 石段で見る 磨崖佛

この刻まれた文字の意味するところは無知な私にも見上げた石段の様子から理解できる。
自然石の石段についてもこの旅行記のどこかに書いている。
ところで、杖のイメージは、花咲じいさんや水戸黄門といった背中の曲がった爺さんが持つもので、腹の出ている者が持つべきではないと思っていたが、いやいや、今回その本来の役割を実感することができた。




熊野磨崖仏(重要文化財、史跡)
急峻な石段を登ると左手が開け、岩壁に刻まれた2体の巨大な磨崖仏が現れる。
鬱蒼とした山中にこれほど巨大なものを刻んだことは、当時の信仰の強さを物語っている。
豊後磨崖仏の代表的なもので、日本最大級のスケールを誇る。


不動明王像
向かって左に位置する高さ約8メートルの半身像。
比較的軟らかく加工しやすい岩壁に刻まれており風化が進行しているため、明王像ではあるが憤怒の相は現さず、口元に柔和な笑みを浮かべているようにも見える。




約10年に一度行なわれる六郷満山の伝統行事である峯入りの荒行は、この不動明王の前を出発点とし、護摩を焚いて行程150km、約10日間の行に入る。









時間の経過で穏やかな表情に変化したのか。
仏像を観ていると過去を振り返り反省することが多いが、この不動明王像は将来こうなりたいと思わせるから不思議だ。







大日如来像
向かって右に位置する高さ約6.7メートルの引き締まった表情の半身像。
高さ約8メートルのくぼみの中に彫り出されている。
羅髪等の造形的特徴から、不動明王像よりも制作年代が下ると推定されている。













この大日如来像の厳しい顔が印象に残る。正面の目線の合った地点が特に厳しい顔になる。
「仕事もしないで甘ったれた人生を送ってんじゃないよ!」と言われたような気がして驚いた。




熊野神社
さらに石段を上がると何があるのかと思ったら神社があった。
山道に鳥居があったのはこの神社のかとここで気がついた。










撮影 平成25年5月20日
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高千穂峡(宮崎県西臼杵郡高千穂町大字向山)

2013年07月10日 | 名所・旧跡


雨模様だが人気観光地しかも日曜日ということもあり心配なのは駐車場だ。
以前訪れたときには真名井の滝のボート乗り場の近くに駐めることができたが、道路脇で車の誘導をしている係の方から今日は混んでいるのでここに駐めて下さいと折り返し地点の場所に案内された。
さらに、この車は大きいのでここにと最高の場所に誘導された。ついている。高揚した気持ちにカメラと雨傘を持って車を降りた。

古い石橋を渡って駐車場に到着。車に乗っていると高さは感じないが下から見ると高所恐怖症なので嫌な感じがする。
帰りは慎重運転でと思ったが交通量が多いため一方通行になっていた。




高千穂峡(名勝、天然記念物)
高千穂峡は、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井にある五ヶ瀬川にかかる峡谷である。
阿蘇カルデラをつくった火山活動によって、約12万年前と約9万年前の2回に噴出した高温の軽石流が、当時の五ヶ瀬川の峡谷沿いに厚く流れ下った。
この火砕流堆積物が冷却固結し熔結凝灰岩となり、柱状節理が生じた。
熔結凝灰岩は磨食を受けやすいため、五ヶ瀬川の侵食によって再びV字峡谷となったものが高千穂峡である。
高さ80m~100mにも達する断崖が7kmにわたり続いており、これを総称して五ヶ瀬川峡谷(高千穂峡)と呼ぶ。


遊歩道があり最初に見える景色になる。












遊歩道の横に案内板があるのだが、遊歩道が狭い上に大勢の観光客さらに雨傘といった悪条件が重なり、ただ歩いているだけといった感じでこの縄の意味が何だったのかわからない。



真名井の滝(日本の滝百選)
峡谷の崖上は自然公園となっており、その中にある「おのころ池」より高千穂峡の川幅が狭まった部分に流れ落ちる水が真名井の滝となっている。
神話によれば天村雲命(あめのむらくものみこと)という神が天孫降臨の際に、この地に水がなかったので水種を移した。これが天真名井として湧水し、滝となって流れ落ちているといわれている。







旅行雑誌などで有名な撮影スポット。
当然、観光客には大人気で団体客が通過すると10分程度は後ろで静かに待っていなければならない。
プロかアマかわからないがニコンの一眼レフに望遠レンズをつけ三脚を立て写していた人がいたが、人が来ると迷惑にならない場所に待機している。
今、鉄道写真愛好家のマナーが問題になっているが、彼の行動はすばらしい。しばらく撮影している様子を見せてもらった。
夏場は午後10時まで滝周辺がライトアップされ幻想的な雰囲気を出しているそうだ。







上に目を向けると遊歩道の両側に断崖絶壁が続く、この緑の中に囲まれていることによって、下の風景が映えているのかもしれない。


















緑の環境にこの古い橋はとても似合っている。
最後の一枚は橋の上から歩いてきた道を写したものだ。




旅を終えて思い出した事がある。観光客向けに毎日夜神楽を開催している。
前回来たときには熊本のホテルに宿泊していたので時間的に無理があるということであきらめたが、今回は車中泊でしかも道の駅「高千穂」に宿泊していた。
本当に悔いが残る。ということは次があるのかもしれない。


撮影 平成25年5月19日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臼杵石仏<磨崖仏>(大分県臼杵市深田)

2013年07月08日 | 名所・旧跡
12時に別府駅で高校3年生の時の同級生と会う約束をしていた。
彼は大分市に居住し、昨年10月に北海道で開催されたクラス会で再会した。
高校卒業後42年経過しての再会だけに始めのうちは出席者の顔を見てもわからない、名前を聞いてもわからない、当時の写真を見ても多くの者は自分さえも判別できない状態だった。
しかし、夜中まで飲み騒いでいる内に、脳の奥底に眠っていた記憶が徐々に甦り、参加者全員がお世話になり尊敬している恩師を囲み楽しい一時を過ごした。
参加者の中で一番遠くから来ていたのが大分在住の彼だった。義理人情に厚いということは遠くから参加したことでもわかる。
そのことは私に欠けている部分でもあるので、「今度、大分で再会しよう」と私から約束したのが今日に至った経緯である。
彼とは別府駅で待ち合わせ、車で10分くらい走った海辺のホテルで豪華な昼食をご馳走になり、ホテル内の温泉で海を見ながら想い出話しをした。
入浴後、私の車を見てもらい、別れ際にその時は「もう二度と会うことはないかも知れない」と互いに思い固い握手をして別れた。ところが…… (後日続きがある)




臼杵石仏(国宝)
臼杵石仏は今から1400年前(飛鳥後期から奈良時代)、真名野長者の名で親しまれた「炭焼小五郎」が、亡くなった娘の供養に中国の天台山に黄金3万両を献上して、そのお礼に来られた蓮城法師からインドの祇園精舎の話を聞き、木彫りの仏師を大勢招いて掘らせたといわれている。

古園石仏大日如来像に代表される臼杵石仏(磨崖仏)は、その規模と、数量において、また彫刻の質の高さにおいて、わが国を代表する石仏群であり、平成7年磨崖仏では全国初、彫刻としても九州初の国宝に指定された。
その数は、60余体にもおよび、このうち59体が国宝となった。
石仏群は4群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第1群、ホキ石仏第2群、山王山石仏、古園石仏と名づけられた。
ホキとは「がけ」という意味の地名。


ホキ石仏第一群
平安時代から鎌倉期に至るまでの磨崖仏が20数体並び、まさに壮観である。
4つの龕からなり、第1龕は、如来坐像3体と菩薩立像2体、第2龕は阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像、如来坐像の3体、第3龕は大日如来像ほか4体、第4龕は地蔵菩薩半跏像並びに十王像の11体。
龕(がん)とは石仏を安置している箱という意味。






















ホキ石仏第二群
2龕からなり、第1龕には阿弥陀三尊像が見事な技術で掘り出され、その堂々とした体、中尊と両脇侍のそれぞれに異なった豊かな表情など、まことに見事な磨崖仏。
第2龕は、「九品の阿弥陀」と呼ばれ、比較的小さな仏像が彫られている。
















山王山石仏
中央に丈六の如来像と左右に脇侍の様に如来を刻む三体の如来像で構成されている。
仏像の顔は輪郭が丸く、目鼻は童児のようで、邪気のない純真無垢な童顔そのもの。通称「隠れ地蔵」と言われている。
















古園石仏
古園石仏は、大日如来像を中心とする曼荼羅を構成し整然とした陣容をそなえる、臼杵石仏の中心的存在。通称古園十三仏とも、大日山石仏とも言われている。
特に中尊の大日如来は日本の石仏の中でも最高傑作の一つといえる。
崩壊破損が甚だしかったが、修復工事(S33~)により平成5年8月25日には中尊大日如来の仏頭が復位され、昔日の荘厳な姿に復旧した。































五輪塔(重要文化財)
大小2基とも在銘の五輪塔。大きい方は荒削りだが素朴で重量感あふれる塔。
「嘉応弐年(1170年)」の刻銘がある。小さい方は「承安二年(1172年)」「千部如法経願主遍照金剛」の銘が刻まれている。
この塔は、承安2年に如法経(法華経)を納めるために造立されたことがうかがえる。







石造五輪塔(県有形文化財)
五輪塔は、上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の五つの部分から成っている。
この塔の特徴は宝珠を請ける花の形をした風輪が大きく、その下の笠(火輪)を請ける水輪が楕円形状に掘り出されているところから不安定な形になっている。
平安時代末期から鎌倉時代初期ころに供養塔として製作されたと推定される。




今から10年程前、職場で親しくしていた同僚の一人が石仏を見に大分に行ってくると言ったことを思い出した。
その時は世の中物好きな人もいるのだなと思っていた。その同僚からはその後、写真家 土門拳の存在を教えられた。
写真集を借りて見ているうちに、山形県酒田市にある土門拳記念館に行かねばならぬと思い訪れ、いつのまにか「古寺巡礼」をしている自分がいる。
彼との出会いがあり、また趣味が一つ増え豊かな人生を送ることができ本当に感謝している。


撮影 平成25年5月18日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする