今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

錦帯橋(山口県岩国市岩国)

2013年07月16日 | 名所・旧跡


錦帯橋の歴史
山口県岩国市の錦川に架橋された木造のアーチ橋。
初代岩国領主吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と城下町をつなぐ橋は、数回架けられているが、錦川の洪水により、たびたび流失していた。
3代領主吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。
橋脚を無くすことで流失を避けられるとのアイディアのもと、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。
しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋とするのは困難であった。
広嘉は、明の帰化僧である独立性易(どくりゅうしょうえき)から、杭州の西湖には、島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知る。
これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至った。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。
児玉九郎右衛門の設計により、1673年(延宝元年)に5連のアーチ橋の錦帯橋が完成した。
しかし、翌年の1674年(延宝2年)、洪水によって流失してしまった。
同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。


河原にある駐車場から見た錦帯橋。山の上に岩国城が見える。




さらに近づいてみる。橋の下で記念写真を撮っている人も多い。




もう少し接近すると苦労してここに至った橋の構造を見ることができる。



日本三大奇橋・日本三大名橋
諸説はあるが、
三大奇橋:錦帯橋(山口県岩国市)、猿橋(山梨県大月市)、神橋(栃木県日光市)、かずら橋(徳島県西祖谷山村)  <何故か4橋?>
三大名橋:錦帯橋(山口県岩国市)、眼鏡橋(長崎県長崎市)、日本橋(東京都中央区)


昔は一般庶民はこの橋を渡ることはできなかったが、現在は渡橋料300円で往復することができる。
橋の上からの風景も良く、川の流れも橋を境に違うことがわかる。だが短い距離なので油断するとあっという間に着いてしまう。
渡橋料のことを考えると、途中何度か立ち止まって風景を楽しんだり、用もないのに他人に話しかけたり、観察したりすることをおすすめする。
橋の上からの撮影は屋形船でも浮かんでいれば別だが意外にも好きな景色はなかった。
夢のない話だが対岸に行くには遠回りになるがもちろん普通の橋もある。

対岸からの風景
こちらには川岸に芝生もありゆっくり休むことができる。若い恋人同士、疲れた老人が多かった。










槍倒し松(やりこかしまつ)
岩国武士の負けず嫌いを表徴する槍倒し松。
昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていた。
しかし大藩が小藩の城下を通るときには、儀礼を守らず通った。
岩国の武士達はこれを見て憤慨し、かなり成長した横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえども槍を倒さなければ通ることができないようにした。




巌流ゆかりの柳
佐々木巌流小次郎は宮本武蔵との勝負に敗れたが、「つばめ返し」の剣法は天下無双だった。
吉川英治の小説「宮本武蔵」のなかで、岩国で生まれた小次郎は、母から家伝の長光の刀(一名 物干し竿)を授かり、このあたりの柳とつばめを相手に独りで工夫し、努力を重ね、遂に「つばめ返し」の術を編み出したと記している。




小説の中に小次郎と岩国の場面もあったが、はっきりとは覚えていない。
しかし学生時代、吉川英治や司馬遼太郎の小説を少ない小遣いの中から(二子玉川園駅にある高島屋の1階にあった紀伊國屋書店で)購入し、夢中になって読んでいたことを思い出した。懐かしい。


撮影 平成25年5月21日

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