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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

栗林公園(香川県高松市栗林町)

2014年03月18日 | 名所・旧跡
私が四国の徳島市を訪れる1ヶ月前に四国に行った同僚から、高松の「栗林(りつりん)公園と平家物語歴史館」が良かったという話しを聞いていた
高松は母の故郷であり一度行ってみたいと思っていた

特別名勝 栗林公園
香川県営の都市公園(歴史公園)、日本庭園
特別名勝に指定されている



栗林を「りつりん」とは読めず、一致するにはしばらく時間を要した



「鶴亀松(つるかめまつ)」
約110個の石を組み合わせて亀を表現し、その背中で鶴が舞っているような姿に見えることからこのような名前がつけられている






「箱松・屏風松(はこまつ・びょうぶまつ)」
南側の背丈の低い松が箱松、北側の背丈の高い松が屏風松



この木の形は栗林公園独特のもので、300年以上にわたる手入れの積み重ねによって枝振りが保たれている






「北湖(ほっこ)」
北湖は園内に6つある池の一つ



北湖周辺の風景



「見返り獅子・牡丹石」
牡丹の花に似ているところから「牡丹石」
獅子が後ろを振り向いている姿に似ているところから「見返り獅子」といわれている



これらの石は、難民救済策として、めずらしい石や木を持ってこさせ、持ってきた者に食料などを与えたといわれている



「日暮亭(ひぐらしてい)」



この茅葺き草庵型の建物は、1898年(明治31年)に建てられた石州流の茶室



中には、茶室が5部屋あり、その真ん中に水屋が設けられるなどの工夫がされている



 


「掬月亭(きくげつてい)」
歴代の藩主が使用した茶室



江戸時代は「大茶屋」といわれていた



玄関を持たず、どこからでも出入りできるように、いろいろなところに沓脱石(くつぬぎいし)が置かれた



名前の由来は、唐代の詩の中の「水を掬すれば月手にあり」の一句から取ったものといわれている



2012年には、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」の「2011年日本庭園ランキング」で、足立美術館(島根県)、桂離宮(京都府)に続く3位を獲得している



*1位の足立美術館はH25.11.10付けで紹介

「鶏林石(けいりんせき)」
各藩の大名が築庭する際、藩主が互いに名木奇石を贈った
この石は朝鮮産の石で薩摩藩主 島津公から贈られたもの



「偃月橋(えんげつきょう)」
内の橋でも最も大きな橋



美しい反りが特徴の橋



弓張り月(半月)が湖面に影を映す姿から名付けられた



「飛来峰(ひらいほう)」
富士山に似せてつくったとされる築山



紫雲山を背景に、掬月亭、手前には偃月橋と、まさに圧巻の景色が広がる



 
帰路の途中に景色のよい場所を発見、手前には鯉も泳いでいる












三木武吉像:鳩山一郎の盟友で、自由民主党結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者
「ヤジ将軍」「策士」「政界の大狸」などの異名を取った
栗林公園との関係は不明だが記念に



この後、平家物語歴史館に
平家一門の繁栄と悲劇をろう人形310体、17場面の壮大なスケールで再現した立体歴史絵巻
最後に驚きの落語でいうと「おち」がある
撮影禁止のため紹介できないが価値はある


撮影 平成16年11月19日
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大歩危峡(徳島県三好市山城町上名)

2014年03月16日 | 名所・旧跡
「祖谷(いや)渓」をこえると「大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)」という、漢字の読めない地域に入る
道路から見える川は急流だが、美しい



大歩危峡観光遊船
道路沿いに大きな建物があり、車を駐めるとそこは観光船のチケット乗り場になっていた
北海道ではこのような川の色を見ることはできない



下の方で賑やかな声が聞こえてきたので移動してみると、観光船乗り場が見える



乗り場の方に近づいてみると噂通り流れが急だ



船には雨でも大丈夫なように覆いがつけられていて写真も撮れそうなので乗ることにした



「日本三大暴れ川」というのがある。坂東太郎(利根川)、 筑紫次郎(筑後川)、そして 四国三郎と呼ばれているのが吉野川



数日前までは台風により四国三郎が暴れ、この岩の上まで川の水がきていたと船頭が説明していた



観光船は流れの穏やかな場所を選んで進んで行くが、船内は男は私一人に大阪のおばちゃん集団…



すれ違った遊覧船の様子
一方こちらの船は男は私一人、当然話しの矛先が私に向かってくる…



この大きな岩は有名な岩らしいが、船頭の説明も聞かず「仕事をしているのか」などと話しかけてくる



この場所で船はUターンして元の乗り場にもどる。写真左上にあるのが道路になる



V字に切り立った大歩危峡の峡谷美をゆったり堪能することができる



往復で約30分の船旅、結構楽しめる
最後の一枚は船着き場から




撮影 平成16年11月18日
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祖谷渓(徳島県三好市西祖谷山村戸ノ谷)

2014年03月15日 | 名所・旧跡
選抜高校野球の組み合わせが決まり、そのなかに懐かしい池田高校の名前があった
「さわやかイレブン」「やまびこ打線」と呼ばれたその豪快な攻撃野球はこれまでの常識を破るものであった
今日紹介する「祖谷渓」に向かう途中に池田高校があり、そのことを思い出した

祖谷渓
吉野川支流の祖谷川にあり、全長は10kmにも及ぶ
高さ数10~100mの高低差もさることながら、降水量も多いために樹木が生い茂り、隔絶された深山幽谷の景観を擁する



この日も雨が降り「祖谷渓展望台」から見える景色も霞んでいる



この吉野川支流の祖谷川の色は北海道では見ることができない



しばらく進むと案内板と面白い像が見えてきた



後ろから見るとこのようになっている



1968年 河崎良行 作 「祖谷渓の小便小僧」だが…



何と、この像は断崖絶壁に立っているのだ
これ以上先に進む勇気はない



さらに車を進めると車窓から美しい風景が見えてきた



一帯は平家の隠れ里として名高く、日本三大秘境を謳う地であり、山麓にへばりつくように住宅が点在する 




撮影 平成16年11月18日 
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祖谷のかずら橋(徳島県三好市西祖谷山村善徳)

2014年03月14日 | 名所・旧跡
四国は私の母の故郷であるが、四国の地に足を踏み入れたのはこの時が初めてである
徳島市に2泊。写真で見たことのある「祖谷のかずら橋」をこの目で確かめてみたかった

祖谷のかずら橋
サルナシ(しらくちかずら)などの葛類を使って架けられた原始的な吊り橋
文書によると、かって7ないし13の橋が存在したとされる



起源はその昔、弘法大師が祖谷に来たとき困っている村民のために架けたとか…



平家の落人がこの地に潜み、追手が迫ってもすぐ切り落とせるように葛を使って架設したとの伝説がある
ところで、橋を渡っている夫婦。妻は積極的、夫は本当に嫌がっていた



雨も降っていて足下の木も滑る
夫の歩が進まない



橋に近づくと橋床のさな木から下がはっきりと見える
高い所は苦手で渡るかどうか迷ってしまう



例の夫は必死に頑張っているが、妻は対岸で笑顔かあきれ顔で待っているはずだ



頑張る姿は美しく、人を動かす力がある
私も入場料を払い渡ることにした



実際に渡ってみると、考えていた以上に恐怖感がある



長さ45m、幅2m、谷からの高さ14mで日本三奇橋の一つであり、重要有形民俗文化財



橋から撮った普通の写真だが、傘をさし、カメラを構えて、横向きになって下の景色を撮る



特に横向きになる動作が難しく「綱渡り」のような感じになり足がすくむ



さらに揺れも含めると決して短い距離とは思えなくなる












だが、慣れというのは恐ろしいもので、余裕も出てくる
目は美しい風景を探している



紅葉している木もあり、流れている川の色も美しい



渡り終えて振り返る橋はとても美しく見える






 


琵琶の滝の由来



「逃げる平家」  このような山奥まで歴史の道は続く



 





川岸まで降りかずら橋を撮る



車道から見えるかずら橋



安全のためワイヤーが使われており、かずらはワイヤーを包み込む装飾になっている



期待通りの橋であった




撮影 平成16年11月18日 
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餘部鉄橋・橋梁(兵庫県美方郡香美町香住区余部)

2014年03月12日 | 名所・旧跡
平成21年7月に初めて餘部鉄橋を訪れた時の写真である
訪れた当時は補強工事をしていていると思っていたが、昨年秋に再度訪れた時にまったく違った橋梁になっていたので、今となっては貴重な写真になったと勝手に考えている
(現在の橋梁はH25.11.7付けで報告)

餘部橋梁(通称:餘部鉄橋)
「高くてなんと美しい鉄橋だろう」が初めて見たときの感想である



工事をしているため近づくこともできないし景観も悪いのが残念だ



 


転落事故の報道は、かすかに記憶に残っていたが、民家との関係がよく理解できた



時刻表があり列車の通過時間を確認する



徐行運転をしているため、素人でも写真を撮ることができる



列車が通過している部分(山陰本線 餘部橋りょう)は、現在は下に降ろされ展示されている



高さ41m、長さ309mの規模はトレッスル式鉄橋では日本一



この日は雨が降ったり止んだりで傘をさしながら周辺を歩く



 


駅の方に向かって歩いて行くと、下からも撮ることができた






この民家の近くに駅があったが、今は(不確かだが)位置が変わっていると思う

 

2013年(平成25年)5月3日:旧橋梁を生かした「空の駅」がオープン  
すっかり生まれ変わった




撮影 平成21年7月31日
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天橋立(京都府宮津市)

2014年03月11日 | 名所・旧跡
天橋立には2度ほど訪れたことがあったが、あまり天気には恵まれず2度目などは車から降りる気もなれず、今回紹介するのは3度目に訪れたときのものである

日本三景 天橋立
宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる、全長3.6km及ぶ湾口砂州



初めて訪れたときは駐車場の係員に手招きされ、そこから約4kmの「砂の道」を歩くことになった(写真は捜索中)
途中からは降雨となりやっとの思いで向こう岸に着いて驚いたのはこちらにも駐車場があるということだ
歩くのが苦手な人は観光船の利用を勧める。写真に小さく写っている船がそうだが安価で便利



天橋立の眺めは「斜め一文字」「飛龍観」「一字観」「雪舟観」のものが有名らしい
この場所は北側の「傘松公園」からの天橋立の眺め
名前のとおり斜め一文字に見える景観からその名がついた






 


「股のぞき」: 自身の股の間から顔を出し、逆さまにものを見るために台が設置されている



体の柔軟性に欠け、地面から股間までの距離が他人より短い私にとっては至難の行為である



恥ずかしいので周囲に観光客がいないときに数枚撮るが、頭に血が上り血管が破裂しそうになる



天橋立は『丹後国風土記』にイザナギが天へ通うために作ったものとあるように、股のぞきを行うことで、天地が逆転し、細長く延びた松林が一瞬天にかかるような情景を愉しむことができる
これは吉田皆三によって明治後期ごろに観光事業活性化の一環として喧伝された手法で、観光客を通して広まったとされる



公園内を歩きながら写真を撮りながらあることに気づいた…



「股のぞき」だが自分が股からのぞかなくても、カメラを反対にして撮せばいいと、一休のようなひらめきと当時は思っていたが…



写真なら、普通に撮ってひっくり返して見ても変わらないことに今気づいた(私の写真は苦労して撮っています)






開運の「かわらけ」投げ  
長い柱の先についた輪のなかに、円盤状の「かわらけ」を投げ、うまく輪の中をくぐると開運が訪れるかもというものだが



カップルの下手さ加減にあきれて私も挑戦してみたが、一人でやるものではないということがわかった(愉しくなれない)
ところで結果の方だが、2回も挑戦し6回も投げたため手首を痛めてしまったのにもかかわらず、未だ運が開けていないが答えになる



駐車場から傘松公園までは「ケーブルカーかリフト」を利用することになる



往路はリフト(写真右)を利用、帰りはケーブルカーにしたが車窓からの風景も美しい



途中で上りのケーブルカーとすれ違い、見ず知らずの人だが親しげに笑顔で手を振り合う




撮影 平成21年7月31日
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石見銀山(島根県大田市大森町)

2014年03月10日 | 名所・旧跡
この週末、体調を乱してしまった
高血圧・発熱・腰痛・頻脈・頻尿が重なり自室にて安静
3日目の今日も安静にと思っていたが、朝起きて窓から外を見ると20cm以上の積雪があり、ゆっくりしてはいられなくなった

世界遺産 石見銀山
戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山である
最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、石見銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めていた

龍源寺間歩
間歩(まぶ)とは、鉱山で鉱石を取るために掘った穴や坑道のことで、現在唯一公開されているのが龍源寺間歩
ここに行くには徒歩か自転車になるが、私はレンタルの電動自転車で向かった



久し振りに乗る自転車に加え、狭い坑道で水も滴ると事前に聞いていたので、700万画素のコンパクトカメラだけを持つことにした



高所恐怖症であることは以前に書いたが、閉所恐怖症でもある
観光客も私一人で一層不安になった



坑道の横に採掘に使われた大小の横穴がいくつか見える






この立坑は「排水坑」で龍源寺間歩に溜まった水を約100m下の永久坑道へ排水したといわれる



江戸時代の中頃に開発された代官所直営の坑道で、大久保間歩に次いで長く、約600mあり、公開されているのは273m



坑道の壁面 には当時のノミの跡がそのまま残っている



 


奥に進むほど人間の上半身しか入らないような狭さになっている






自分の感覚ではやっと安全な場所に出てきたという感じだ



坑道の出口附近に石見銀山の案内が掲示されている












坑道は一方通行で、ここが出口になっている
何故か急ぎ足になっていたので所要時間は10分もかかっていない



佐毘賣山神社
日本の鉱山には守り神として、また鉱山の繁栄を祈願する神社がある
佐毘賣山(さひめやま)神社は、銀精錬の神である金山彦命が祀る石見銀山の守り神で、1434年(永享6年)から鎮座し、世界遺産石見銀山のかつての繁栄を示す象徴



レンタル自転車ということもあり、放置して参拝するわけにいかず鳥居のみ




撮影 平成21年7月30日
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東尋坊(福井県坂井市三国町安島)

2014年02月22日 | 名所・旧跡
特に目的地も決めず、全国地図を見て「行ってみるか」と気軽に車を走らせる
以前、能登半島で自殺の名所といわれる所で朝の5時に職務質問を受けたことを思い出し、近くに東尋坊があるので立ち寄ってみることにした

東尋坊(天然記念物、名勝)
駐車場に着いたのが午後4時過ぎ、雨も降っていたので周囲の土産店も店終いの準備をしていた



昔、平泉寺にいた「東尋坊」という僧は、怪力を頼りに、民に対して悪事の限りをつくした
東尋坊が暴れ出すと手がつけられず、誰も彼を押さえることが出来なかった
平泉寺の僧たちは皆で相談し東尋坊を海辺見物に誘い出す
一同が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、早速岩の上に腰掛けて酒盛りが始まった
その日は天気も良く眺めの良い景色も手伝ってか、皆次第に酒がすすみその内、東尋坊も酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めた
東尋坊のその様子をうかがうと一同は目配せをし、真柄覚念に合図を送った
この一同に加わっていた真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落とした



東尋坊が波間に沈むやいなや、それまで太陽の輝いていた空は、たちまち黒い雲が渦を巻きつつ起こり青い空を黒く染め、にわかに豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震え、東尋坊の怨念がついには自分を殺した真柄覚念をもその絶壁の底へと吸い込んでいった



東尋坊が落とされた4月5日の前後には烈しい風が吹き、海水が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり東を尋ねて平泉寺に向ったという



海食によって海岸の岩肌が削られ、高さ約25メートルの岩壁が続く



岩は輝石安山岩の柱状節理でこれほどの規模を持つものは世界に三箇所だけであり地質上極めて貴重とされ、国の天然記念物及び名勝に指定されている



私は「高所恐怖症」なので岩に近づくことができない
昔、学業面で振るわなかったのは高いところに位置するのが苦手だったためか



写真が少ないのでデータを調べてみると5分間しか滞在していない



この写真の女性から高さを想像して欲しい
自殺の名所と言われているが、この高さから飛び落ちる勇気があるのなら何でもできる気がするが



東尋坊からの帰り道、海岸沿いに感じのよい入浴施設があった
車中泊の旅では入浴施設を探すのに苦労するため、その喜びは5年後の今でも記憶に残っている 


撮影 平成21年7月27日
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吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)

2014年02月21日 | 名所・旧跡
この吉崎御坊も車を走らせていたときに偶然見つけた場所である。駐車場で雨が止むのを待ち歩き出した

史跡 吉崎御坊跡
文明3年(1471年)比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した



御坊跡に向う階段の西側に浄土真宗本願寺派の別院(西御坊・西別院)が、東側に真宗大谷派の別院(東御坊・東別院)が置かれる



「蓮如」については作家の五木寛之氏が数冊の本を執筆していて、私も読んだことがある



蓮如上人像(高村光雲作・1934年)



吉崎御坊本堂跡
永正3年(1506年)、朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退けた後、吉崎の坊舎を破却し、以後廃坊となる



腰かけ石
蓮如上人が腰かけたという石  私も座ってみた



蓮如お手植えのお花松



公園内から遠くに北潟湖が見える



御坊跡の帰り道に寺の方から声をかけられ中に入ったが、宗教家というより商売人といった感じで印象が悪かった
蓮如上人も悲しんでいることだろう
この後、傘も壊れそうな大雨となり急いでこの地から離れた




撮影 平成21年7月27日
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高千穂峡(宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井)

2014年02月03日 | 名所・旧跡
高千穂峡についてはH25.7.10付けで既に紹介しているが、今回は高千穂峡を最初に訪れたときの記録となる

中年男3人による旅であるが暗黙の了解で年齢の若い者が運転手となる
私は中間に位置するので後部座席で周囲の風景を見ながらのんびりしていたが、カーナビ以上に細かな指令や運転技術を語る長老の言葉を聞き、いらいらしている運転手をみているうちに目的地近くの駐車場に着いた

名勝 高千穂峡



数年前、初めて宮崎県に来たときに宮崎市内からタクシーで行ってくれと言ったら、遠すぎて行けないと拒否されたあごがれの場所である
「ボートに乗って船上から滝を撮る」目的で来たのだが、数日前の台風で船着場が破壊されていた(右側に船着場がある)



ボートに乗るなら「御塩井駐車場」が便利、「高千穂峡ガイドマップ」をもらうこともできる

月形・日形 
「玉垂れの滝」の上にある半月の岩形を月形・日形いう。 弟の素盞嗚尊の乱暴に嘆き悲しんだ天照大神は、天岩屋に隠れたが、八百万の神々の謀り事により、再びこの世に戻る。 素盞嗚尊は、神々の裁きを受け、所払いとお詫びの証を造ることになった



尊は、天照大神を日の光る太陽として日形を彫り、自分の光は月の光の半分もないと、懺悔の印として三日月の穴を彫り、その後、高天原を去り、出雲に行ったと伝えられている



江戸末期の記録には、月形・日形の絵図も残されていたようだが、現在は日形は崩壊し、月形のみが残っている

真名井の滝 
高千穂峡の代表的な名所である「真名井の滝」



遊歩道を歩いてすぐの所にある。雑誌の写真では見たことがあるがやはり美しい



遊歩道からの風景 
この写真の上には、仙人の屏風岩とよばれる高さ70mの岩がそびえ立つ



槍飛び橋からの風景
高千穂峡(五ヶ瀬川)の中で最も川幅の狭いところ
天正19年(1591年)高千穂・三田井家が県の領主に三田井城を攻められ、落城。城を脱出した家来達はここまで逃げのびて来た
橋がないので槍の柄を突いて渡った



「手前の岩に槍を突いた者は無事飛び渡ることが出来たが、向こう側に突いた者は川の中に転落した」と伝えられており、ここを「槍飛び」と言うようになった
 


 


神硯の岩 
上から見ると硯の形をしている



高千穂神社、神主田尻隠岐守は高千穂を訪れた高山彦九朗と別れの時、次の詠をおくった
みすずりの 岩とやいわれむ 神代より 伝へしことの 杤ぬ也けり

甌穴(おうけつ)周辺の風景








 
神橋(しんばし)
大正時代は木橋・昭和22年に石橋となった



高千穂の景観に溶け込んでいる



神橋からの風景



遊歩道の終点(起点にもなる)が神橋なので、同じ道を通り駐車場に戻ることに
御橋からボート乗り場方向を見る



同じく御橋から「真名井の滝」(まったく違った顔をみせる)



定番の風景 御橋が小さく写っている




この後、熊本市内のホテルに向かい、夜は専門店での「馬肉づくし」の夕食。大のつくほど満腹・満足であった。

撮影 平成24年9月30日
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吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手)

2014年01月28日 | 名所・旧跡
男5人旅の2日目、私を含めて2人が希望したのが吉野ヶ里遺跡である

吉野ヶ里遺跡 
弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡
物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるものであり、1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された
現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている

逆茂木・乱杭 
先を尖らせた杭や鋭い枝の付いた木を斜めにたくさん立てて、敵の侵入を防ぐバリケードの役割をはたしていた



外壕<上の写真で確認できる>
吉野ヶ里丘陵の袖部を巡るように外壕が掘削されており、外壕で囲まれた範囲は南北1km以上、東西は最大で0.5km以上


門と鳥形
弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがある



弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられる



環壕入口 
吉野ヶ里集落の、当時の東の正門と考えられている場所



東の正門を始め吉野ヶ里は外壕に7カ所、南北内郭に3ヶ所の入口が確認されている。入口では、兵士たちが厳重に警備



環壕入口 
南内郭には4棟の大きな高床建物がある。



兵士が南内郭への侵入者を厳重に見張っていたと考えられている



南内郭 ~王や支配者層が住んでいた場所~ 
吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられている









北内郭 ~まつりごとの場所~ 
吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられている



主祭殿(3階建ての建物)
吉野ヶ里のクニ全体の重要な事柄を決める会議を行ったり、祖先の霊への祈りや祀りを行ったりした、中心的な建物と考えられている



主祭殿2階。吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りが開かれており、吉野ヶ里の王やリーダーたち、さらには周辺のムラの長が集まる

主祭殿3階。祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っている



この結果は従者によって2階で会議を行っている王やリーダーたちに伝えられる 



邪馬台国の女王「卑弥呼」を意識した造りになっている

屋根倉、高床倉庫 
屋根倉には神に供える稲穂や、次の年にまく種籾などを収めていたと考えられる
高床倉庫には北内郭や北墳丘墓での祀りに使われる道具や宝物などの貴重な品々が収められていたと考えられる



高床住居 
正方形に近い、特殊な形をした高床の建物。主祭殿の近くに位置していることから、普段は人前に姿を見せなかったと言われる最高司祭者の住まいだったと考えられている
神聖な人が住む場所であることから、1階部分についても網代で囲われ、建物全体が閉鎖的な空間になっている



北墳丘墓 ~歴代の王の墓~  
吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられている
このお墓は人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっている



墳丘の頂部から2m程穴を掘り、さらに掘り下げた穴から横穴を設ける
掘った横穴に甕棺をひとつに据える。甕棺の中に死者を埋葬する



広大な敷地のなかに弥生時代の建物が見事に復元されている
今回は駆け足で見学したが、考えながら、ゆっくり廻ると楽しめる場所だ。今晩は「博多」に宿泊し、夜は「もつ鍋」を食べる予定だ
福岡天神が大好きな運転手のアクセルに力が入る


撮影 平成25年1月15日
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長崎市平和公園(長崎県長崎市松山町)

2014年01月26日 | 名所・旧跡
男5人旅の2日目になる。誰から言い出すこともなく暗黙の了解で平和公園を訪れる

祈りのゾーン
中心地地区は、「祈りのゾーン」として聖域化を図り、被爆の史実を伝え、被爆により亡くなられた方々のご冥福を祈る空間として整備されている

原爆落下中心碑  
この地の上空500メートルで炸裂した原爆は、一瞬のうちに多くの尊い人命を奪った



塔の前に置かれた原爆殉難者名奉安箱には原爆により爆死された方、被爆者でその後亡くなられた方々の氏名を奉安している

被爆50周年記念事業碑 



21世紀にはばたく日本の未来を、偉大なる母の慈悲心と温かな母の胸で眠る傷心の子供の姿で表現



浦上天主堂遺壁 



大正3年(1914年)に天主堂、大正14年(1925年)にその双塔を完成させ、東洋一の壮大さを誇った浦上天主堂は、原爆によりわずかな堂壁を残し崩れ落ちた



この遺壁は、聖堂の南側の一部を移築したもので、原爆による石柱のずれが注目される



願いのゾーン 

平和祈念像 
郷土出身の彫刻家・北村西望氏の作で、昭和30年(1955年)に完成。像の高さ約9.7メートル、重さ約30トンの青銅製



「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」と作者の言葉が台座の裏に刻まれている






人生の喜び(チェコスロバキア社会主義共和国寄贈) 
長崎市が計画している「世界平和シンボルゾーン建設」に賛同してチェコスロバキア社会主義共和国から贈られた作品「人生の喜び」



女性が男の子を両手で差し上げ、母親と子供の喜びを表現している



平和(ソビエト社会主義共和国連邦) 
ゾヴィエト社会主義共和国連邦から長崎市が計画している「世界平和シンボルゾーン」建設の主旨に賛同し寄贈された平和の像



母親が子供を抱いた姿で、愛とともに平和を表現している

諸国民友好の像(ドイツ民主共和国寄贈) 
平和と人類の幸せな未来、そして諸国民友好を求める努力を象徴するドイツ民主共和国からの寄贈品



あの夏の日 



世界の核の廃絶と永遠の平和を希求



平和の母子像  
あの閃光の下で、幾万もの男女、無数の母と子が灼かれ、ひき裂かれ息絶えた



平和への切なる願いを次世代へ伝える



平和を祈る子(像) 
原爆犠牲者慰霊、永遠の平和祈念



平和の泉 
水を求めながら亡くなった原爆犠牲者の冥福を祈り、昭和44年(1969年)につくられた 



公園内で地元の人に「美味しいカステラ」の話しを聞いた
100人中70人以上が選んだのは大浦天主堂近くに店を構えているカステラだそうだ


撮影 平成25年1月15日
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グラバー園(長崎県長崎市南山手町)

2014年01月24日 | 名所・旧跡
大浦天主堂から近い距離にグラバー園があるが、写真の枚数も少なくぼんやりとした記憶しかない

グラバー園 
スコットランドから渡来したトーマス・ブレーク・グラバーが、ここ南山手の丘に住まいを建設したのは1863年のこと
当時の長崎の街は、日本の新しい夜明けを夢見る人々の熱気であふれていた



グラバー、リンガー、オルトの旧邸があった敷地に、長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築

プッチーニ像
長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く



三浦環像広場に立っている



三浦 環 
日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手
十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名だった



奥にプッチーニ像が見える



旧グラバー住宅(重要文化財)
貿易商であり、グラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築



三菱重工業 長崎造船所を見下ろす位置にあったため1939年(昭和14年)に戦艦武蔵の建造を秘匿する目的で買収され、所有が三菱重工業へと移った



1957年(昭和32年)には同造船所の創業100周年を記念して長崎市へ寄贈された
1961年(昭和36年)6月7日、主屋・付属屋が国の重要文化財に指定



趣味興味の全く違う5人旅、各人が勝手に行動していたため、人捜しのグラバー園になった
「ある晴れた日に…」 疲れてベンチで休憩




グラバー園には、重要文化財の建築物が3つ、他にも見るところはたくさんあるので、次に訪れる機会ができたら詳細に報告したい

撮影 平成25年1月14日
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水木しげるロード その2(鳥取県境港市本町商店街)

2013年11月13日 | 名所・旧跡
昨日に引き続き「水木しげるロード」のブロンズ像を紹介していく。
駅を背にして、しばらく歩くと左側に「水木しげる記念館」がある。



漫画には興味はないが、ここまできたのだからという消極的な気持ちで館内に入った。



館内の大部分は撮影禁止になっているが、数カ所撮影できる場所がある



その中で、興味を持ったのが水木氏が海外で入手してきた仮面類だ



よく見ると漫画に出てくる妖怪にとても似ている



館内には水木氏の略歴や作品が紹介されている。
幼少から漫画以外は挫折の連続で、この略歴は読み物としても面白い。



奇人、変人だが多くの人に愛される。魅力があるのだろう。



再び、「水木しげるロード」を歩く



しかし、記念館でモチーフとなる仮面や、本人の歩んできた道も学んできたので気持ちは違う









 








写真を撮っているうちに、仏像を撮っているような感覚になってくる



位置や角度など結構気にして撮っている




 
















境港の駅も近くなってきた



 


























最後は「水木しげるとゲゲゲの女房」



その時、駅に電車が入ってくる音がしたので、振り向くと






ここまで徹底できればたいしたものだ
それにしても一人の人間の力のお陰で、街は観光客で賑わっている
しかも、皆、笑顔なのがいい



私自身も妙に浮き浮きした気持ちになっていて、頭で鬼太郎の主題歌を歌っているからおかしい 




撮影 平成25年11月2日
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水木しげるロード その1(鳥取県境港市本町商店街)

2013年11月12日 | 名所・旧跡
漫画は読まない方ではないが、水木しげるの漫画は読んだことがない。
NHKの朝ドラは好きだが「ゲゲゲの女房」だけは視ていない。その私が境港を目指している。
道路を走っているとある区間だけだが、道路に溝をうまく彫り、その上を車が通過すると「鬼太郎の主題歌」が振動とともに聞こえてくるしかけになっている。
とても面白い。

境港駅の駐車場に車を駐めた。駅の壁にも水木しげるの漫画が描いてある。



道路に出ると妖怪のブロンズ像が迎えてくれる



少し歩くと広場のような所にでる






漫画を読んでいないので、名前などほとんど知らない



ここに来るまで妖怪にはずいぶん遭遇したが、ここから水木しげるロードが始まるというのか



写真だが自分が気に入ったものだけピックアップすることにした



妖怪にも神社があるらしい



この「目玉」は水の上を石がくるくる回り面白い



 


名前は知らないがこの妖怪は見たことがある。観光客に頭を撫でられ光っている。



「ねずみ男」だと思うが、この格好がとてもいい



気軽で、今の自分と重なるところがあるので特別にもう一枚追加した



パン屋さんのウインドウにも。本当にうまくつくるものだ。









床屋さんのウインドウにも。









振り返ると鬼太郎が歩いていた









妖怪のブロンズ像だが写真では大きさがわからないと思うが20センチ程度で、子供の目線に位置しているので写真を撮るのに屈伸運動をしなければならない。



後で知ったが150個以上の像があるらしい。そのほとんどを撮っているので筋肉痛が心配だ。



今日の最後は動きを感じる良い像だ。



今日は駅を背にして左側を歩き「水木しげる記念館」までの像を紹介した。
妖怪の名前は境港市のホームページに掲載されている。 


撮影 平成25年11月2日
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