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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

象潟(秋田県にかほ市象潟象潟島)

2016年06月24日 | 名所・旧跡
旅をしていると全国各地に芭蕉ゆかりの土地がある
この象潟(きさかた)は芭蕉が訪れた北限の地としても有名である

史跡 名勝 天然記念物 象潟 
元禄2年(1689年)に芭蕉が訪れた
『奥の細道』のなかで、「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛



ここで芭蕉は、中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて、
「象潟や 雨に西施が ねぶの花 」
 


雨にけむる象潟は、あたかもまぶたを閉じた西施のように美しいと詠んでいる



芭蕉が訪れた頃、象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれた
かつては現在の松島と同じ様に無数の小島が浮かぶ入り江だった



その昔、芭蕉は舟で「九十九島」を巡ったようである



芭蕉は雨の日に舟で、私は快晴の象潟をカメラを首にぶら下げ遊歩道で



天気も良く、このような青空も久し振りだ。実に気持ちがいい



文化元年(1804年)の大地震(象潟地震)で突然干潟に変わった
現在は多くの土地で米作りがおこなわれている



地元に人の話しによると「鳥海山」がこれほどはっきり見えるのは珍しい。良いときに来た、運がいいと言われた
 


終着が見えない「九十九島」巡りに、疲れもあり、後悔していたところだったが頑張る力となった



芭蕉が訪れた百年後に大地震で土地が隆起した



鳥海山の別名「出羽富士」「秋田富士」「庄内富士」



九十九島は紀元前466年の噴火で形成された
形成当時は海中の小島であったが 1804年象潟地震により隆起し特徴的な地形となった



さて、九十九島を巡る所要時間だが、私はゆっくり写真を撮りながら歩いたため約1時間



普通の人なら30~40分で回ることができる



普段、歩くという習慣がない私がこうして歩いているのも旅の力だと思う



もうひとつ魅力的だったのが青空の中の雲の形



形のいい雲を探して撮っていたような気がする。この雲、龍に見える



撮影 平成28年5月15日
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入道崎(秋田県男鹿市)

2016年06月16日 | 名所・旧跡
青空に誘われて男鹿半島では北西端の入道崎まで車を走らせた
大型駐車場に多くの車が駐まっているのを見て、土曜日であることに気付いた

入道崎(男鹿半島・大潟ジオパーク)
土曜・日曜日の嫌なところは家族連れや恋人に加え、不審なカップルが多いことだ
歩幅の狭い老人がトボトボ歩いていると徘徊していると思われる

明治31年(1898)に建造された白黒対称の縞模様の「入道埼灯台」が岬のシンボルとなっている



「緑の大地、紺碧の海、青空の絶妙なコントラストは、訪れた人の心を奪う」と観光協会のHPに書いてあった
天気も良く、それを感じ取ることができる



岬からの夕陽が黄金色に輝き美しく、日本の夕陽百選にも選ばれている



日本海の荒波の波食によって築かれ、落差30mもある荒々しい海岸を見せる



北緯40度線上にあることから、それを印した安山岩のモニュメントが配置されている



この線上が北緯40度線



更に先まで続く



幼い頃から海の近くで育ったが、久し振りに水平線を見た
時に牙を剥く海だが、この日は穏やかで頬にあたる海風も気持ちがいい



白黒の縞模様の灯台は「日本の灯台50選」に選ばれている
灯台を見ると学生時代に流行っていた「岬めぐり」の歌詞が頭をよぎる… 
「あなたがいつか 話してくれた 岬を僕は たずねて来た」



空腹だったこともあり、旅行雑誌に紹介されていた店に行ってみた
昼食にしては価格が高すぎ、年金生活者には無理があり、あっさりあきらめた

撮影 平成28年5月14日
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寒風山(秋田県男鹿市)

2016年06月15日 | 名所・旧跡
10年ほど前に訪れたことのある場所だが、その時は台風の影響もあり悪天候であった
晴れていたら、どのような景色を眺めることができるのか急に興味が湧いた

寒風山(男鹿半島・大潟ジオパーク)
男鹿半島の中央部に位置する寒風山。全山が芝生で覆われている
寒風山は古くは、妻恋山(つまこいやま)あるいは羽吹風山とも呼ばれていた

今よりも体力があった10年前、台風による風雨に耐え、途中何度も立ち止まり、この遊歩道を歩いた記憶が鮮明に甦ってくる
 


この日は天気も良く爽快な気分で……と思っていたが、何と今度は「息切れ」で何度も立ち止まってしまった



「小展望台」
自然の美しさに関心のない私が、何故10年前に訪れたのか
それは、旅行雑誌の影響だった。この場所に立っているモデルの姿が美しく、自分も行ってみたいと思った



私がこの場所に立っても様にならず滑稽なだけだが、景色は実に美しい



今度は山の上にある展望台を目指す



「世界三景」と書かれてある。調べてみると、平成27年4月に回転展望台ロータリーに設置されたようだ
あとの二つが気になるが、追求されたら「第三者委員会で」と応えるか、こっそり看板を抜けば済むことだ



熱心に写真を撮っている人がいたので左に見える海は日本海だと思うが、右側の海は? と頓珍漢な質問をしてしまった



両方「日本海」ですよ言われて、恥ずかしながら男鹿半島の地形が頭に浮かんだ



彼が話すには「この時期でしか撮れない貴重な光景」が目の前に広がっているそうだ



山頂付近には、五ヶ条の御誓文を石に刻んだ誓いの御柱がある
正面には 「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」 と刻まれている



寒風山の魅力は「山からの眺め」にある。眼下に小展望台が見える



来たときにはパラグライダーで空中散歩を楽しんでいる人もいた
私の関心は上昇気流を利用しコントロールされ飛んでいるグライダー
上昇気流に乗れずにここまできた私だが、飽きずにずっと眺めていた。


 
一番高い場所にある回転展望台がはっきり見える



この時期だけの光景とは「大潟村の田んぼに水が張ってある」ことらしい
日に照らされ輝いている時期は短く貴重だと話してくれた
しばらくするとこの風景が緑一色に変化していく



私が訪れた日はとても幸運だったようで
「よく晴れ渡り、遠くに山々が見える」「左右の海が見える」「雲がきれいで」「昼間なのに月も見える(真ん中より左上)」
地元の人が話してくれた

撮影 平成28年5月14日
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三内丸山遺跡(青森県青森市大字三内丸山)

2016年06月05日 | 名所・旧跡
朝、自宅を出発し、津軽海峡フェリー(函館-青森間)を利用
その日の夜に道の駅「ゆ~さ浅虫」に着いた
翌朝も雨が降り続いているため、併設されている温泉に浸かり、ゆっくりした一日が始まった

特別史跡 三内丸山遺跡
縄文の丘 三内まほろばパーク「縄文時遊館」 



「北海道・北東北の縄文遺跡群」を世界遺産登録を目指す活動がおこなわれている



時遊トンネルをこえると、誰も見たことがない縄文文化に触れ、当時の生活を想像することができる



基本的な知識を身につけるにはボランティアガイドの巧みな話術による説明を聞くことが有効である
 


南盛土
大量の土器や石器、土偶やヒスイ製の玉などが土と一緒に捨てられた場所
約1000年間で丘のようになった



竪穴住居跡



床は地面を掘りこんでつくっている



床の中央には炉があった



550棟以上見つかり、15棟を復元している



大人の墓(土抗墓)
大人は地面に掘られた墓に埋葬
墓は道路をはさんで向かい合うように配置。約500基見つかっている



掘立柱建物跡
 


地面に穴を掘り、柱を立てた建物跡



遺蹟中央部分でまとまって見つかり、高床式の建物と考え復元された



北盛土
たくさんの土器や石器が土と一緒に捨てられた場所



壊れた土器が広がっている



子供の墓(埋設土器)
子供は土器に入れて埋葬された。800基以上見つかっている



穴を開けたり、底を抜いたりした土器に握りこぶし大の丸い石が1~2個入れてあるものもある



大型掘立柱建物跡
6本柱の長方形の建物と考えられている
柱穴は直径・深さとも2m、穴の間隔はすべて4.2m



穴の中に直径1mのクリの柱が残っていた



復元した建物



特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数
「縄文尺」ともいうべき長さの単位が広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性が考えられる



柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術が施されており、長い間腐食を防ぐことのできた一因となっている



大型竪穴住居跡



復元したのは縄文時代中期のもので長さ32m



これらは集会所、共同作業場、冬期間の共同家屋などの説がある






縄文時代前期~中期(約5,500~4,000)の1,500年もの間、この地に定住し共同生活をしていたとは想像できなかった



「さんまるミュージアム」
 


縄文土器。同じ地層から出土したものが一括して重文に指定されている






展示物の中でも人気の
縄文ポシェット(重要文化財)
「網かご」だが完成度は高い



私の一番のお気に入りは解説員のこの女性
昔の人が造り、使って、捨てたものを、現代人が探し、復元し展示する
それを遠くから見に来て下さる人がいて、私が説明する
なんて素敵なことだろうと情熱的に語ってくれた


*写真掲載については本人の許可をいただいています
 
大型板状土偶(重要文化財)
どの展示物が好きですかと聞かれ、即座に答えたのがこの土偶
胴体と首の部分が別々の場所から発見された等わかりやすく説明してくれた



縄文人の生活を再現した展示物






気がつけば閉館時間の5時になっていた

撮影 平成28年5月12日
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彰義隊の墓(東京都台東区上野公園)

2015年11月16日 | 名所・旧跡
彰義隊
鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜は、新政府に対する恭順の意を表し、翌12日上野寛永寺に蟄居した
徳川慶喜の警護などを目的として結成されたのが彰義隊。「大義を彰(あきら)かにする」という意味」
そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士などが集まり、上野の山を拠点として新政府軍と対峙した

彰義隊の墓
大村益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し総攻撃を行った
新政府軍が優勢に戦闘をすすめ、1日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けた



手向けられている花の石柱には「尽忠報国」「彰義隊」と刻まれている



戦闘後、上野には200名を超える彰義隊士の遺骸が残った
芝増上寺、縁故者等が引き取りを申し出たが、官はこれを容れなかったという
戦死者を上野で荼毘に付したうえ、官許を得て遺骨を南千住円通寺に埋葬した



しかし1874年(明治7年)、元彰義隊士小川興郷などの願が許可され、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった上野に彰義隊の墓を建立



以後、120年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた



現在、上野公園入口付近にあるこの墓所の管理は東京都に移されている



撮影 平成27年10月14日
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矢切の渡し(東京都葛飾区柴又~千葉県松戸市)

2015年11月03日 | 名所・旧跡
つれて逃げてよ… ついておいでよ…
夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し
親のこころに そむいてまでも 
恋に生きたい 二人です

細川たかしの「矢切の渡し」の歌詞である。
それが、帝釈天から歩いて10分ほどのところにある。

歩いて行くと、柴又駅で写真を撮ってあげた、世田谷のセレブに会った
「どうでしたか」と尋ねると。大きく横に手を振り「何もない」と
 
すでに舟の出発時間になっていたが私を待っていてくれていたので乗ることにした
船頭に片道ですか往復ですかと聞かれたが、泳いで帰って来るわけにいかないので「往復」と応えた



これが、「矢切の渡し」 
NHK朝ドラ「あさがきた」風に言えば「びっくりぽんや」である
江戸時代に、江戸川の両側に田を持つ農民が、関所を通らずに江戸と往来したことから、この「矢切の渡し」が始まったという



昔風に艪で漕いで舟を進める
急ぐと4~5分で着くと思うが、ゆっくり時間をかけて進めてくれる



若い船頭に「向こうに何があるの」と尋ねると、「何もありませんよ」とあっさり
愛想はないが正直そうだ。「水深は」聞くと、「深いところで7m位ある」と



向こう岸に着いたが船頭の話したとおり何もない
変わった黒い犬と細川たかしの「矢切の渡し」と刻まれた石碑があるだけだ



「野菊の墓」の政夫と民子の悲しい恋の舞台であることを案内板で知った



行きでは気付かなかったが、遠くにスカイツリーが見える



若い外国人観光客だがどのように感じたのだろうか



撮影 平成27年10月13日
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箱根関所(神奈川県足柄下郡箱根町)

2015年10月28日 | 名所・旧跡
鎌倉観光の最後となった鶴岡八幡宮を出発し、バスには新しい2名の仲間が合流した
渋滞もあったが、雨の江ノ島海岸や江ノ電、葉山御用邸などTVなどでしか知らない場所が車窓から見えてくる
雨の江ノ島海岸、多くの人達がウインドサーフィンを楽しんでいる



江ノ島は湘南を代表する景勝地らしいが車窓からではわからない
デートスポットも沢山あるらしいが、年齢的にもう遅い



それよりも雲間から見える青空の方が気になる
明日は横浜中華街で最後の昼食だ。晴れてほしい
途中、箱根駅伝の走路を横断した
母校も出場しているだけに盛り上がった。今年も期待したい



史跡 箱根関跡
東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路
通行時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて夜間通行は原則禁止された



「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた
寛永年間に同じ東海道の今切関所が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し
箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった









箱根関所は番頭1・平番士3・小頭1・足軽10・仲間・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成されている



女の身体的特徴を専門に検分する人見女(髪改め女)が常駐し、出女の監視を行っていた

 
 
説明書きが足下に置かれていて分かりやすい



関所破りは重大な犯罪とされ、これを行おうとした者、あるいはそれを手引きしたものは磔などの厳罰が課された



慶応3年(1867年)8月には慶応の改革に伴って、手形が無くても関所の通行が許可されるようになり、関所改めは廃止された



役者による当時の様子を語る寸劇が突然始まった。これまでが単調だっただけに実に面白い



この3名の役者のお蔭で「箱根関」が記憶に残っている
この後、資料館で歴史を学んだが見聞きしたことが浮かんでこない



そばに芦ノ湖があり、観光船が出港した



マイクロバスは今夜の宿泊地である熱海を目指す。ホテルで更に仲間が2名合流した
この夜は少し変わったセルフサービスの宴会となった。終了後は、部屋に皆が集まり二次会
とても中高年の集まりとは思えないドンチャン騒ぎ。涙が出るほど笑った

撮影 平成27年10月10日
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円月島(和歌山県西牟婁郡白浜町)

2015年03月10日 | 名所・旧跡
道成寺から南方熊楠記念館に向かう途中で少し変わった形の岩があったので、車を道路脇に駐め眺めていた



名勝 円月島(高嶋)
ネットで調べてみて、国指定文化財になっていることを初めて知った
正式名称は高嶋(たかしま)。南紀白浜のシンボル、夕景の名所としても知られるそうだ



島の中央に海蝕による円月形の穴(海蝕洞)が開いていることで、これが名称の由来になった



島の大きさは南北130メートル、東西35メートル、高さ25メートル



島に船が近づいてくる



望遠レンズに替え撮ってみると観光船のようである



船の底がガラスになっていて、海の中の世界を覗くことができ、船の側面にある丸い小窓からは、白浜名物「円月島」を間近に見ることができるようである



道路脇に4人程度島を眺めるスペースがあり、そこから写真を撮っている



島を背景に記念写真撮影を頼まれることが多い
声を掛けてくるのは美人が多いのも経験上知っている
道路を歩いている二人の女性にも頼まれたが、思い出の一枚になってくれると嬉しい






この地域は私でも知っている「南紀白浜」、島の反対側には観光ホテルが並んでいる



この日は雨模様で夕景の名所を体験できなかったが、何が気に入ったのか90分もこの場所に佇んでいた



撮影 平成26年11月1日
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烏城公園での菊花展(岡山県岡山市北区丸の内)

2015年01月27日 | 名所・旧跡
烏城公園(うじょう)での菊花展
菊花の季節ではないが、車中泊旅行で訪れた岡山城の帰りに展示されていたもの



花の写真を好んで撮ることはないが、旅行中だと何故か美しく感じ、カメラを向けてしまう。









自宅でも花を植えたりすることもなく、大輪を咲かせる苦労もわからないが失礼のない程度に撮れているだろうか






個人的には小さな花が好きだ
この花を見て写真を撮ろうと思い、最初の場所に戻った






これは初めて見た


















菊人形「山中鹿介」
戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将



実名は幸盛(ゆきもり)で鹿介は通称



「山陰の麒麟児」の異名を取る名将



岡山県にも大学時代の朋友がいる
艱難辛苦の寮生活を同じ部屋で過ごした仲間である
この旅で山口県・広島県と迷惑をかけたので、夜遅くなって道の駅「一本松展望台」から連絡した
深夜に、この道の駅まで訪ねてきてくれたのである。正直、感動した


 
一本松展望台からの景色



撮影 平成26年10月27日
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安芸の小京都・竹原 その2(広島県竹原市本町)

2015年01月15日 | 名所・旧跡
竹原町並み保存地区
「町並み竹灯り ‐たけはら憧憬の路‐」というイベントの日に偶然ぶつかり、ふだんとは違った雰囲気を味あうことができた

 

「たけはら」という地名からか、「竹」がふんだんに使われている









お寺の石段にも竹が置かれている



少し離れてみると「マッサン」の文字になっている



竹の中に「ろうそく」を入れている人に話しを聞くと、この竹は商工会議所から配られているらしい



町中を歩くと店の前も美しく飾られている



もちろん店内も。竹と花の相性が美しい






 





この後、近くのホテル内の温泉に
入浴後、案内してくれた朋友に10分間だけ「竹灯り」見たいのでとお願いし車から降ろしてもらった



 


マッサンの生家前は夜も賑わっていた
朝ドラは地域の活性化につながることがよくわかる









「竹灯り」の光は心を和ませる力がある






道の駅で待ち合わせをしていたが、満車で駐車場に入れず道路に並んでいた彼の車に乗り込んだ



今晩、道の駅の駐車場で車中泊の予定だったが、無理と判断し彼の職場の敷地内で彼のキャンピングカーと2台で車中泊、いい思い出となった



夕食は彼の馴染みの焼き肉屋で食べたが、昨日からの人出で肉が無くなるほどだという
突然の訪問で彼には多額の出費をさせてしまったが、彼が北海道に来たときには恩返しをしようと思う

竹原出身の偉人「頼 山陽」






撮影 平成26年10月26日
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安芸の小京都・竹原 その1(広島県竹原市本町)

2015年01月14日 | 名所・旧跡
竹原町並み保存地区
防府市で大学時代の同期と酒を酌み交わしていたときに、その彼が広島県呉市に住む同期に私が広島に行くので頼むと電話をしてくれた
広島は帰り道でもあり、移動途中に電話をすると「竹原の道の駅」で会おうということになった



移動途中に電話が入り道の駅が混んで車を駐めることができないため、彼が勤務している職場で再会することに
この日は「町並み竹灯り‐たけはら憧憬の路‐」というイベントの最終日だという
最近よく見かける写真だが、この竹原と深い関係があるということを知った



「お好み焼き」をご馳走になり「町並み保存地区」を散策
写真では人が入り込まないように苦労しているが、若者を中心にかなりの人出である



 


地蔵堂
慶長7年(1602)、下市村の大火により焼失したが、その後再建され、塩浜の守護として信仰された



上市にある胡堂とともに、近世の町づくりの境界神としても貴重な遺構



現在の建物は昭和2年に建築



正面はイベントのための飾り付けがされている。竹の模様に注目してほしい



「ニッカウヰスキー」が描かれている



マッサンの生家
竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創始者)の生家。この周辺は特に人が多い
この旅に出る前、北海道の余市工場を訪ねているだけに何かしらの縁を感じた


















行列のできる「お好み焼き」店
今は休業時間のため人はいないが若者が並んでいる



「たまゆら」というアニメが人気で、この竹原の実在する町並みを忠実に表現して物語が展開しているそうだ



寺の境内で隣に座った若い女性の持っているカメラに興味を持ち話しかけた
「写真好きの女子高校生」がたまゆらの主人公だということを、大分後になって知り妙に納得したことを思い出した



 





この竹原は偉人も輩出している。元総理大臣の池田勇人も竹原出身
マッサンと同じ旧制中学で一緒に写っている写真も展示されている




 

 


表札には竹鶴の名が



隣にはマッサンの生家がある。旅の記念に日本酒「竹鶴」を購入



撮影 平成26年10月26日
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角島灯台(山口県下関市豊北町大字角島)

2015年01月13日 | 名所・旧跡
角島灯台
明治9年(1876)3月1日に点灯
海抜約19mと低地に築造されているため、当時としては数少ない高塔形式で建てられている



この灯台は内部が一般公開されている



当然ではあるが螺旋階段になっている



階段の幅が狭いため、降りてくる人をこのようにして待つことになる



灯台から見える景色



灯塔までの高さは30m。高所恐怖症の私には辛い環境である



この日は快晴で遠くまで眺めることができた



狭い空間に、次から次と人が来るため5分程度で降りることに
写真の男性が私をここまで案内してくれた大学時代の朋友である



狭くて急階段のため安全ロープのお世話になる



「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計による最後の灯台で、日本海では初めての洋式灯台



歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台で、日本の灯台50選にも選ばれている



 


パンフレットに掲載されている写真と同じアングルから撮ってみた






角島灯台記念館
灯台の近くに資料展示室がある



建設監督を務めたジョセフ・ディック
灯台が完成してからも3年間角島にとどまり、日本人に技術指導を行った







 

フレネルレンズの一部も復元され展示されている



そして、一番驚いたのはこの模型。人力でレンガを積み上げている



灯台周辺は下関市立の角島灯台公園となっている



公園内から見える灯台






鳥居からの風景






灯塔は総御影石造りで、日本に2基しかない無塗装の灯台



青海島・角島観光は私の車旅に新たな分野を拓くきっかけをつくってくれた
忙しい中、案内してくれた朋友に心から感謝したい

撮影 平成26年10月25日
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角島大橋(山口県下関市豊北町神田 - 豊北町角島間)

2015年01月12日 | 名所・旧跡
角島大橋
大学時代の朋友に案内された次の場所は「角島(つのしま)」という所だが、突然、目の前に現れたのは海に架かる橋



運転をしていて、太ももがガタガタ震えるほどの衝撃が
鳥肌ものというが、まさにそんな感じだ
近くあったコンパクトカメラを取り出し数枚撮す



映画のワンシーンのような感動と美しさがある



本土側に大きな駐車場あり、車を駐めた



2000年(平成12年)11月3日に開通



北長門海岸国定公園内に位置することから、橋脚の高さを押さえ、周囲の景観に配慮した構造となっている



横断歩道を渡り反対側の展望台へ移動する



2003年(平成15年)に「土木学会デザイン賞2003」の優秀賞を受賞



完成後はその景観から山口県の新たな観光名所となっている。九州ナンバーの車が圧倒的に多い



テレビCM、特に自動車のCMのロケ地として多く採用され視聴しているのだが、日本にこのような場所があるとは知らなかった



山口県は「花燃ゆ」で注目されている地域だが、次回訪れる機会があったら「角島大橋」の夕景など撮ってみたいと思った



撮影 平成26年10月25日
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青海島(山口県長門市)

2015年01月11日 | 名所・旧跡
名勝・天然記念物 青海島
津和野から大学時代の同期と再会するために山口県防府市に
前夜は酒を酌み交わし楽しい一時を過ごし、久し振りにホテルのベッドで爆睡した
偶然だが春高バレーの決勝が本日行われていたが、彼は第1回大会で準優勝、指導者としても優秀な人物である



案内したい場所があると、最初に連れて行ってくれた所が「青海島」である
仙崎港から観光遊覧船が発着しているが、運良く待つこともなくすぐ乗船することができた



海上保安庁巡視船「おおみ」を見ながら、観光船「どりいむ」も出港



本土との間は青海大橋で連絡されている



北長門海岸国定公園を代表する景観の一つ



日本百景に選定



国の名勝および天然記念物に指定されている



島の周囲は40Km。奇岩の並び立つ様子は壮観である






奇岩にはそれぞれ名称があるようだが、船内放送の説明だけでは覚えることはできない









大きな洞穴に近づいたり、時には洞穴内を通過したり、結構楽しむことができる
























これまで観光船でいい思いをしたことはないが、青海島観光は実に楽しい



運賃は2,200円、約1時間30分の所要時間を考えると納得できる金額






時折、漁船や釣り人の姿も見かけることがあり、風景に変化を与えてくれる









昨年も山口県の青海島の近くにきてはいるが、このような素晴らしい場所があるとは知らなかった



やはり、地元の人が案内してくれる場所というのはどこか違う






これまで北海道に住んでいるということもあり、自然にはあまり関心はなかったが、興味の幅が少し広がったような気がする



天気にも恵まれ最高の観光であった



撮影 平成26年10月25日
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森鴎外旧宅(島根県鹿足郡津和野町町田)

2015年01月08日 | 名所・旧跡
史跡 森鴎外旧宅 
森鴎外記念館横に鴎外の旧宅があり、国の史跡に指定されている。記念館側からの入口



森家は代々津和野藩の藩医



 


「鴎外先生詩碑」






 
こちらが正門になるのか



観光バスの団体客のガイドの説明が面白く、その時は参考になって写真を撮ったと思うがすでに記憶にはない



鴎外は文久2年、この家で生まれ、明治5年(1872)11歳で上京するまでここで過ごした。



鴎外の勉強部屋



鴎外がこの旧宅に住んだのは、わずか11年であり、その後再び津和野も、この家も訪れることはなかった



遺書「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という言葉を見ると、この家での幼き日々の生活がいかに重要な意味をもっていたか明らかである



森家の上京後人手に渡り、一時は他所に移築されていたが、昭和29年(1954)鴎外33回忌にあたり、津和野町がこれを買い戻し、現在地に復元



遠くの山の上に津和野城の石垣がかすかに見える



あの山の上から見えた赤色の屋根



鴎外旧宅にも「石州瓦」が使われている



津和野の地名の由来となった「ツワブキ」の花が咲いていた



撮影 平成26年10月24日
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