神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

小童寺 続き(頼光四天王・渡辺綱、坂田金時の墓)

2015年04月18日 17時01分03秒 | 川西市の史跡
             ↑墓地には満仲公の長男、源頼光公の主要な家来、四天王の筆頭だった
              渡辺綱のお墓もあった。

↓傍には、渡辺綱以外の四天王の三人のお墓もあった。


右端は、金太郎の童話で有名な坂田金時の墓。

このお墓を見れば、坂田金時が実在の武士だったことがよく解る。

  まさかりを担ぎて熊にまたがりて坂田きんとき四天王に  biko

  丹沢に生まれ育ちし金太郎こんなところに祀られてゐる  biko

↓渡辺綱公がいかに位の高い武士であったがが、この廟でわかる。


↓石碑があったので撮影したが、苔むしていて何と書かれているのか読めない。


↓有名な武将のお墓なのに、訪れる人は多くなく、あたりはタンポポほか野草の花が咲き満ちていた。


↓近づいてタンポポを。


↓カラスノエンドウも。


↓この白い小花の名は?


↓墓地からは畦野の住宅地が広がっていた。


  頼光の四天王らの眠る地ゆ見ゆる畦野といふ住宅地  biko

  高速道路(かうそく)が奔れば夜も煌々と灯(ひ)が奔るらむ畦野の上を  biko


本当は、一昨日はこれで帰宅するはずだったのだが、まだまだ外が明るかったので、もっとドライブすることにして、国道173号線をどんどん北上した。

そして昨日書いた記事でお分かりいただけるように、結局、日本海の天橋立まで行ってしまったのだが、途中、珍しいものを見つけたので、その写真もアップしておく。

↓土佐藩の城主、山内一豊公の、いつのころのものだろう。城址がこんなところに。


これは、また調べてみないといけない。

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さっそく調べてみると、こんなサイトが見付かった。

京都府埋蔵文化財情報 第 116 号 - 京都府埋蔵文化財調査研究センター

これによると、この地の三ノ宮西城跡地は、一豊の祖父、久豊に関係したという地元の伝承が残されているらしい。

  船井郡京丹波町三ノ宮東城址発掘調査  biko

  ↑これも短歌です。(^^)「城址」は「しろあと」と読ませます。

工事中の新名神高速道路(川西市畦野)&小童寺

2015年04月18日 15時47分50秒 | 川西市の史跡
                   (4月16日撮影)

う~ん、疲れている。

昨日、早朝に天橋立を散歩して、その後豊受様の社、籠(この)神社と、その奥の院である真名井神社を詣でた疲れが残っているのである。

こんなに疲れが残るのは、日ごろ怠けていることのしっぺ返しか、それとも歳か。

私より4歳年長の夫は、今日は朝から高野山に行ったというのに・・・、

さて、上の写真であるが、一昨日、最初は天橋立に行く予定などなかったから、お天気がいいから、ちょっとドライブしようかということになって行った川西市内の畦野というところに建設中の新名神高速道路の川西インターチェンジのあたりの工事現場である。

出来上がってしまえば、こういう工事中の写真が記念になるかもしれないと撮影した。

完成予定は平成30年であるらしい。

上の写真は箕面方面に向けて撮影したもの。

↓下の写真は宝塚方面に向けて撮影したもの。


↓撮影したすぐ近くに川西市の名所旧跡である小童寺があったので、参拝させていただくことにした。


↓ぼたん桜が満開であった。


小童寺は源氏の始祖、源満仲公の末子、美女丸の身代わりになって殺された幸寿丸が祀られている。


どうして身代わりになったかというと、話が長くなるのだが、満仲公の末子に生れた美女丸は源氏一族の弔いのために修行をさせられていたのだが、真面目に修行に励まなかったので、怒った満仲公に殺されそうになった。

そのとき殺すことを命じられた藤原仲光という家来が、主君の子息を殺すことが忍びなくて、泣く泣く同じ年恰好の自分の息子を殺して、美女丸であると偽って満仲公に差し出した。

それを聞いた美女丸は、深く反省して、以後は真面目に修行に励んで、りっぱなお坊さんになったという逸話が残されている。

↓小童寺の拝殿


↓縁起の書かれた看板


↓同


↓お寺の横の牡丹桜も撮影


  美女丸は源満仲公の子で殺されかけて助けられたり  biko

  満仲の家来の子なれば罪もなく殺されたりしこの幸寿丸  biko

↓お寺の建っている山の斜面を登ると、満仲の家来の仲光、その子で美女丸の身代わりになった幸寿丸、満仲公の三男、美女丸の墓が並んで建っていたので手を合わせてきた。



  苔むせる仲光幸寿丸親子満仲公の子の美女丸と  biko

宮津(天橋立)の元伊勢 籠(この)神社&真名井神社

2015年04月17日 15時00分16秒 | 旅行
                    (籠神社4月17日撮影)

昨日は結婚記念日だったので急にどこかに行こうということになって、私はSUMIKO(早川須美子)さんの「隠された言霊の神 わかひめさまの超復活」に出てくる豊受様の天橋立の籠(この)神社と、その奥の宮の真名井神社に連れて行ってもらうことにした。

豊受様とは伊勢の外宮に祀られている神様。

その豊受様が伊勢以前に住んでいられたのがこの宮津の籠神社の地であったので、この地を元伊勢と呼ぶのだ。

朝一番の天橋立散歩の後、車で目的の籠神社と真名井神社に連れて行ってもらった。

↓淡路島のイザナギ神社と同様に、「君が代」の中に歌われている”さざれ石”が。


  さざれいし巌となりて立ちてをり宮津の宮の社の前に  biko

↓神社の謂れの書かれた立て札


↓拝殿も写させていただいた。


↓この神社の狛犬が有名とかで、写させていただいた。(向かって右側の狛犬)


↓向かって左側の狛犬


  横向きて正面にらむ狛犬は重要文化財と書かれて  biko

籠神社を参拝させていただいた後、そこから400メートルほど山手にある、籠神社の奥の院といわれている真名井神社に行った。

↓真名井神社の最初の鳥居。


↓次の鳥居には注連縄が張られていて、「ここより先は撮影禁止」だったので、社殿の写真はない。


  ここよりは撮影不可となりぬれば真名井神社はまなこに留む  biko

真名井神社の社殿は、ごく小ぶりのもので、だからこそ余計神々しい感じがした。社殿の右奥に縦長の石が祀られていた。

  大いなる神様なりしトヨケさま真名井神社に小(ち)さく祀らる  biko

↓撮影禁止の注連縄の外側に”真名井の水”という湧き水を汲む場所があって、ポリタンクに水を汲みにきている人がいた。


↓真名井神社の帰路、神社からの眺めを撮影した。天橋立は、これより右側になるので写っていない。


  真名井なる神社ゆ北を眺むれば海は見ゆれど天橋立(はしだて)見えず  biko

天橋立の知恩寺と廻旋橋

2015年04月17日 08時25分49秒 | 旅行
昨夜は天橋立の駅前のホテルに泊まって、今日の早朝は天橋立を歩いた。

上の写真は、泊まったホテルの裏口からの近道で横から入らせていただいたお寺、知恩寺。

日本三文殊の一つだそうで、なかなか立派なお寺だった。

↓拝殿


↓横から入らせていただいたから、退るようにして写させていただいた山門。


このお寺を参拝させていただいてから、また近道で、今度は天橋立に渡る橋、廻旋橋に。

↓ちょうど、船が近づいてきたので、(写真ではわかりにくいが)橋が廻旋される様子が見られた。


↓海から入ってきた船。この船のために廻旋橋が廻旋されたのだ。


↓廻旋橋が廻旋された場所を通過していく船。


↓通過して、湾内に入った船。


↓また廻旋橋が廻旋されて、あと少しで、もとの普通の橋に戻る様子。


↓廻旋橋を渡りおえて天橋立に渡ると、天橋立の案内板があった。


↓昭和天皇の歌碑があった。


  めずらしく晴れわたりたる朝なぎの浦わにうかぶ天橋立  昭和天皇

今日のお天気が、まさにこの御製(天皇陛下の作られた歌のこと)の通りだった。

朝まで大雨で、どうなることかと思っていたら、朝食が終わるころにはすっきり晴れた。

  大雨の朝(あした)の雨は上がりたり天橋立見むと渡れば  biko

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実は、この後もケイタイで天橋立を歩いたときの写真を撮ったのだが、手違いで消してしまったみたいだ。

橋立明神の写真とか磯清水の写真とか与謝野晶子夫妻の歌碑とか一番のクライマックスだったのに・・・。

今日は43回目の結婚記念日

2015年04月16日 09時21分04秒 | 家族
今日は43回目の結婚記念日なので、旧いアルバムを出して撮影してみた。

↓私達の向こうには一昨年亡くなった兄が写っている。


↓列席してくれた父方の伯父たちも母方の祖父母も叔父、叔母も鬼籍に入ってしまった。


↓中央に写っているのが私を可愛がってくれた叔母(母の妹)。(結婚式の朝、実家で)


↓父と母も若かった。


↓姑(右側)も若かった。姑も母も美人だった。



以上、このブログは子供達も見てくれているから、子供達に見てもらうためにアップした。


  いま見ればわれより若き父母(ちちはは)と思ふ四十三年前は  biko

  しうとめの五十二歳とわが母の四十六歳が並びて立てり  biko

  わたくしの向かうに若き独身の兄がうつむき写るうつしゑ  biko

  今は亡き人たち並ぶ写真なり四十三年のちに見るとき  biko

  ハンサムと言はれてをりしわが夫とわたくし若し結婚式に  biko

カラスのえんどう

2015年04月15日 11時29分13秒 | 
東側隣家との境に生い茂っているカラスノエンドウを撮影した。

私は、この植物の名前を以前は、「烏の豌豆」と思っていたのだが、そうではなくて、「烏野豌豆」であると最近知った。

カラスノエンドウは、花期を終えると黒い実の入った莢ができる。

カラスノエンドウは野原に生えて、莢は豌豆の莢を小さくしたような形で、中の実は烏のように黒いから、カラスノエンドウと名付けられたのだろう。面白い命名だと思う。

ところで話は変わるが、私は、最近、園芸種の花に違和感を覚えるようになった。

綺麗は綺麗だが、とってつけたような感がしてしまうのだ。

我が家は市街地にあるので、土地面積が狭小で、庭らしい庭がない。

それでも、8年前に引越してきてからはプランタに季節季節の花を植えて楽しんでいた。

が、昨年の精神薬の副作用、その後の薬を止めたことによる離脱症状により、植物の世話などできない状態に陥り、ほとんど枯らしてしまった。

最近は、回復して、元気になっているが、しかし薬以後、人生観のようなものが変わってしまい、不自然なものは受け入れがたくなってしまった。

化粧もしなくなったし、パーマもかけなくなった。白髪染めも、もうすぐ止めようと思っている。

植物も、以前は、ホームセンターに売っている洋花を綺麗と思って植えていたけれど、最近は嘘っぽさを感じてしまう。

逆に、自然に生えている草花の花を愛おしく思えるようになった。

この撮影したカラスノエンドウも、そろそろ抜かないと、きちんとした西隣さんに注意されてしまうかもしれない。

この草の生えている場所は東隣さんの敷地なのだが、東隣さん家は西側に勝手口を設けていないのと、奥さんの脚が悪くてしゃがんで草引きができないから、毎年、私が草引きをしているのだ。

  紫の小花が好きで花期終えるまででは抜かざるカラスノエンドウ  biko

このカラスノエンドウの奥には冬枯れしているドクダミがある。

今年も、もうすぐ緑の葉を繁らせて、6月になれば、白い清楚な花を咲かせてくれるだろう。

ドクダミは、日陰になる奥に生えていて、表からは目立たないから、私は根こそぎにはしないで、密かに楽しんでいるのである、

月詠

2015年04月14日 15時39分13秒 | 短歌
短歌を始めて17年になる。

「塔」に入会してからでも15年になる。

始めたころは、私なりに、よく勉強した。

大きな大会にも出して、賞をいただいたこともあった。

歌作だけでなく、短歌の雑誌の評論賞に応募したこともあった。

が、ここ2、3年は、結社誌に出すことすら休んでいた。

休んでいたのは、鬱病になったことと、その薬の副作用、離脱症状で歌を作るどころではなかったという事情もあった。

が、私自身が情熱を失っていたというのが一番の大きな理由だ。

再開したのは、昨年12月から。

一時は止めるつもりだった。

最近は、ブログを書くことのほうが面白い。

が、ブログの文章に、その時々の即詠の短歌をつけるようになって、駄作ばかりだが、歌数は揃うようになった。

それで、また出詠を再開したという次第。

また以前のような情熱が戻ってくるかどうかは不明だが、しかし、まったく止めてしまうのも寂しい。

これからは、頑張らないで続けようかと思う。

今月の出詠も、推敲などしない。推敲しないだけでなく、選ばない。ブログを書くついでにできた歌を順番どおり書いただけだ。

なぜそうするかというと、自分でいいと思って出した歌が選者には選ばれなくて、数合わせで出した歌が選ばれるという結果を嫌というほど体験したので、自選はしないことにしたのだ。

それに、「塔」も選者が替わって、若い選者が増えた。

もちろん選者だから、歌も上手いし、歌を見分ける力もある。

とは思うけれども、若いということは、弱年という言葉もあるとおり、弱いところもある。

年配者の作った歌を全部わかって選歌するということは無理と言わざるをえない場面は出てくる。

もちろん、年齢、性別を超えて秀歌という歌は存在する。

しかし、そんな歌は稀だ。

そこで才能の乏しい人間の対策として、最初から脱力しておく。

そうすれば、結果がよくなくても失望することがない。

これは、長年連れ添った夫婦の感情にも似たところがあるかもしれない。

情熱は消えたが、愛着はまだ残っているという。

  情熱は消えてそれでも止められず続けることは愛着の証し  biko

今日のお昼ご飯&災い転じて福となす

2015年04月14日 13時36分26秒 | 料理
夫がお昼前から出かけたので、一人の昼食は簡単に済ませました。

鶏と卵の二色丼と味噌汁と白菜キムチでした。

これをいただいたあと、今までお昼寝してしまいました。

何もしていないのに、怠けているから眠くなるのでしょうか?

年取ると、一日二食、さらに一食だけにしたほうがいいと書かれてあるサイトを読んだので、夫のいないときぐらい抜けばいいのですが、、おなかが空くので、いただいてしまいます。

  夫のゐぬお昼を二色丼にするそして昼寝をたつぷりととる  biko

でも、とっても幸せな気分で目覚めました。¥(^^)

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長い年月、鬱に悩まされていましたが、精神薬の地獄のあとでは、憑き物が落ちたように平穏が続いています。

これを「怪我の功名」というのでしょうか?

眠れる、食べられる、この当たり前のことがどれだけ大切なことか、身を持って知ることができました。

まさに「災い転じて福となす」の今日この頃です。

今日の夕飯&冤罪

2015年04月13日 20時53分13秒 | 料理
今日は外に出なかったので、写真がありません。で、夕飯を撮影してアップしました。

献立は、①フライパンで焼いた塩鮭
    
    ②炒め物・・・中華なべに豚バラ肉を並べて塩、黒胡椒をたっぷり振りかける。
           その上に適宜切った新たまねぎ、キャベツ、人参、しめじ、ピーマン
           を載せて、上からオリーブ油少々をかけて蓋をする。
           ここで初めてガスを点火する。
           そのまましばらく放っておいて野菜がしんなりしたら、かき混ぜて、
           できあがり。

           このやり方だと、火の傍についていなくても、勝手に一品出来るから、
           これから暑くなる季節にはお奨め。その間ほかの料理を作ることもできる

     ③新たまねぎの薄切りと”かますご”のポン酢かけ
            新たまねぎの薄切りのポン酢かけは、このごろ毎日のように登場。
            上にかけるものは、今日は”かますご”でしたが、削りカツオの
            ときもあります。上に細葱を刻んだものをトッピングしました。

            今の時期に出回る新たまねぎは、どんな料理にしてもおいしいですが、
            生で食べるのは一入です。値段も手ごろなので、助かります。

     ④写さなかったけれど、これに新ジャガイモと油揚げで作った味噌汁もつけました。、

     ⑤ふだんはお酒を飲まない私ですが、今日は、”KIRIN本絞りレモン”も。

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横で夫が観ている番組をチラチラ横目で観ながら、これを書いています。

夫の観ている番組は、MBS系の「世界の逆転裁判」。

実際にあったお話を元に作った番組。

三話ほど紹介されていましたが、その中のお話の一つは次のようなものでした。

「スポーツのできる高校生がスポーツ推薦で一流大学に入学することが決まっていた。

ところが、あろうことか、その高校生は同級生の女の子をレイプしたと訴えられて、刑務所に入れられる。

刑務所を出所しても、性犯罪者というレッテルを張られたままでは就職もままならない。

が、最終的には、そのレイプされたと訴えていた女性が、それは偽証であったと語ったため、冤罪として、名誉を取り戻すことができた。」

それらのお話を観ていて、人に裁かれることの怖さを思いました。

冤罪ではないですが、私も、ネット上の出来事でしたが、私の何の悪意もない、ただの挨拶に対して、さも犯罪者のような扱いを受けて鬱病になった過去があります。

番組を観ていて、犯人とされた冤罪被害者の悔しさが他人事とは思えませんでした。

  冤罪を受けたる人の苦しみをわがことのごと観てゐるテレビ  biko

夫が財布を失くした?ことと懐中電灯

2015年04月12日 16時31分40秒 | 日記
冷たい雨の降り続いた一昨日の夕方、仕事で滋賀県に行っていた夫が帰宅して、食堂に入るやいなや、財布がないと言い出した。

え、それは大変!

夫の持ち帰った荷物を何度も何度も調べたがない。

夫は、帰途おなかがすいて、大津パーキングエリアでコロッケを買って食べたから、そこで落としたかもとサービスエリアに電話してみたが、今のところ上がっていませんと。

じゃ車の中をもう一度探してみたらと、夫はまた車に戻って探したが、やっぱりないという。

夕食どころじゃなくなって、私も暗くなった外に出て、車の中を探してみた。

暗くなっていたから、前部座席、後部座席の床を手探りで探したが、やっぱりなかった。

冷たい雨が降っていたので、私は風邪を引きそうになって、探すのを止めてしまった。

そのとき気になったのが、玄関の定位置に置いてあるはずの懐中電灯がなくなっていたこと。

私は、懐中電灯で探したかったのだ。

が、その時は、とにかく誰かに財布を拾われてカードとかを使用されたら一大事と、一旦家に入って夫は財布に入っていた数枚のカードのカード会社に連絡して使用されないようにストップしてもらった。

その後、警察に車の免許証の紛失も届けた。

警察は、免許証のことは出てきたときのことを考えて、2、3日様子を見てみましょうと言ったらしい。

そして翌日の昨日の朝、夫が明るくなった空の下、車の中を見てみると、何と財布は後部座席の足元の床に落ちていた。

まあ、なんということ!

二人とも別々に時間をかけて探したのに・・・。

  探せども見つからざりし夜の財布よくあさ見つくあつけらかんと  biko

見付かって喜ぶ前に、見つけられなかったことに対する悔しさが先立った。

それで夫に、「玄関の懐中電灯があれば探せていたのに、どこかにもっていったの?」と聞くと、「最近、その懐中電灯の電池が切れていることに気づいてどこかにもっていった」と応える。

重ねて「どこにもっていったの?」と聞く私に、なんと夫は「忘れた」

残念無念でたまらなかった私は、そのことで何度も夫を責めてしまった。

「財布が見付かってよかったぁ」で終わりにすればよかったのに・・・。

それでも、あったのに見つけることができなかったことは悔しさ以外の何者でもなかった。

皆様も財布を落とさないように、いえ、その前に、来る地震に備えて懐中電灯の置き場所の確認、さらに電池が切れてしまっていないかの確認をお奨めする次第です。

   ありしこと喜ぶよりもありしまま探しえざりし悔しみ先に  biko

(詞書)阪神大震災後数年は家族一人ずつ枕元に懐中電灯を置いて寝ていた時期もあった

   ひとりずつ懐中電灯枕辺に置きし数年ありしあの頃  biko

西隣さん

2015年04月12日 09時22分30秒 | 近所
                    (お隣の一部分を撮影させていただいた)

昨日出かける前に西隣さんに、遅くなったが、先日の帰省のときに買ってきたお土産をお渡しした。

なぜお渡しするのが遅くなったかというと、西隣さんは、私と同年代の方だが、まだお勤めをされていて、平日は早朝から夜まで留守にされているから。

大阪市内の会社の経理をされているとか。

「辞めさせてほしいと頼んでいるんだけど、辞めさせてもらえなくて、でも今は嘱託になりました」と、以前お聞きしていた。

昨日は、さらに「現在は嘱託だから、それほどでもないですが、以前はひと月百万いただいていました」とお聞きした。

世間知らずの私は驚いてしまった。

実は、私は、一人暮らしの彼女のことを少し気の毒に思っているふしもあった。

立派な家に住んでいられるが、親からの遺産でもあったのかと思ったりしていたが、自分の稼ぎで土地を買って家を建てられたのだった。

先月、築10年の点検で、外壁の塗り替えなどされたが、その費用に200万かかったと話されていた。が、そんな費用も軽々ですね。

昨日お土産をお渡ししたのは、その外壁工事で騒音を出してご迷惑かけましたと果物をくださったので、そのお返しだった。

それにしても、世の中には、男以上に稼いでいる女性もいるんですね。

  お隣の同ひ年なる人に聞き驚く月収百万ばなし  biko

ついでに、東京で一人暮らしされているお嬢さん(私の娘と同い年)のことにも話が及んで、「娘は東京でIT関係の仕事をしていますが、月収が70万くらいあるから結婚しようとしないのです」と言われる。

これに、また驚いてしまった。

私の次男は、大学のシステム学科の修士課程を出て、某会社のシステムエンジニアをしているが、月収面ではとても足元にも及ばない。

この頃は、女の時代と言われるけれど、身近な人からこういう話を聞くと、肯わざるを得ない。

  ITにをとこをんなの区別なくをとこ凌ぎて稼ぐをんなら  biko

昨日は、その話を聞いたあとで、大阪で次男の結婚式に出るための服など探したのだが、西隣さんなら、私がデパートで破格の高値と買うのを躊躇ったドレスなども軽々と買うだろうと思った。

天神橋筋商店街

2015年04月11日 21時49分21秒 | 日記
大阪城北詰駅で藤田邸公園を見たあと結婚式場の下見をして、その後貸衣装屋さんに行くため、JR大阪天満宮駅まで戻った。

JR東西線の大阪天満宮駅を出ると日本一長い商店街で有名な天神橋筋商店街に出る。貸衣装屋さんには、そこからバスで行くような案内になっていたが、私達は昼食もまだだったので天神橋筋商店街の中で食べることにして、アーケードの中を歩いた。

↓お寿司を食べたかったので、適当なお店に入った。


↓夫の注文したのはランチサービスの釜揚げちりめんじゃこと温泉卵と赤だし汁のセットで680円。


↓私の注文したのは、ランチサービスの握りずしと赤だしのセットで780円だった。


この商店街は、よくテレビでタレントさんが実況中継をしているが、安くて旨い店が多そうだった。。

このあと、太融寺町の貸衣装屋さんまで歩いた。

夫はモーニング一式を予約したが、女性用は留袖しかおいていないというので、その後、梅田の阪急百貨店に回って見た。が、思いのほか高いので、今日は買うのを止めて、また出直すことに。

今日は、たくさん歩いて疲れた!!

  日本一長い商店街歩き太融寺町までまた歩く  biko

藤田邸公園

2015年04月11日 20時58分45秒 | 日記
今日は、次男の結婚式場の下見のため、JR東西線大阪城北詰駅まで行った。

駅を降りて歩いていると、藤田邸公園と書かれた門が見えたので、中に入ってみることにした。

↓藤田邸公園内では名残りの桜の花を眺めながら憩っている人たちを散見した。


  藤田邸公園内に二人連れ多し葉ざくら観むと蠢く  biko

↓こちらは”桃の花”と書かれてあった。


  桜木に連なる桃の並木みち桃色といふ色を並べる  biko

↓裏門(どちらが表か裏かはわからないが、私達が入ったのと反対側の門)を出ると、大川に出た。

向こう岸の桜並木の花が見えて、その前の水面を観光の水上バスが行き来しているのも見られた。

  入りし門入り口として出る門を出口と名付け出でてきたれり  biko

↓こちら側にも、名残りの桜があった。先週くらいにくれば、見ごろだったろう。


↓思いのほか人出が多いので不思議な気がしたが、考えてみれば一昨日から造幣局の桜の通り抜けが始まったので、そこから人が流れてきていたのかも。



  遅咲きの造幣局の桜らを見て流れ来る人波の波  biko

新郎の母親の衣装は?

2015年04月10日 13時50分19秒 | 日記
次男の結婚式も後2ヶ月余りと迫ってきたので、今日は新郎新婦の母親の衣装について書いてみようと思う。

我が家は、長女のときはハワイのマウイ島で両家の家族のみで結婚式を挙げたので、両家全員洋装で問題なかった。16年前の5月だった。

私は日本から持っていった夏のワンピースを着たが、ハワイで、結婚式にも出られるという上等なムームーを、そのとき買った。今回の結婚式がハワイであれば、それが着られたかも?!

長男の結婚式は大阪で挙げたが、長男の奥さんのお母さんから「結婚式は洋装にさせてください」という申し入れがあり、これ幸いと私も洋装にした。14年前の11月だった。

上の写真は、そのときに私の着た服である。梅田の阪急百貨店で買ったが、まだ大切に置いてある!

こちらは日本でではあったが、やはりチャペルでの結婚式だったので、洋装でかまわなかったというか、洋装でよかった。

というわけで、私は、いまだ留袖姿の母親を体験していない。

だいたい、ここ20年ほど着物を着ていない。(若い頃はよく着ていたほうだったのに・・・)

ところが、来る次男の結婚式に相手のお母さんは留袖を着るとおっしゃる。

ネットで検索してみると、今でも結婚式での母親の礼装は留袖というふうになっている。

私は、う~んと唸ってしまった。

たまたま我が家が今まで特殊な結婚式を挙げてきたということだったのか。

しかし、次男の結婚式は6月。

冷房は効いているだろうが、暑がりの私は留袖を着たくない。

それに、結婚式場は、ごく洋風のそれである。

私は洋装のほうがむしろベターではないかとさえ思う。

私のその考えは先週のお食事会で先方に伝えて了解してもらった。

だから気にしなくてもいいと思うが、少しだけ申し訳なく思っている。

  花嫁の母は留そで花婿の母なるわれはアフタヌーンドレス  biko

でも、今回も双方の家族だけで挙げる結婚式だから、まあいいか。

それから、これは秘密だが、私は、せっかくだから、結婚式後の食事も会話(難聴の私は夫の通訳つきになるが)も楽しみたい。

着物を着ていると、帯で胸を圧迫するから食べられないのだ。

  正餐をいただきたくて正装は服にするなり結婚式の  biko

生き様は死に様

2015年04月09日 11時04分13秒 | 近所
                   (気のせいか今年は例年より花の咲きが悪い)

亡くなられたご近所のYさんのことは昨日で終わりにしようと思っていた。

が、今朝koichiwさんが、昨日の記事に対して「綺麗に手入れされた庭木から住んでいた方の人柄が判るような気がします。」とコメントくださっていたから、もう一回だけ書かせていただこうと思う。

Yさんは、きちんとした人だった。

ご本人によると、お父様が小学校校長先生をしておられたから、常日頃からお母様に、「どんな時でも、人様に見られて恥ずかしくない子であるように」と厳しく躾けられたそう。

私の姑はYさんが子供のころから付き合いがあった。

あるとき、まだ幼いYさんが自宅の前の溝の草を抜いているのを見て感心したら、「お母さんに言われてしています」と応えたと思い出話をしてくれたことがあった。

一人娘さんだったので、お父様が亡くなられてから養子さんをとられて、お母様と3人で暮らしておられたらしいのだが、姑は、「気難しかったYさんのお母さんが養子さんを追い出したから、Yさんは可哀相」と言っていた。

が、ご本人は、「そうではなくて、私が離婚を迫った」と言っておられた。

離婚を迫った理由は、養子さんが生活費を入れなかったからだったという。

「私も若かったから許すということができなかった。もう少し長い目で見てあげればよかったかもしれないけれど」と述懐されたこともあった。

私は、姑のいうことも全くの見当はずれでもなく、Yさんのお母様の思惑も多少は絡んでいただろうと推察する。

まあ理由はどうあれ、その後は母子二人暮らしだったわけだ。

Yさんは結婚前から銀行勤めされていて、離婚後も勤め続けられたらしい。

お母様がご病気になられても看病しながら勤め続けられたから「私は親の世話は出来る限りのことをしたから悔いは一切ない」と言っていられたのは真実だろうと思う。

結局定年退職するまで勤め上げて、その後は亡くなられるまで一人暮らしを貫かれた。

Yさんは生前、「こういう生きかたを選んだのは自分なんやから」と達観していられた。

2年前、肺癌の再発が明らかになっても、「私は死んだあとのことは日本ライフ協会というところに手続きしてある」と落ち着いていられた。

「親戚にも連絡はしない。なぜなら、その家には、その家の都合というものがあると思うから、私のことで従姉妹達を煩わせたくはないから」とも言われていた。

その友人に対しても同様の考えを持っておられて、「いくら仲の良い友人であっても迷惑かけられるのは誰でも嫌だろうと思うから言わない」と。

まあ、それはあっぱれなほどであった。

Yさんは、そういう毅然とした生きかたどおり、毅然と亡くなられた。

                    合掌

 
  親戚も親友にさへ知らせずに独り死ににき雨水のころに  biko