今日は肌寒い。
最近、お茶もペットボトルのを飲むようになったから、もういらないと冬の間中お世話になった保温湯沸しポットを片付けたところへ、この肌寒さだ。
またポットを出すのは面倒なので、今日は薬缶を出して、その都度ガスで沸かしているが、手間だ。
朝コーヒーを飲むのに沸かし、おやつを食べるときに飲む緑茶を入れるのに沸かして、食事時のお茶を入れるのに沸かしてというふうに、一日に何度もガスでお湯を沸かさなければならない。
食事のときは、おかずを作りながらお湯も沸かさないといけないから気ぜわしい。先日から、ご飯も土鍋で炊いているから余計に。
冬の間は、暖かいご飯を食べたいから電気炊飯器でご飯を炊くが、温かくなると土鍋で炊く。
同じころ電気湯沸しポットも仕舞うのが例年だが、こう肌寒いと、また出したくなる。
年取ってくると、とかくわがままになってこらえ性がなくなってくる。
こらえ性がなくなってくるのに、その対処をするのが億劫になってくる。
その結果、だんだんだらしなくなってくる。
もともとだらしないかもしれない私が、これ以上だらしなくなったら手に負えないが、寄る年波には勝てない。
もっとシンプルな暮らしができるように工夫する必要がありそうだ。
初夏(はつなつ)と思へるほどの晩春(おそはる)の暑さのなかにこの肌寒さ biko
最近、お茶もペットボトルのを飲むようになったから、もういらないと冬の間中お世話になった保温湯沸しポットを片付けたところへ、この肌寒さだ。
またポットを出すのは面倒なので、今日は薬缶を出して、その都度ガスで沸かしているが、手間だ。
朝コーヒーを飲むのに沸かし、おやつを食べるときに飲む緑茶を入れるのに沸かして、食事時のお茶を入れるのに沸かしてというふうに、一日に何度もガスでお湯を沸かさなければならない。
食事のときは、おかずを作りながらお湯も沸かさないといけないから気ぜわしい。先日から、ご飯も土鍋で炊いているから余計に。
冬の間は、暖かいご飯を食べたいから電気炊飯器でご飯を炊くが、温かくなると土鍋で炊く。
同じころ電気湯沸しポットも仕舞うのが例年だが、こう肌寒いと、また出したくなる。
年取ってくると、とかくわがままになってこらえ性がなくなってくる。
こらえ性がなくなってくるのに、その対処をするのが億劫になってくる。
その結果、だんだんだらしなくなってくる。
もともとだらしないかもしれない私が、これ以上だらしなくなったら手に負えないが、寄る年波には勝てない。
もっとシンプルな暮らしができるように工夫する必要がありそうだ。
初夏(はつなつ)と思へるほどの晩春(おそはる)の暑さのなかにこの肌寒さ biko
毎日好き勝手なことを書いておりますのに、このように言ってくださる方がいることはブロガー冥利につきるというものでございます。
私はブログ紹介文にも書いていますように、耳に障害がありますので、普通の人以上に書くこと、読むことに頼るところがございます。
もし、お褒めいただいたようなところが微塵でもあるようでございましたら、それは、その障害のなせる技なのかもしれません。
いただいたコメントで、障害も悪いばかりではないのかもしれない、という思いを強くいたしました。
ありがとうございました。
確か一年前の頃から魅了されて、私のブログ上に於いて、
ブックマークとして、ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、として貴女様のブログ『神鳴り』を登録し、
愛読させて頂いています。
特に今回、瞬時に感銘を受けたことは、下記の綴りです。
《・・年取ってくると、とかくわがままになってこらえ性がなくなってくる。
こらえ性がなくなってくるのに、その対処をするのが億劫になってくる。
その結果、だんだんだらしなくなってくる。・・》
多くの人が体験することを的確に表現されて、やはり貴女様は歌人の御方と感心させられた次第です。
もとより短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれていますが・・。
私は無念ながら短歌や俳句を詠(よ)む素養はなく、
やむなく『ブログ』の世界で散文のような拙(つたな)い綴りを殆ど毎日投稿をしている身です。
今回、瞬時に感銘されられたことに、御礼申し上げます。