やっと読み上げることができました。
読み始めたのは、いただいてすぐだったのですが、途中中断して、その後、読書の時間が取れなくて。
でも、ゆっくり読ませていただけてよかったと思います。
というのが、すーっと読ませていただくより時間をかけて読ませていただいたほうがいいような歌集でしたから。
重い歌集でした。物理的にもですが、内容が・・・。
というのが、途中から、中山さんのお嬢さんが小さなお嬢さん(中山さんのお孫さん)がありながら倒れてしまわれましたから。
まだ母親の愛情の必要な幼子の世話をなさる中山さんや、そのお孫さんが痛々しくて、何度も胸を詰まらせながら読ませていただきました。
かてて加えて、その中山さんご自身が癌にかかられる。
神様は、どうしていらっしゃるかと、神様を疑いたくなるような状況です。
歌集を読んでもお分かりいただけると思いますが、中山さんは、本当にどこから見ても紳士然とした方です。
神様は、どうしてこういう人を狙い撃ちするかのように不運を与えられるのでしょうか。
と、前置きが長くなってしまいましたが、まず中山さんのご紹介を。
歌集の帯は、有名歌人の三枝 昂之(さいぐさ たかゆき)氏が書かれていますが、
「小学校時代の中山氏は当時のローマ法王に重ねてピオと呼ばれていた。穏やかな秀才だったから。」
だそう。
中山氏の生年は、三枝氏が昭和19年1月生まれでいらっしゃるから昭和18年生まれ、あるいは昭和19年の3月までということになるでしょうか。
*
さて、いよいよ歌集『刻の長さ』だが、目次は、Ⅰ、Ⅱ.Ⅲ.と分けられていて、そのⅠ、Ⅱ、Ⅲが、また細かく章立てされている。
一番たくさん歌が納められているのがⅠであるが、ここには中山さんが単身赴任で尼崎に住んでいらっしゃったときからの歌が並んでいる。
私がインターネット歌会でお見かけした歌もいくつか入っている。
そして、最初の最初、巻頭におかれた歌が、この歌
防人はおのれで紐を繕ひしとボタン付けゐる独り居の夜
中山さんは独り暮らしのご自分を防人に見立てて詠っていられるのだ。
この歌は、後書きによると、今は亡き河野裕子さんに毎日歌壇の特選に選ばれた歌という。
また、この赴任中、寮のあった尼崎市に勃発したJR福知山線脱線事故の歌も詠われている。
犠牲者の百名プラス一名の一の家族を思ふことあり
献花台前の警備の引継ぎは敬礼二回声の聞こえず
階段に灯りを点けてマンションは線路の脇に人住めぬまま
中山さんの冷静な観察眼と同時にその優しさの窺える歌群だと思う。
その後Ⅱになると、ご自宅のある名古屋に戻られて再就職をされてから癌が見付かるまでの歌群が納められている。
このころは、技術士の試験を受けるべく、受験勉強もされており、充実した生活の窺われる歌が多い、
六十を過ぎて資格を取るべしと本棚にさがす「制御工学」
液体と気体はおなじ流れにて流体工学ひとくくりなり
読めぬまま『材料力学』一冊が通勤カバンを重くしてゐる
3首目の歌はインターネット歌会にも出詠された歌だから、記憶に残っている。
たしか『材料力学』の書名の具体がよいというような意見があったような・・・。
これら歌群は、そのころの技術者としての中山さんその人、またその生活が窺われる。
Ⅲには、癌の宣告を受けてからの歌群が。
ゴンゴンと骨に針打つ音を聞く 釘うたれるるをキリストはいかに
この歌の前におかれた歌によって、この針は「骨の中の細胞を取って調べるための」だと分かるが、その検査されている最中に中山氏は十字架にかけられたイエス・キリストの気持ちを慮ったのだ。
病室に読みたき本を持ち込めり「塔」三冊と『京都歌紀行』
歌一筋の中山さんらしい選書だと思いながら読ませていただいた。
手術まへ陰毛すべて剃りたれば魔羅の小さく萎えてをりたり
患部に異物が混じらないようにという医療的措置だ。
私も大腸癌手術前に経験したが、中山さんは男性だから余計印象的だったのだろう。
こういう詠いにくいところを正直に詠うことによって、歌集全体によりリアリティが増す。
無駄遣ひさへしなければ年金で暮らしてゆけると妻は言ひたり
癌が発見されるまでは、まだまだ働く心積もりだった中山さんだが、ついに退職を決断せざるを得なくなる。
退職をふたたび決めたり娘と孫の世話するならばほかに道なし
これらの歌の前には、このような歌が入れられている。
横たはるままの娘を九ヶ月妻と看てをり望みを捨てず
結社誌「塔」には、お嬢さんの病態を詠った歌を出されていたが、歌集には収められなかったといわれる。
歌集に入れると、身を切られるような肉親の有り様が、一つの作品として客観的歌材になってしまう。それが中山氏には耐えられなかったのだろう。
故、河野裕子さんは、生前、「歌を詠うことは、『鶴の恩返し』のおつうが自らの羽毛を毟って機を織るような残酷さがある」というようなことを言われていたが、まさにそういうことなのである。
最後に、この歌集名「刻の長さ」のフレーズの入った歌のご紹介をさせていただく。
一本の飛行機雲のほどけゆく刻(とき)の長さをゆとりと思ふ
ここまでの境涯を得られるまでには、中山氏にさまざまな試練があったと、この歌集を時間をかけて読ませていただきながら思った。
また読み返しさせていただきたい心に残る一冊となったことは確かなことだ。
中山博史さん、どうもありがとうございました。
読み始めたのは、いただいてすぐだったのですが、途中中断して、その後、読書の時間が取れなくて。
でも、ゆっくり読ませていただけてよかったと思います。
というのが、すーっと読ませていただくより時間をかけて読ませていただいたほうがいいような歌集でしたから。
重い歌集でした。物理的にもですが、内容が・・・。
というのが、途中から、中山さんのお嬢さんが小さなお嬢さん(中山さんのお孫さん)がありながら倒れてしまわれましたから。
まだ母親の愛情の必要な幼子の世話をなさる中山さんや、そのお孫さんが痛々しくて、何度も胸を詰まらせながら読ませていただきました。
かてて加えて、その中山さんご自身が癌にかかられる。
神様は、どうしていらっしゃるかと、神様を疑いたくなるような状況です。
歌集を読んでもお分かりいただけると思いますが、中山さんは、本当にどこから見ても紳士然とした方です。
神様は、どうしてこういう人を狙い撃ちするかのように不運を与えられるのでしょうか。
と、前置きが長くなってしまいましたが、まず中山さんのご紹介を。
歌集の帯は、有名歌人の三枝 昂之(さいぐさ たかゆき)氏が書かれていますが、
「小学校時代の中山氏は当時のローマ法王に重ねてピオと呼ばれていた。穏やかな秀才だったから。」
だそう。
中山氏の生年は、三枝氏が昭和19年1月生まれでいらっしゃるから昭和18年生まれ、あるいは昭和19年の3月までということになるでしょうか。
*
さて、いよいよ歌集『刻の長さ』だが、目次は、Ⅰ、Ⅱ.Ⅲ.と分けられていて、そのⅠ、Ⅱ、Ⅲが、また細かく章立てされている。
一番たくさん歌が納められているのがⅠであるが、ここには中山さんが単身赴任で尼崎に住んでいらっしゃったときからの歌が並んでいる。
私がインターネット歌会でお見かけした歌もいくつか入っている。
そして、最初の最初、巻頭におかれた歌が、この歌
防人はおのれで紐を繕ひしとボタン付けゐる独り居の夜
中山さんは独り暮らしのご自分を防人に見立てて詠っていられるのだ。
この歌は、後書きによると、今は亡き河野裕子さんに毎日歌壇の特選に選ばれた歌という。
また、この赴任中、寮のあった尼崎市に勃発したJR福知山線脱線事故の歌も詠われている。
犠牲者の百名プラス一名の一の家族を思ふことあり
献花台前の警備の引継ぎは敬礼二回声の聞こえず
階段に灯りを点けてマンションは線路の脇に人住めぬまま
中山さんの冷静な観察眼と同時にその優しさの窺える歌群だと思う。
その後Ⅱになると、ご自宅のある名古屋に戻られて再就職をされてから癌が見付かるまでの歌群が納められている。
このころは、技術士の試験を受けるべく、受験勉強もされており、充実した生活の窺われる歌が多い、
六十を過ぎて資格を取るべしと本棚にさがす「制御工学」
液体と気体はおなじ流れにて流体工学ひとくくりなり
読めぬまま『材料力学』一冊が通勤カバンを重くしてゐる
3首目の歌はインターネット歌会にも出詠された歌だから、記憶に残っている。
たしか『材料力学』の書名の具体がよいというような意見があったような・・・。
これら歌群は、そのころの技術者としての中山さんその人、またその生活が窺われる。
Ⅲには、癌の宣告を受けてからの歌群が。
ゴンゴンと骨に針打つ音を聞く 釘うたれるるをキリストはいかに
この歌の前におかれた歌によって、この針は「骨の中の細胞を取って調べるための」だと分かるが、その検査されている最中に中山氏は十字架にかけられたイエス・キリストの気持ちを慮ったのだ。
病室に読みたき本を持ち込めり「塔」三冊と『京都歌紀行』
歌一筋の中山さんらしい選書だと思いながら読ませていただいた。
手術まへ陰毛すべて剃りたれば魔羅の小さく萎えてをりたり
患部に異物が混じらないようにという医療的措置だ。
私も大腸癌手術前に経験したが、中山さんは男性だから余計印象的だったのだろう。
こういう詠いにくいところを正直に詠うことによって、歌集全体によりリアリティが増す。
無駄遣ひさへしなければ年金で暮らしてゆけると妻は言ひたり
癌が発見されるまでは、まだまだ働く心積もりだった中山さんだが、ついに退職を決断せざるを得なくなる。
退職をふたたび決めたり娘と孫の世話するならばほかに道なし
これらの歌の前には、このような歌が入れられている。
横たはるままの娘を九ヶ月妻と看てをり望みを捨てず
結社誌「塔」には、お嬢さんの病態を詠った歌を出されていたが、歌集には収められなかったといわれる。
歌集に入れると、身を切られるような肉親の有り様が、一つの作品として客観的歌材になってしまう。それが中山氏には耐えられなかったのだろう。
故、河野裕子さんは、生前、「歌を詠うことは、『鶴の恩返し』のおつうが自らの羽毛を毟って機を織るような残酷さがある」というようなことを言われていたが、まさにそういうことなのである。
最後に、この歌集名「刻の長さ」のフレーズの入った歌のご紹介をさせていただく。
一本の飛行機雲のほどけゆく刻(とき)の長さをゆとりと思ふ
ここまでの境涯を得られるまでには、中山氏にさまざまな試練があったと、この歌集を時間をかけて読ませていただきながら思った。
また読み返しさせていただきたい心に残る一冊となったことは確かなことだ。
中山博史さん、どうもありがとうございました。
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