静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

忘れてよ! 忘れたい李香蘭      < 死去の報にホッとしたのは 江沢民元国家主席? >

2014-09-25 10:20:03 | 時評
 今月7日死去した李香蘭(旧姓:山口、本名大鷹淑子さん)死去にまつわる逸話である。毎日朝刊<木語>; http://mainichi.jp/shimen/news/20140925ddm003070035000c.html
  <日本人、山口淑子が中国人歌手、李香蘭として上海でデビューした頃のことだ。当時の中国の地図を頭に描いてみる。中国は、西の「抗日」政権と、東の「親日」政権に分裂していた。「親日」政権であっても、日本軍に占領された中国人が親日になるはずはない。「夜来香(イエライシャン)」がヒットした1944年ごろは、日中戦争の末期。身の安全のために親日のふりをした。そんな時代の象徴が李香蘭だった>。

 <日本が戦争に敗れると、蒋介石の「抗日」軍が東にもどってきた。それ以来、「親日」という言葉は「漢奸(かんかん)(売国奴)」と同じ意味になった。「抗日」をしなかった「親日」は売国奴として断罪された。李香蘭が日本人と知らずに「夜来香」のレコードを買った人は肝を冷やした。どうすればいいのか。李香蘭も、「親日」政権の時代があったことも、みんなで忘れるにしかず。 だが、記憶は消えても記録は消えない。いまだに冷や冷やしている人がいるとすれば、元国家主席の江沢民氏だろう>。・・・・ここからが、俄然面白い。    <江氏は李香蘭が人気歌手になった、あの時代に南京の大学に入った。「親日」南京国民政府の作った南京中央大学だ。戦後、閉鎖されて南京大学に統合されたが、南京大学図書館が中央大学の学生名簿を保管していた。江氏は、南京時代の過去を忘れたい。となると、全中国人が忘れなければならない。「親日」南京政権の宣伝部副部長は江氏の実父だというドッキリ論文を書いた歴史研究者は、国家政権転覆扇動罪で懲役10年の刑になった>。   さもありなむ、である。

 <木語子>は云う <中国の指導者のなかで江氏がもっとも激しい反日の言説をとる。理由はこのあたりにある>と。 ふむふむ、成るほどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国語世論調査:「世間ずれ」+「チンする」    < 慣用語句の誤解進行と外来語おきかえ >

2014-09-25 09:55:38 | 時評
 「名詞+スル」の増大と定着は、<れる・られる>の混乱と同様、多忙を極める現代では不可避の≪言語における時間節約衝動≫の一環というしかあるまい。これは、言葉の教育の改善では手におえない。 余談になるが、よく言われる<成る文化/スル文化>の見地からすると、「場所を表す名詞+になります」の多用と「動作を表す名詞+スル」の浸透は、これまた面白い好対照だ。
    他方、6つの慣用句の誤用/誤解は明らかに多忙さゆえではない。6つとは「他山の石・世間ずれ・煮詰まる・天地無用・やぶさかでない・まんじりともせず」だが、誤解以前に <意味がわからない>の回答が若い世代に多く出た慣用句があるのは世相の変化もあり、使用頻度の減少を云々できないだろう。
  唯、自分が青少年の頃、こういった慣用句をどのように教えられ・覚えたか振り返ると、親・或いは先生に「世間(と/に)ずれる/すれる、なのか?」「やぶさか」「まんじり」とは何か?と尋ねた記憶がある。辞書を引いたこともあったかもしれない。例えば「まんじり」とは「まじまじ」の音便であるとわかると、元の<ありあり、はっきり>を表す副詞まじまじが<視線をそらさずに見つめる>意味は現在まで残しつつ、<まばたきするさま>→<眠れないさま>に変化したのだと、ここまでは誰でも追いかけることができる。すると「まんじりともせず」を<じっと動かないで>などと誤解は生まれない。もうひとつ、(ずれる)は漢字なら(擦れる)、(やぶさか)は(吝さか)と書くと補助すれば誤解の回避にもなろう。慣用句に限らず、通用している語句を使う以上は、ルビを振ってでも感じで意味の理解を助ける手間を惜しんではいけない。TV画面を見ていると殊更に思うのだ。
  私が言葉に興味を持ち続けた子供だったからといえばそこまでだが、そういうガイダンスを与える親・周囲の老人なり教師なりが昔に比べ少なくなっているのだろう。「やぶさか」も、古語辞典に当たれば<形容動詞:けち・しみったれ>と出てくるので其の否定形が<仕方なくする>ではおかしい、と誰でも気づく筈。だが、言葉のいわれ・古い用法・語源などを辞書で丁寧にあたる習慣が家庭/学校/社会で指導されない場合、誰でも幼い頃には旺盛だった言葉への興味を失わせてしまう。 そうだとすれば、これらの変化すべてを、単純に時代趨勢だけで片付けるわけにはいかない気がする。
                         
 さて、外来語の日本語文脈中への折込だが、年齢層別の理解度/使用頻度などの差はいつの世も残ることなので、公共サービス部門は可能な限り日本語での言い換え、または併記を心がけるしかない。唯、言葉として外来語の受容が日本語の場合、カタカナの発音に依存していることの功罪両面をも示している。
 即ち、意味の対訳よりは、日本語の発音構造・音節類型・抑揚パターンなどにすんなりハマる<云い易い>外来語かどうか、という音韻上の観点が少なからず影響しているであろうと私は想像する。例えば<コンセンサス><プライオリティー><イノベーション>などは<キャンセル><メリット>のような2拍に収まらず長く感じられるので<云いにくい>となり、敬遠される。敬遠して使わないから意味も覚えられない、という循環ではないか? では「優先順位」だって長いじゃないかという声が聞こえるが、表意文字である漢字ゆえ、優先(ゆうせん)は音と意味が早くから記憶に刷り込まれただけ、といえないか?   ≪音と意味の結びつき≫の観点から外来語の処遇は考えたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする