静 夜 思

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やはり 疑問だらけの「昭和天皇実録」編集だった!

2014-09-18 09:26:18 | 時評
今朝は、毎日の朝刊;編集作業に加わった記者の記事<記者の目「昭和天皇実録」公開=栗原俊雄(東京学芸部)>から。詳しくは次のURLで。            http://mainichi.jp/shimen/news/m20140918ddm005070007000c.htmlをご参照願いたい。
  昭和天皇実録の発表にあたり、一抹の懸念から私は9月13日「読むときは第3者でない宮内庁が編集したことを忘れずに読もう!」と題して投稿した。栗原記者が述べた経緯と疑問は、残念だが私が想像したとおりのものだった。同記者は宮内庁の執った姿勢に対する疑問を次の3つに集約している;<「正史の沈黙」に光を> <史料の採否にもにじむ恣意性> <解釈異なる事項、多面的に記さず>である。 

 詳しい事例は上に示したURLで検証いただきたいが、かいつまんで言うと、従来から公表されている侍従官のメモ・独白録などの史料には天皇や会話を交わした当事者の肉声が採録されているのに、今回は採用せずに抽象的な文言に丸めてしまったものが多い、というのが第1点。2点目は、さりながら発言内容によっては1点目に述べた史料からも採用しているものがあることで、即ち恣意的な採用と判定せざるを得ないこと、そして3点目は歴史上のいきさつで今となっては複数の解釈もあり得る事項において、研究者の間で今も見解の確立していないのに複数の観方があったこと自体に言及しない姿勢である。例えば米英への宣戦布告に関し<当時の政府は、いくつかある選択肢から、あの時点での対米開戦を選んだ。実録は、あり得た別の選択肢をも示すべきだった。でなければ「最後通牒」という正史に記された認識が、50年後、100年後まで、それこそ「独り歩き」してしまうのではないか>。  そう、この「独り歩き」とは、宮内庁自身が侍従官メモやその他の史料を採用しない際の口実であったのだ。

 幸いというべきであろう、こうして編集作業の現場に携わった証人の記述が公になったので、我々は≪ 国家が編む歴史書とはどういうものか ≫の生きた例証を手にすることになった。古事記制作の昔に遡るまでもなく、やはりな、という哀しい感懐を奇しくも目の当たりにしたわけである。
   <研究者や記者の中には「元々、昭和天皇を顕彰するための実録。限界があるのは当然」とみるむきもある。だが、「正史」の沈黙を破り、書かれていないことを浮かび上がらせる。それもまたアカデミズム、ジャーナリズムが果たすべき役割だと、私は思う>。 
    歪んだ国家意思に接したにもかかわらず、めげずに<アカデミズム、ジャーナリズムが果たすべき役割>を口にする栗原記者に私は敬意を表したい。
コメント
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