静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

米国流経営と寄付文化    < 石門心学 vs プロテスタントの勤労倫理 個人の報酬 >

2014-09-20 12:23:37 | 書評
 毎日・朝刊のコラム<経済観測>、今朝の担当はベトナム簿記普及推進協議会理事長・大武健一郎氏。 同氏が掲題で触れた領域に関し興味深い記事を寄せている。
 <米国の著名な宗教社会学者で、ハーバード大などで教授を務めたロバート・ベラー氏が昨年7月、亡くなった。彼は、江戸時代の思想家、石田梅岩を開祖とする「石門心学」を研究したことでも知られ、倹約の奨励や富の蓄積を「天命の実現」と位置づけた心学を「日本人の商業倫理に関する精神的支柱を築いた」と高く評価。明治以降の日本が産業革命を成功させ、経済発展を成し遂げたのも、精神的支柱の存在が大きいと分析した>とベラー氏を紹介。
  
  この見解をもとに大武氏は<梅岩の「実の商人は取引相手方も成り立ち、自分も成り立つことを考えるものだ」との考えは、近江商人の「三方よし」と並ぶ日本の経済倫理の礎になった。この精神を大事にする経営者は、自らや株主の短期的利益の最大化より、「ビジネスの持続的発展」を重視する。役員報酬や株主配当を抑える代わりに、地域社会への貢献など、公共的視点に配慮した経営を目標に掲げる企業が日本に多いのはこのためではないか。( ← 雇用確保が第一であり解雇にも慎重、長期間の人材育成が前提の雇用制度がこれらを裏付ける内部慣習として確立してきた。これも形を変えた地域貢献と見做されてきた。)
  それに対して、米国企業は、経営者や株主利益の最大化を追求することが多い。地域社会への貢献が二の次になる代わり、最大の利益を手にした人たちが、そのお金をもとに寄付や社会貢献活動を行ってきた。寄付文化が欧米で盛んな一方、日本で根付いていないのはこのためだと思う>と地域還元の一形態としての寄付文化に観られる差異に言及している。そして、<今や日本でも上場企業を中心に米国型経営への志向が強まり、役員への巨額報酬や株主還元のための増配というニュースも多くなっている。都市と地方の格差や貧富の差が拡大する中、富める人々にはお金のもらい方だけでなく、寄付の仕方も米国流を身につけることが求められている>と結ぶ。
 
  然し、注意が必要なのは、欧米の寄付活動は○○財団を通していても、教会との結びつきが物心両面で基盤になっていることだ。つまり、かのウエーヴァ―が指摘したプロテスタンティズムの基本的労働倫理観と勤労報酬・蓄財の肯定では、富の個人への集中も悪ではない。寄付が教会を通じて行われるのはGodを通した感謝表明のような行為であるからこそ顕彰され、且つ、いわゆる21世紀の今でもアメリカンドリームが尊重される基礎がここにある。 まさに、キリスト教徒でない日本人には最も理解至難な点だろう。
  従い、我々には過度に映る役員報酬や株主還元の優先と地域還元・寄付は、欧米の人達にとり<自己の貧富を問わず>同じ価値観の土俵で論じられるべき事柄ではないのだ。慈善や富の再分配の観点だけでこれを論じれば、彼らには共産主義イデーに聞こえているかもしれないのだ。・・・・どうか、くれぐれも誤解は避けていただきたい。
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弱さ感じる?日本人 ;   < 日本は極東のイスラエルになるべきか? >

2014-09-20 09:47:49 | 時評
今朝の毎日、専門編集委員;布施 弘氏のコラム「地球儀」から。 書き起こしは<イスラエルから来日したシャウル・シンゲルさん(53)はこう語る。シンゲルさんは米国の国務省や連邦議会で働き、1994年にイスラエルに移住した。同国をめぐる技術革新や起業に関する著作で知られるが、軍事にも詳しい。弟は87年、レバノンの前線で戦死している>。
   そのシンゲルさんが語るには、<「イスラエルとハマス(ガザを実効支配するイスラム組織)の戦いは、世界で起きている民主主義陣営とイスラム過激派の戦いの一部。戦いの相手はイラクの『イスラム国』やレバノンのヒズボラ(神の党)、ハマスなどの過激派、それにイランも入る。民主主義を信じない彼らが私たちに勝てるとは思いません」>
  この言葉には<山ほど注釈が必要だろう。そもそもハマスと「イスラム国」を同列に論じるのは無理だし、180万住民が封鎖下にあるガザは「世界最大の刑務所」と呼ばれて久しい。そんなガザへの武力攻撃を「国家によるテロ」と非難する国もあり、イスラエルの軍事行動を民主主義の国々が支持しているとはいえない。だが、ここで注目したいのは安全に関するイスラエルの感覚だ>と布施氏は云う。

 <ユダヤ人がつくったイスラエルは脅威に敏感な国だが、他国への「防衛的先制攻撃」など過剰な武力使用も批判されてきた。私がこの国に留学した90年代半ば、右派系の学者に「愛される国になるべきでは?」と言うと、彼はこう答えた。「アラブ諸国の敵意に囲まれたこの国の生存には抑止力が必要だ。なんて嫌なやつだ、乱暴なやつだと思われてもいい。相手が手を出してこなければ、それが抑止力だ」>。  この考え方は、安倍首相始め自衛力強化と集団的自衛への参加を推進したい人々が抱く感覚と同じだろう。
 <ヘブライ大のベン・アミー・シロニー名誉教授はそんな母国と日本を比べる。戦後の日本人は軍国主義への反省から軍事力を離れ、ユダヤ人は逆に、自分たちの弱さがホロコースト(大虐殺)を招いたと見て強国の建設に努めた。そして今の日本は中国や北朝鮮の脅威を前に自らの弱さを感じているかもしれない>。 シロニー教授の類推は当たっている。

  <国の安全には敏感でありたい。が、抑止力や強さを求めて日本が昔に戻るのは論外だし「嫌なやつ」になってもいけない>と布施氏は結ぶが、私は迷う。
 若し日本が核武装して少数兵力ながら極東のイスラエル的存在になればロシアを含め侮られることは減り、侵略の脅威も各段に薄れるだろうが、日本人はそこで踏みとどまれるであろうか? 対米依存が劇的に下がることで、民族自立と自尊心の回復は確かに大きいだろう。 然し、これが曲者だ。 
  じっと耐え、ハリネズミのまま、よこしまな示威行動も先制攻撃もせず、専守防衛に徹しきれるだろうか、という我が国民性への疑念が私にあるためだ。  情緒に溺れるお調子者が多く、付和雷同しやすい民族性は現代史の中に数えきれないほど証拠がある。・・・・頼っているアメリカの経済力と軍事的優位が下がるなか、じゃ、どうしたら良いのか? まだ、わからない。
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