静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

米国の若者に「原爆投下」をどう伝えるか

2014-09-09 17:28:03 | 時評
 <爆心地に近いある小学校を舞台に荒廃から立ち上がろうとする子供や先生たちの物語「ランニング・ウイズ・コスモス・フラワーズ--ザ・チルドレン・オブ・ヒロシマ」(重藤マナーレ静美、リチャード・マーシャル著、米ペリカン出版社)が8月末に出版された。原爆投下後の広島の惨状は日本では語り継がれ、太平洋戦争の教訓と戦後平和主義の原点として教えられているが、「米国では知られていない」のが実情。共著のマーシャル氏は米国務省や国際開発庁(USAID)に勤務し、スピーチライターなどの仕事に携わった「広報のプロ」だ。そのマーシャル氏にとっても、細心の注意が必要だった>。
                                              
  <旧日本軍によるハワイ州の真珠湾への奇襲で開戦し、米軍の広島・長崎への原爆投下で終結した太平洋戦争。戦争ではどちらもが被害者だった--。マーシャル氏や米国からみれば「広島」だけが被害者というのはアンフェアに映る。「だれの責任かは極めて軍事的な問題。(編集方針として)中立の立場を貫いた」><「被爆した人たちは、世界戦争の中で最も強く被害を受けた」というくだりは、英語版「コスモス」にはない。米国にとっては戦争を始めたのは日本であり、米国向けに日本だけが被害者と受け取れる表現を極力避ける配慮をしたようだ>。
 <米国では「戦争を継続すれば米兵100万人規模の犠牲が出た」と主張したトルーマン大統領の言葉が広く信じられ、原爆投下は、「本土上陸作戦を回避し、日米両国の犠牲をこれ以上生まず、悲惨な戦争を終結させるための手段だった」というのが通説だ。マーシャル氏も、「米国にとっては『正義の戦い』だった」と言う>。
 テネシー州東部に住んでいた90年代初め、次男が小学校の社会見学で広島に投下された原爆を製造したオークリッジの記念館へ行くことがあった。担任の教師は事前に「参加しなくてもいいですよ」と声をかけてくれたが、一晩考えたつらい時間を経て、行かせたことを鮮明に思い出す。周りのアメリカ人の子供たちは上記の戦争観/原爆使用の正当性を教えられるわけだ、と知りつつ。 

 さて、日米両国民が抱く加害者/被害者意識の溝は、上に挙げた如く永遠に埋まらない。国家として太平洋戦争の責任を論じ突き詰めるとき、日露戦争後の満州進出に日本帝国主義の発端を求める立場では恐らく両国ともに一致する。一方、そのアメリカとて、19世紀から20世紀前半の世界を支配した植民地獲得競争の一員であったという点で帝国主義国家だったのは同じであり、遅れてきた帝国主義国家:日本を責める資格など誰にもない、日本を巧みに追い込んだのはトルーマンではないか!という擁護論も未だに残る。国粋的言動で天皇制や国体観念を支持し、靖国の国家護持を賛同する勢力にこの立場がみられるのは周知のとおり。これまた、それこそ永遠に相いれない歴史認識の溝であり、現実は戦勝側の理屈が国連の場でも勝ったままだ。結果がすべて。それが今日の世界なのだ。・・・・そして、たぶん今後も。
 
  重要なのは、被害者/加害者を言い募るのではなく、戦争発動責任がどちらにあるかを争うのでもなく、原爆投下の必要性有無を人種差別に絡めて論難することではない。また、殺戮効果が極端に高いがゆえ原爆が「悪」なのではない。武器は武器であり、刀と鉄砲のどちらが残酷かと言い合う愚かさに等しい。たったひとつ云うべきは「不戦」こそが人類共通の目標であり、そのシンボルとしてのみ今も将来も原爆は象徴的効果を有し、振り返られるべき存在だという教育ではないだろうか? 
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北海道の旅  < # 4>    道西 ;  旭川~札幌

2014-09-09 13:47:08 | 旅行
 道東を満喫の後、釧路駅前から夜行バスで札幌駅へ発つ。座席の幅と長さが足りず、リクライニングを目いっぱい倒しても完全に身体を伸ばしきれないので眠れるか心配だったが、疲れが勝ったのか(深さは別にして)何とか睡眠はとれたようだ。・・・ああ、空気枕を持参すべきだったと教訓に。
  6時前に着いたのだが、6時半を過ぎた頃から札幌駅は通勤・通学の人出が多く行き交い、東京や大阪と何ら変わりない大都会だ。平日だが旭川行きの特急はひょっとして混むのでは?の予感から指定席を買っておいてよかった。観光客と仕事で利用する客が半々くらい。同じ車両に服装から観光客には見えない中国人親子が乗っているので「おや、羅臼でも納沙布岬でも中国人観光客は見かけたが、どこにでも居るんだな」と少々驚いた。然も若い夫婦は乳母車に寝かせた乳児を連れている。その乳母車が通路を塞ぐ格好なので、通り過ぎる客や車内販売の女性はチラと視線を飛ばす。若夫婦、申し訳なさそうには一応みえるが、言葉の壁もあってか、日本人っぽい会釈や応答にはならない。

 岩見沢を出た辺りから人家が減るが、牧草地や開放感の少なさは道東の根釧原野と比較にならない。山がいつも視界に入る狭さだ。美唄(びばい)に停車。遥か中学生の頃、石炭から石油へのエネルギー国策転換で閉山され大量の炭鉱離職世帯が北海道と九州から東京・大阪を中心に移住した。私が居た中学にも美唄炭鉱を離職した家族から転校生が来た。方言の違い・仕草の異なりから制裁と称した喧嘩やいじめが頻繁にあった。転校生の多くが高校進学と併せ姿を消したのは、今も苦い想い出である。

 旭川駅に降り立つと、駅前の風景が全国どこにでもあるのと似ているのに「ああ、やはり」と落胆。バスで旭山動物園へ。予想したよりも敷地は狭いうえ、動物の種類も多くはない。上野や多摩動物園などと比べれば決して立派とはいえず、垢抜けてないのだが、展示のひとつひとつに従業員手書きの説明標識が丁寧に添えられ、温かみを感じさせる。自然環境保護と動物の減少回避を訴える内容が胸を打つ。これが人気の秘密かもしれないと頷く。平日ながら客は多い。そして、何と特急の車中で見かけた中国人親子が居るではないか。グループツアーでないことは確かなので、在住者かもしれない。観光バスが続々と乗りつけツアー客の一団を吐き出す。殆どは中国語を話している。
 小樽への帰路、牧草地ではなく麦畑が多いのに気が付いた。改めて窓外を見渡すと山に囲まれた盆地であるのがわかり、ああ、これじゃ冬の寒さが厳しくて最低気温のレコードを出すのも当然かな、と思った。

 翌日、小樽から札幌に出た。旧北海道庁と北大植物園を覗いたあと、せっかく来たのだからと円山(まるやま)動物園に足を運ぶ。旭山と比較してみたいというのもあった。円山は敷地が広く、動物の種類が多いうえ展示レイアウトもゆったり取られている。だが、建物や通路・植木から受ける印象は旭山と余り差がなく、雑然としている。加えて、展示スペース毎に備えられた説明標識は旭山ほど整理されず、ぬくもり感もないのが気になった。聞けば、日本は人口当たりの動物園施設密度が世界有数だそうで、ビジネスとしても並大抵ではなかろう。人間世界同様、動物の高齢化が深刻な悩みとなり、繁殖のための努力は涙ぐましいようだ。
  動物園なら客の殆どが子供連れとアベックだが、興味深いことに、どの動物園にも私の年輩の男が必ず歩いている。一人の場合も少なくない。顔を観察すると、楽しそうであり、もの悲しそうでもある。何故あんな表情になるのか? 私だってああいう顔に見えているのだろうな・・・と思うと複雑だが、でも動物園は妙に好きだ。特に好む動物を観たくて来ているわけではないが、不思議な魅力に惹き寄せられる。
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北海道の旅  < # 3>    道東 ;  釧路湿原   塘路湖

2014-09-09 10:17:54 | 旅行
 羅臼を早朝に出るバスで釧路に戻った同じ朝、湿原観光列車<のろっこ号>に乗る。ここにも中国人団体客が30名ばかり。日本へ観光に来られるのは人口過密な沿岸部の裕福な階層だろうから、人口まばらな道東は風物すべてが新鮮かもしれない。いつもは賑やかな筈の彼らが言葉を余り発せず景色にみとれ、シャッターを切りまくるのが意外なほどだ。釧路川の蛇行が垣間見え、人工物が何も無い光景。湿原から飛び立つ丹頂鶴が見えたのは幸運だった。慌ててカメラを向けたが、残念、うまく撮影できなかった!

 塘路駅に着き、乾いた陽光のなか、塘路湖へ。同じ列車に居た人々は何処へ行ったのか、湖畔を訪ねたのは私ひとり。水辺にはつきものの縄文人遺跡、アイヌ住居跡がある。洋風の建物があるので近寄ると<標茶郷土館>とある。明治の初期、中標津にあった旧釧路集治監と呼ばれた監獄の管理棟を移築したといい、中には開拓当時の様々な道具類が展示されている。この建物に限らず、開拓が主にアメリカからのお雇い外国人主導だったせいか、とりわけ道東には西洋風のデザインが今でも残っている印象を受けた。
 湖畔は実に静かで穏やかである。心地よい風が吹き抜けるのを楽しんでいると、湖の対岸からドーンと大きな音。そして、かすかに機関銃の発射音も聞こえた。ああ、これが駅に貼り紙のあった<陸自/米国海兵隊・合同射撃演習>なのだな、と合点がゆく。そう、ここ北海道は今も北の守りが身近に感じられる場所。知床や根室で見かけたレーダー施設のみならず、広大な森林のあちこちに実弾演習場の看板を見る。

 この辺りはちょいの間に駆け足な急ぎ旅でなく、ゆったりした日程をもち、涼しい今頃から初秋あたり、歩き回れる装備で来れば更に楽しいところだろうな、と後ろ髪を引かれる思いで帰路に就いた。
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