静 夜 思

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スコットランドの住民投票に思うこと  < 我々の国家概念のあいまいさ >

2014-09-21 09:56:35 | 時評
 住民投票は独立支持派が敗れる結果に終わり、その住民意思が今後の「英国」政局に与える影響などにを中心に各国の報道が賑わっている。この国際的な波紋を考えると、武力によることなく、16歳まで投票年齢を広げた投票の結果が尊重される西欧伝統の民主的決着であったことが独立・分派運動を抱える国々に与えるかもしれない潜在的な影響も注目したいところだ。(例えば、中国では今回の住民投票の顛末がどう国内報道されたのか・・・。)だが、今回の住民投票を日本国に引きつけて考えたとき、私は改めて英国という呼び方が日本人に長年与えてきた国家認識の曖昧さについて思った。

 我々は、幕末・明治以来「イギリス/英国」の一語で呼び慣わしてきたあの「国」が、約300年以上前から4つの王国の連合体であるのに「イギリス/英国」という日本以外では中国が共用するだけの名称で<単一国家>とみなしてきた。もうひとつの大英帝国という呼び方には王国であるイメージは含まれているが、王国の連合体である事実は匂わない。これを深読みすれば、同じ立憲君主制を採用してきた日本には複数の王朝が並立しない歴史があり、且つ並立自体を認めたくない意思、そして日本は単一民族から構成されるクニだとの主張に適合させるうえでも<連合>王国概念は表したくない、という国家意思がここにはあった、と私は思う。United Kingdom とはいっても中世・近世の王政国家ではなく、政治形態としては連邦国家と呼ぶのが相応しい統治形態なのだが、日本は歴史上、連邦国家に近かったのは徳川幕藩体制の250年だけで、あとは現在も含め全て中央集権国家でやってきたので、クニが連合あるいは連邦であることの実感が湧かない。想像力が及ばないし、正確に呼ぼうという気持ちさえ起きないというべきだろうか。

 ここで私が喚起したいのは、現在の日本国を構成する諸島を古墳時代から振り返ってみたとき、江戸期の琉球列島、幕末以降の北海道島は、九州/四国/本州の3つの島を支配した統一勢力が版図に併合していった異文化・異言語の領域であったという事実である。奈良・平安時代に現在の東北地方へ大和朝廷の軍隊が入り勢力圏に収めたことまで含めるならば、東北地方の編入もこの動きの一環であった。要は、歴史として記録が残る期間をとってみても、日本国は決して単一民族・単一文化で成る国家ではなかった、その自分の生い立ちを忘れた振りをしてはいけないのである。

 忘れた振り、または無視することが我々の<自国を含めた>国家認識を曖昧にさせてきたと思う。特に明治維新以降、植民地主義列強に対抗するためやむを得なかったとはいえ、恰も大昔から単一民族/文化でやってきたクニというストーリーが今日まで通用してきたので、国民の多くは「英国」に限らず、他の国についてもこの様な視点から眺めることをしない。 こういう曖昧さを温存したままの国家認識が、国民の政治意識全般,或は国際情勢認識をも不正確なものにしている危険は既にあると思われる。例えば、地方自治/分権が住民の側から盛り上がらず、霞が関支配で国家統治が続く弊害を上に述べた曖昧さの見地から考え直したら、どうなるか? 具体的には、例えば地方の利権癒着と選挙制度改革、民意の反映とは?などなどである。更に厳しく突き詰めるなら、昨今の地方議会/議員を巡る数々の矛盾/愚行なども、一人ひとりが個人として自立していない住民の統治意識が自ら招いた自業自得、と言えるだろう。
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