静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

道東の味  < # 1 >    知床: 羅臼獣肉トリオ & 知床ラーメン

2014-09-08 13:20:23 | 旅行
 羅臼へ出かけるにあたりネット上を泳いだ際、羅臼町観光協会?ホームページのどこかで「トド肉を出す店もある」という記述があった記憶を頼りに、羅臼で泊まった宿の主人に到着早々、早速聞いてみた。ところが・・「さあ、確かに前はそういう店もありましたがね・・・。あれはどうも・・」と顔をしかめ、ツレナイ。主人の個人的嗜好なのか、イルカ含め鯨類を嘗ては飽食した土地柄ゆえ珍しさなど無いということか。   (ちなみに、この主人とは、知床ヴィジターセンターへ軽トラで親切にも送ってくれた人である)
 私は「トド肉を味わうチャンスはもうないのですか・・」と意気消沈。「いや、缶詰なら道の駅で置いてますよ」というので行ってみると、熊・トド・エゾ鹿;3種の缶詰が写真みたく陳列台に並んでいる。 値段はいささか高いが、せっかくの機会だからと買い求めた。
                    
 羅臼の道の駅を訪れた方の中には見かけた人もいらっしゃるかもしれない。(後日、札幌駅のみやげもの店でトド缶とエゾ鹿缶は同じものを見かけたが、熊肉缶は無かった)。もう35年以上も前、当時は隆盛を極めた社員旅行で幹事の私が選んだ加賀の某温泉宿で頼んだ<山海の珍味鍋>なるコースに熊肉があり、食した記憶がある。その記憶を辿ると、肉は赤黒っぽく、熱をくぐると縮まってしまった。然も、残念ながら旨い!という覚えはない。さりながら、その記憶は忘却の彼方に飛び去り、果たして正しいのかどうか、自信はない。
  で、羅臼滞在中の某日、買い込んできた他の食品・つまみと共に一杯やる肴に、宿の部屋で熊ちゃんを食べてみた。色は薄めのレンガ色。歯ざわりは柔らかいが、味の特徴がこれといって感じられない。ふむむ・・・こんな感じじゃなかったのでは??・・・と煮え切らない感想で幕引きと相成った。鹿肉はなじみ深いので、帰京後はトドのカレー煮を楽しむことにしよう、と気を取り直した次第。  そこで本日、野菜(セルリ・人参・ピーマン)とカレー粉・五香粉・赤唐辛子を加えて煮込み、お昼に頂いた。予想通り、肉質・味どちらも鯨そっくりで、私には美味しかった。たぶん、イルカも同じような味なんだろうな、と想像する。

 さて、同じ道の駅内にある食堂で<知床ラーメン>を注文した。右の写真がそれであるが、麺は昆布を練りこんであるそうで明るい緑色。昆布入りの麺は初めて食べたが、香りの良さが気に入った。スープは羅臼だけに昆布だしを期待したものの、殆どわからず。私が鈍感なだけかもと思い直すが、チト塩辛いので飲み干さない。具は、浅利むき身が数片、ホタテが貝殻に乗ったまま2個。甘海老が5尾ほど。蟹の足、長いのと根元の太いのが各1本。これは食べ甲斐のあるヴォリュームでした。そしてモズクのような緑の深い海藻。磯の風味に満ち、油濃さが一切ない素朴さで私は満足した。600円という値付けが妥当なのか、私は外でラーメンを食べることが無いためわからないが、満足できればそれで好いのだ・・・と納得。     ≪ つづく ≫
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北海道の旅  < # 2>   道東 ;  根室 納沙布岬

2014-09-08 10:33:16 | 旅行
 羅臼から釧路に戻った翌朝、JRで根室へ。明るい空のもと3両の列車は東へひた走る。釧路にほど近い別保(べっぽ)駅を出てすぐ、トンネル前でもないのに突然けたたましい汽笛が鳴ったので窓外を見れば、何とメスのエゾ鹿が線路わきに立っていた。  列車の前を横切ったのだろうか・・。
 大振りの牡蠣で名高い厚岸(あっけし)湾に差し掛かる前から霧が覆いはじめた。厚岸湾はベタなぎ。同湾に続き東に連なる汽水湖の湿原には海鵜とシラサギが群れ集う。黒と白のコントラストが目を奪う。厚岸までは森林の中を走り抜けたが、厚岸湾を離れるや景色は一変し、真っ平らな草原になる。360度見渡せど山影は一切なく、羅臼との往復で目にしたのとよく似た草原/牧草地が続いた。途中の小さな無人駅に近づけば人家はチラホラあるが、駅を出ると再び無人の原野だ。
     
 根室に降り立ち"予想以上に開けているな"との印象を受けた。が、市街規模としては釧路の4分の1くらいか。根室駅で納沙布岬行のバスに乗る。観光客とおぼしき人が私を含め10名ほどと地元の人が4名。岬まで23.5Km, およそ45分。途中の家並みが釧路と比べ何となく豊かさに欠ける印象だ。廃屋、廃校があちらこちらに見える。途中の停留所に「歯舞診療所前」というのがあり、ああ、歯舞という地名は占領されている島だけの名ではなく、昔からこの地方の村名だったのだ、と改めて気づかされる。根室半島は車窓から見た以上に真っ平ら。人家もまばら、だだっ広い空と海に包まれる半島部の先端に灯台と一群の建物が見えてきた。
 
 北方4島返還を訴える碑柱と、寛政期(西暦19世紀前後)のアイヌ人蜂起でなくなった和人の慰霊碑が根室海峡に向かい並び立つ。奇妙なことに、その傍に4島ではなく「樺太/全千島の奪還」と書かれた木碑まで立っている。台座に目を凝らすと明らかに愛国/右翼団体の名称が刻まれている。樺太は無論、全千島も帝政ロシアとの間で戦争の結果ではなく平和裏に交換された領土ゆえ、こういう右翼の主張はナンセンスだ。  が、これを許すのも<自由>のひとつか。
 おりしも彼方に白い巡視船の航行が見えた。ロシア側なのか、海上保安庁の船なのかは不詳。北方館と名付けられた建物の2階に上がると望遠鏡が数台置かれてあり、レンズの上には映る筈の島名やロシア警備隊監視塔などが描かれた板が貼ってある。覗いてみると、国後島の西南端部が左に、水晶島は真正面にあり、同島の右には監視塔がクッキリ見えた。向こうも同じように納沙布岬や根室海峡沿岸を遠望しているのだろう。
 
 羅臼で3日間、朝な夕な国後島を眺める際の複雑な気持ちが甦った。カムチャツカから攻め降りてきたソ連軍が一旦は千島守備隊との停戦協定締結後ウルップ島で引き帰しかけたのに、4島に米軍が未着なのを知るや上陸占拠した経緯がある。当時の歯舞町長は東京へ出向きマッカーサー元帥に陳情したそうだが、聞き入れられなかったという。それがソ連/ロシアに「第2次大戦の結果だ」と言わしめる根拠にされたのか、と推察。ハンガリー動乱、プラハの春を持ち出すまでもなく、ロシアはこれらの経緯を認め謝罪するマインドの持ち主ではない。恐らく、今後の領土返還交渉においてもこうした国際法違反が議論に上ること自体が期待できまい。 ・・・民族を問わず、戦勝というのはそういうことなのだ。
   根室はそうした占拠後の昭和22~23年にかけ、銃口のもと強制的に根室へ退去させられた元島民が今も残る土地だ。羅臼とは記憶も恨みも違う。その恨みに満ちた雰囲気を感じないわけにはゆかない。その雰囲気は本州以南に伝わっているか? 交渉の落としどころの一つとして<面積2分方式>を考えるのもテクニックではないかと思っている私だが、この地で感じたものを踏まえると4島一括返還の正義を感情としては無視し難く、悩ましい。   帰途、暮れなずむ夕焼けが、千路に乱れた私の心模様を雄弁に語っていた。
                          
                  
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