静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

スキッパーと指揮官はこれだけ違う  プロ野球監督にみる   もうひとつの比較< 組織論/リーダー論 >

2014-09-23 16:18:53 | 書評
 MLB中継放送が毎日可能になるほど大リーグに渡り活躍を見せてくれる日本人選手が多くなったなか、貴重な異文化体験を整理して自らの言葉で語れる人は多くない。来日選手側が残した読み物も含め、この手の話題は腐るほど発表されている。野球好きの方ならなおのこと、これまでも目にされただろう。が、私がここで紹介したくなったのは田口壮さんが寄せた記事だ。  http://www.nikkei.com/article/DGXMZO77343380Q4A920C1000000/
  用兵術や試合前の準備のしかた、試合中の采配の振り方などにおける日米の違いを述べた前段は野球ファンならもちろん面白いが、私には田口さんが後半で触れる<選手と監督の関係>の部分が示唆に富み、とても面白い。まず、田口氏は公式な呼び名である<Manager>ではなく選手が監督を呼ぶのは<Skipper>だということから説き起こす。   <Skipper>とは氏がいうように「船長」の俗語なのだが、日本語の<船頭さん>のニュアンスが近いという。
   私はここでハタと膝を打った。というのは私の長男が某州の公立高校のクラブ活動でサッカー部に属したのだが、某日午後、私が練習を覗くと驚いたことに、生徒たちは指導する人を<Coach =コーチ>と呼んでいたからだ。<Teacher>でも<Manager>でもない。他にコーチや監督にあたる人が居るのかと見回したが居ないので帰宅後「あのコーチと呼ばれてた人はコーチで、監督じゃないんだね?」と聞いたら「いや、父さん、あの人は日本でいう監督なんだよ」と息子の弁。  私は何となく腑に落ちないままだったが、アマチュアではなく生活のかかったプロ野球でさえ、ボスのイメージが匂う<監督=Manager><指揮官=Commander>ではなく<船頭さん>と呼ばせる米国社会の人間関係が意味するものを広く考えると、様々なことに行きつく。

  <「監督、ちょっといいですか。野球のことを勉強したいのでお尋ねします。今日はなぜあそこであの選手を代打に起用したのですか? 僕だったら別の選手を起用したと思うのですが」間髪を入れず、ラルーサ監督は理路整然と起用法について説明してくれます。成り行き任せでなく、あらゆる可能性を踏まえて選手を起用していますから、どこからでもかかってきなさい、と余裕しゃくしゃくです。もちろん私も私なりの理論武装をして、質問をします。ただの雑談をしているほど、監督もヒマではありませんから、ここは真剣に意見を戦わすわけです。あれはとてもいい勉強になりました>。と田口さんは使ってくれとの売り込み半分に監督室に行った想い出を披露し、≪選手と監督の議論、日本で成り立つか?≫と大事なポイントを提示。 実に「組織論/リーダー論」の核心ですね?
   <いちいち選手の声に耳を貸さなくてはならないメジャーの監督も大変ですが、野球に限らず、米国では個人がそれぞれ意見を持って、立場にかかわらず主張するのは当たり前のことなのですね。監督としては選手とのコミュニケーションも重要な仕事で、それも給料のうちといったところでしょう。スキッパーと指揮官の違い、おわかりいただけたでしょうか>と田口さんが結ぶ。その違いとは、日米間の<組織における指揮命令と並立する対等な個人同士の人間関係の在り方>の違いである。
 
  如何なる組織であれ指揮命令する立場は必要であり、その任に就く人物の器量が問われるのは普遍的なことだが、アメリカは、たとえ「役割としての責任者」でも、職場内外を問わず、常に一人の対等な人間だととの認識を維持する仕組みの社会だからこそ、セクハラ規制、男女賃金差別の撤廃、女性管理職拡大も最大化できるのだ。ここに日本社会が学ぶものがある、と私は思う。 ・・・・だが、この人間関係原則が国民多数意見として承服できないなら、男女平等も女性の社会進出拡大も日本では難しいだろう。
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昭和天皇への報告にみる  <我れらが民族的弱点>

2014-09-23 08:59:36 | 時評
 今朝の毎日コラム「火論」から  ;http://mainichi.jp/shimen/news/20140923ddm003070152000c.html
 <前回に続き「昭和天皇実録」。1945年6月12日(敗戦のほぼ2カ月前)の項に<表拝謁ノ間において海軍戦力査閲使長谷川清大将に謁を賜い、第一回・第二回の戦力査閲に関する復命を受けられる>とある。天皇の命で戦備を実地に踏査した海軍大将の報告である。実録は内容に触れないが、長谷川は、到底本土決戦に耐える備えではないことを率直に奏上したといわれる。長谷川は若き日に日本海海戦にも参加した海軍の重鎮で、台湾総督を経てこの時は軍事参議官だった。実録の短い記述は多くのことを示唆する。それまで真に実情を反映した情報が届かず、政府さえ正確な情報を持たなかったのではないか>。 ここからコラム子は次のように論を進める。

 <手順を踏んで上がってくる情報ではなく、歩いて目でじかに見た62歳の将軍の報告が現実を伝えた。長谷川の報告から2日後の14日、天皇は体調を崩し床に就く。そして22日、政府、軍トップら最高戦争指導会議のメンバーを集め、「戦争完遂」にとらわれず時局収拾実現にも努めよ、と求めた。しかし事態は進まない。ソ連の仲介という空疎な願望に混乱もしたが、政府や軍も戦争終結に向けてほとんどなすすべもないまま、状況はずるずると悪化する。・・・・これは何だったのか。今日に通じる「決められない」組織的病理を見いだせないか。「戦後70年」を前にしてなお解ききれぬ課題である>。  コラム子は更に井上やすし脚本の演劇「長谷川清」を挙げ、<「わたしは、……わたし自身も含めた、戦争の指導者たちの決断力のなさによって生を断ち切られたひとたちの、名代に選ばれたような気がします」>と主人公に云わせるセリフを添えている。

 私は、ここで<決められない組織的病理>と形容される弱点が、間違っても最近まで続いた<ねじれ国会>のことだとか、或は議会制民主主義固有のもどかしさ論議と誤解、若しくはすり替えぬよう、まず釘を刺しておきたい。結果的現象として現れる<決められない組織的病理>の背景は、単純な「国民性」や「縦割り組織構造論」で片づけてはならない。  私見では、以下の諸要素の複合からもたらされる結果である。
  1) 想像力/予見力の無さから来る「構想力・戦略性の欠如」  2) 科学的/論理的解析結果を直視せず「○○魂」等の精神論に逃げた情動で「なせばなる」に酔う習慣
  3) 最も明澄であるべき軍隊組織でさえ、責任所在を追跡不能に導く曖昧さを「融通無碍の妙味」と称して温存する" 和の美学の称揚 "
  4) 本来は組織構造に発すべき「最高責任を自覚する潔さ」を、辛うじて個人の器で補ってきた武士道徳・矜恃教育の消滅

 これら4つの要素が互いに作用し合って負の側面を強めているのだ。平たく乱暴にまとめれば「情緒に溺れて論理を嫌い、先のことを考えたくない・考えない甘さ/淡白さ」がもたらす民族集団としての弱さである。この弱さは明治維新どころか、遥か大昔から変わっていない。このままでは、たぶん今後も・・・・。
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