静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

読書の秋 若者よ、本を開こう     < ながら族スタイルの読書でも 心に届くか? 心豊かになれるか? >

2014-09-15 10:08:31 | 時評
 毎日の15日社説から。<読書は知識を蓄え、感覚を磨き、考える力を養うだけでなく、視野を広げ、想像力を鍛える。「読書離れ」がいわれて久しいが、今こそ、書物の効用を見直し、特に若者が本に向かうように呼びかけたい>。  全く同感、異議なしだ。
    統計では図書館の館数も貸し出し書籍数も増えているというし、小中学校の平均読書量は微増を維持している。ところが問題なのは、高校生・大学生となるにつれ読書量が落ち込んでいることである。同社説では<高校や大学での読書指導も不十分なのではないか。この傾向が20代以降にもつながっていると思われる>と分析するが、そもそも高校生以降の年齢で読書指導が果たして有効かどうか、大いに疑問がある。さりながら諦めず、教師が指導するかどうかは別にして、若い年齢にある人間にとっての望ましい読書とはどういうことなのか、それは親なり周囲の先輩・上司なりが教えるしかないのではないだろうか。 

 語弊を承知でいうと、飽くまでも一般的傾向として(社説筆者が挙げる諸効用にならうと)本を読まない/読書を嫌う人が考え深いか? 視野が広く想像力も豊かか?  というと、必ずしも肯定できない場合が多い。そこへもってきて、世の中が技術進歩にあわせ忙しくなる一方なので、老いも若きも落ち着いて振り返ったり思慮を巡らす心の余裕を失いがちだ。忙しいことがデキル人間の証であり勲章でもあるかの風潮が蔓延して久しい。

 だからこそ、端末電子機器を持ち歩きながらの「ながら読書」ではなく、騒音の無い部屋で机に座り落ち着いた精神状態で紙の本を開き、ページをめくったり時には戻って言葉を噛み締めたりする時間が自分に何をもたらしてくれるか、本を伏せて暫し考えを反芻したりするひとときを味わって欲しい。それは味わったあとでしかわからないゆえ、その誘い水を身近な大人が与えることが大事だと思う。情報社会というフレーズが未来ヴィジョンではなく通信技術の進歩で具現して20年余り、知識の検索・収集と情報分析を得さえすれば半分は考えたつもりに錯覚してしまう現代であり、その陥穽に若い時ほど気づきにくいものだ。

   孫引きで恐縮だが、次の警句を掲げたい    ≪ 旅、読書、よき友人、人生を豊かにしてくれるのは、この3つだ ≫
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タタミゼの試練 ;    現代フランス語に「タタミゼ(tatamiser)」という言葉ができている?

2014-09-15 09:18:16 | 時評
 毎日の9月15日朝刊「風知草」から。  http://mainichi.jp/shimen/news/20140915ddm002070063000c.html
  イントロとして<日本語のニュースがアッという間に世界に広がる時代になった。それがどういうことなのか、明確な説明を避け、あいまいに笑って取り繕うだけではすまされない時代が来た>。<ことばの壁、文化の壁の内側に籠もった説明不足を改め、国益を見定めて誤解を放置せず、情報通信革命の新局面に対応していかなければならない。ただし、それは、単に出来事や状況を洗練された英語に翻訳できればよいという問題ではない。言われたら言い返せという問題でもない。反論は大事だが、世界が、日本、日本人、日本語、日本文化をどう見ているかを深く理解し、懐の深いコミュニケーションを探る必要があろう>。 
   これをマクラに展開するのだが、私は、海外での日本語学習人口が35年前の31倍に増えたという指摘よりは、日本語を学ぶ動機が<「日本語そのものへの興味」(62・2%)「日本語でのコミュニケーション」(55・5%)の順に多く、「マンガ・アニメ・J-POP等が好きだから」(54・0%)を上回っている>という国際交流基金の調査結果(2012年)にコラム子同様、強く驚いた。
 さらに興味深いことに、コラム子によれば< 西欧で最も日本語学習人口が多いのはフランスだ。現代フランス語に「タタミゼ(tatamiser)」という言葉がある。言語学者、元外交官、日本語の達者な在日フランス人に聞いてみたが、《日本かぶれする》《日本びいきになる》という意味で使うほか、《日本人のようになんでも「検討します」と言い、断定、確答を避けようとする》傾向をさすことばでもあるという>。 パスカルを始め、論理を貫徹したがることでは西洋人でも断トツのフランス人が、断定を避けることに魅力を感じているとは!  意外ではないですか?

 <日本人みたいにあいまいになって悪いか?・・・・これは、なかなか微妙な問題である。とかく明瞭さを好み、論争好きなフランス人の「タタミゼ」は自己否定とも見えるが、《日本語を使うことで自分が以前よりも優しく、礼儀正しくなったと感じる》フランス人もいるらしい。何かと譲り合い、「すみません」を連発し、会釈するのも「タタミゼ」効果ということになる。言語は話者の人格に作用する>とここまではいい。だが、<日本語に親しんで日本化する外国人はフランス人だけではない>は本当かしら?・・・・と思わず呻りました。
  <ある研究者が、こう言っている。「英語一辺倒のグローバリゼーションは危うい。非対決的な文化に根差す日本語こそ人類を平和共存へ導くカギだ」
宗教対立、地域紛争が激化する一方の世界を眺めれば傾聴に値する>とコラム子は云う。だが、論理明晰さを欠くことに文化的美点を誇る日本人のこだわりが政治に限らずビジネスでも弱さ/脆さの真因であることを痛感してきた私には、そう素直に無邪気に受け入れられない。  私はヒネクレ者だろうか?

 私は以下の指摘がこのコラムの最も重要な視点だと申し上げたい。<非対決的な文化を広めるためには、対決を恐れぬ覚悟が要る。とかく摩擦を嫌い、相手との同化を探る日本人の弱点を乗り越えねばならない。その勇気を欠いたためにこじれた政治問題は枚挙にいとまがない>。← この政治問題が西欧に限らないことに、ご注意! 
   ここでいう「対決を恐れぬ勇気」とは、情緒に逃げず、論理に即した言葉で闘うことを恐れない態度のことだ。それは、私が本稿で幾度も様々な話題ごとに繰り返し訴えてきたのでおわかりいただけると信じている。
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