ようやく、日記のような御天気記録のデ-タ入力が終わり、なにか面白い記事はないかと
思い探していましたら、写真の記事が出てきました。
記事の内容は、甲府勤番頭の切腹や、甲府代官や石和代官の御役御免、逼塞など衝撃的なものでありました。
同じ時購入した文書に、詳しい幕府の御裁許がありました。
中の、石和代官の御裁許内容を読んでみますと、
石和御代官 西村貞太郎
其方義、出府中支配所、甲州都留郡村々之もの共
並同国谷村陣屋元のもの共騒立候故、手附手代共え
申付其段申出出立いたし候節 如何様ニも差急
可相越候処、纔之道法を五日之日数ニ而右陣屋え着
致候段等閑之至り畢竟右躰之心得方故手附
手代共取鎮方不行届、国中騒動ニ為及候仕儀ニ
相成誠ニ右次第封書を以相尋候節石和陣屋え
夜通罷越候旨兼而届書乍差出置、右様之義ハ
不申越哉之心得ニ候様、其外彼是取繕候相違之
答書差出候段旁々以不埒之至ニ候、依之御役御免
小普請入、逼塞被仰付候
とあります。
おっと思いましたのは、通常の一揆ですと村役人層位までの処分が多いと思っていましたが、
この史料では、甲州支配のトップの面々が重科になっております。
幕府にとって如何に重大な事件だったかが分かります。
実は、私は天保騒動については、名前も分からない有りさまでした。
あまりの大物が掛ったので、入門書を取り寄せておりますが、、、
釣った魚に釣られる事もありますので、深入りする前に糸を切って身を守ろうかと思っています。
思い探していましたら、写真の記事が出てきました。
記事の内容は、甲府勤番頭の切腹や、甲府代官や石和代官の御役御免、逼塞など衝撃的なものでありました。
同じ時購入した文書に、詳しい幕府の御裁許がありました。
中の、石和代官の御裁許内容を読んでみますと、
石和御代官 西村貞太郎
其方義、出府中支配所、甲州都留郡村々之もの共
並同国谷村陣屋元のもの共騒立候故、手附手代共え
申付其段申出出立いたし候節 如何様ニも差急
可相越候処、纔之道法を五日之日数ニ而右陣屋え着
致候段等閑之至り畢竟右躰之心得方故手附
手代共取鎮方不行届、国中騒動ニ為及候仕儀ニ
相成誠ニ右次第封書を以相尋候節石和陣屋え
夜通罷越候旨兼而届書乍差出置、右様之義ハ
不申越哉之心得ニ候様、其外彼是取繕候相違之
答書差出候段旁々以不埒之至ニ候、依之御役御免
小普請入、逼塞被仰付候
とあります。
おっと思いましたのは、通常の一揆ですと村役人層位までの処分が多いと思っていましたが、
この史料では、甲州支配のトップの面々が重科になっております。
幕府にとって如何に重大な事件だったかが分かります。
実は、私は天保騒動については、名前も分からない有りさまでした。
あまりの大物が掛ったので、入門書を取り寄せておりますが、、、
釣った魚に釣られる事もありますので、深入りする前に糸を切って身を守ろうかと思っています。
地域を動かす運動にまで発展してるんですね。
大ホームランじゃないですか!
やはり出ましたか「天保騒動」。
ちなみに地元では「郡内一揆」と呼ぶことの方が多いです。
御存じかもしれませんが、山梨県は「笹子峠」を境に東西に分かれ、東京よりを「郡内」、甲府側を「国中」と呼びます。この郡内で起きたから郡内一揆。
ちなみに首謀者(?)とされる犬目村兵助は、国外に
逃げて逃げて、逃げながら「算盤・数学」を各地で教え、
日記も綴ったりするのです。(この日記が結構泣けます)
いずれにせよ実史料の一文はやはり貴重ですね。「腹きる」とかにべもない書き方ですが、同時代の人間の残した肉筆は重みがあります。眼福です。
郡内騒動につきまして、色々お教えを頂きありがとうございます。
犬目村兵助につきましては、確か深谷克己氏が、百姓一揆の首謀者、八右衛門、兵助、伴助について伝記的なものを書かれていたと思います。
あったはずだったのですが、探しても出てきません、これも地震の傷跡です。
コメント頂きました犬目村兵助の日記ですが、まだ読んだことがありません。ぜひ読んで見たいと思います。刊本になっている物があるようでしたら御教示ください。
実は、私百姓一揆が興味があります。慶応二年には隣組から一揆が起こり、動員五千とも三万とも言われる一揆に発展しました。
郡内一揆も少しづつ調べたいと思っています。
色々お教え下さい。
史料に対する真摯な態度に本当に頭が下がります。
私は本屋に溢れる資料で、雑学をかじって
良い気になっていた(今でも)人間なので
いろは丸様のような地道で真生な作業を端から
見させてもらうだけで勉強になります。
このブログを見るようになってから、古文書の勉強も
はじめました。
(ちなみに慶応二年の一揆とは武州一揆のことですか。)
慶応二年の一揆は仙台藩の三迫一揆です。
史料も少なく、あまり有名ではありませんが、首謀者とされる、与一の家は歩いて百歩ほどのところです。
一揆の目的は「与一渇命願」ですが、調書によれば、与一は家を出ず「渇命願」のことも知らないと答えています。
罪人を出さないための戦略だと思います。
史料を素直に読めないのが、一揆史料の面白いところかも知れません。
私も時間が取れるようになったら、古文書を勉強し直したいと思っております。
にまとめて、郡内騒動の記録、くどき、兵助の日記等が全文載っていた(ハズ)です。
早速、山梨日日新聞社出版部に注文しました。
ついでに、「河野家日記」という日記が
「山梨県史 資料編10 近世3 在方Ⅰ」にあることを知りまして、一緒に注文しました。
おかげさまです。