ようやく、斎藤月岑日記から、天気データの取り込みがおわり、
今度は、手元にある原文書(日記)
から、天気データを入力することにしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/46/4b/808ffdfa209a5eb8b364beeb94d966e4_s.jpg)
日記には、表紙がなく裏表紙にもなにも書いていません。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/sos.gif)
勿論、書いた人は自分が何処で書いたかは分かり切っているために、全く手掛かりが
ないことも間々あります。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0138.gif)
ところで、この日記には、土浦、水海道など茨城県の地名が出てきます。
また、日川村、福岡村、田村などの村名が出てきます。これを検索しますと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0a/3b/fc4ec90e116acc762847758f20f725f5_s.jpg)
となり、日記の書かれた場所は「つくばみらい市
」となります。
また、筆者は誰かと言うと巻頭に7人が、年頭の賀詞を書いていますが、
その筆頭の「飯泉保太郎」という人が第一候補だと思います。
曰く
皇家貴主好神仙 別業初開雲漢辺
山出尽如鳴鳳嶺 池成不譲欣龍川
とあります。上手いかどうかは分かりませんが、韻は踏んでおります。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0237.gif)
日記を読み進めて参りますと、「保太郎より村方え年頭罷出る」とか、
「保太郎樋沢二十三夜様え参詣」などとあり、日記の筆者は、飯泉保太郎氏の違いありません。
保太郎氏は店も持っており、土浦藩の特権商人だったような感じです。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0224.gif)
それでは、この日記は何時書かれたものでしょうか。
丑年に書かれたことは間違いありませんが、文化文政以降に町人日記
は飛躍的に増えますので、
慶応元年、嘉永六年、天保十二年あたりが、有力候補と言えるでしょう。
続いて、日記記述の月の大小をみますと、
1月大、2月小、3月大、4月大、5月小、6月大、7月小、8月大、9月小、10月大、11月小、12月大
となっていまして、嘉永六年と一致しています。
ただ、気懸りなのは、嘉永六年の日記にも関わらずペリー来航
の記事がひとつもなく、また、
二月二日の小田原地震の記述もないことです。
一応念のために、日記からシビアウェザーを拾い出してみると、
2月21日(西暦1853年3月30日) 雨天、夜大雨
2月22日(西暦1853年3月31日) 朝より昼まで大雨 誠ニ大雨大水出
とあり、珍しい春の大雨となった様子です。
他の史料と突き合わせてみますと、
2月21日 38度、朝よりくもりさむし、八ツ時よりきり雨ふり夕方より雨つよし、夜中終夜ふる【大高氏記録】【水戸】
2月22日 宵より雨ふり終日雨、七ツ半時より止、四ツ時より雨ふり【大高氏記録】【水戸】
昨夜より大雨【二宮尊徳日記】【江戸麻布】
とあって、天気記事がぴったり合い
、嘉永六年の日記に間違いありません。
そこで、この無名の日記に名前をつけましょう。
「嘉永六年 丑 飯泉保太郎日記(つくばみらい市)」となります。
史料価値がぐっと高まったような気がします。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0171.gif)
最後に,この日記は格調高い賀詞で始まり「長作のおおばかやろう」で閉じています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/21/e3/d4843da6cf9a465a78663c06141658a8_s.jpg)
年酒で酔っぱらったのでしょうか。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_happy_s.gif)
人は立派なだけでは生きていけないものなのでしょう。
そうだ
、俺も飲みに行こう。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dododo.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0216.gif)
今度は、手元にある原文書(日記)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/nezumi.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/46/4b/808ffdfa209a5eb8b364beeb94d966e4_s.jpg)
日記には、表紙がなく裏表紙にもなにも書いていません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/sos.gif)
勿論、書いた人は自分が何処で書いたかは分かり切っているために、全く手掛かりが
ないことも間々あります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0138.gif)
ところで、この日記には、土浦、水海道など茨城県の地名が出てきます。
また、日川村、福岡村、田村などの村名が出てきます。これを検索しますと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0a/3b/fc4ec90e116acc762847758f20f725f5_s.jpg)
となり、日記の書かれた場所は「つくばみらい市
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0160.gif)
また、筆者は誰かと言うと巻頭に7人が、年頭の賀詞を書いていますが、
その筆頭の「飯泉保太郎」という人が第一候補だと思います。
曰く
皇家貴主好神仙 別業初開雲漢辺
山出尽如鳴鳳嶺 池成不譲欣龍川
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3b/69/a151ba6049e4e3c45904334c121eed1f_s.jpg)
とあります。上手いかどうかは分かりませんが、韻は踏んでおります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0237.gif)
日記を読み進めて参りますと、「保太郎より村方え年頭罷出る」とか、
「保太郎樋沢二十三夜様え参詣」などとあり、日記の筆者は、飯泉保太郎氏の違いありません。
保太郎氏は店も持っており、土浦藩の特権商人だったような感じです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0224.gif)
それでは、この日記は何時書かれたものでしょうか。
丑年に書かれたことは間違いありませんが、文化文政以降に町人日記
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/book2.gif)
慶応元年、嘉永六年、天保十二年あたりが、有力候補と言えるでしょう。
続いて、日記記述の月の大小をみますと、
1月大、2月小、3月大、4月大、5月小、6月大、7月小、8月大、9月小、10月大、11月小、12月大
となっていまして、嘉永六年と一致しています。
ただ、気懸りなのは、嘉永六年の日記にも関わらずペリー来航
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0036.gif)
二月二日の小田原地震の記述もないことです。
一応念のために、日記からシビアウェザーを拾い出してみると、
2月21日(西暦1853年3月30日) 雨天、夜大雨
2月22日(西暦1853年3月31日) 朝より昼まで大雨 誠ニ大雨大水出
とあり、珍しい春の大雨となった様子です。
他の史料と突き合わせてみますと、
2月21日 38度、朝よりくもりさむし、八ツ時よりきり雨ふり夕方より雨つよし、夜中終夜ふる【大高氏記録】【水戸】
2月22日 宵より雨ふり終日雨、七ツ半時より止、四ツ時より雨ふり【大高氏記録】【水戸】
昨夜より大雨【二宮尊徳日記】【江戸麻布】
とあって、天気記事がぴったり合い
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_love.gif)
そこで、この無名の日記に名前をつけましょう。
「嘉永六年 丑 飯泉保太郎日記(つくばみらい市)」となります。
史料価値がぐっと高まったような気がします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0171.gif)
最後に,この日記は格調高い賀詞で始まり「長作のおおばかやろう」で閉じています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/21/e3/d4843da6cf9a465a78663c06141658a8_s.jpg)
年酒で酔っぱらったのでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_happy_s.gif)
人は立派なだけでは生きていけないものなのでしょう。
そうだ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/light.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dododo.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0216.gif)
私もこの時代の日記を読むのが大好きなんで、発見の一つ一つに共感します。嘉永六年に、確かに書かれたものが、今読まれるなんて素晴らしいことだと思います。
ちなみに、そういった日記は、どのような手段で手にいれるのですか?
ご教授いただければ幸いです。
上京していて、返事が遅くなりました。
原文書は、いつも読む時、新発見がないかワクワクします。(実はいままでには、これと言った発見はありませんでした。)
東京に行けば、史料を集めるために、古本屋によります。また何度か買っていますと、図録が送られてきます。古文書の得意な本屋もあります。また、地方の骨董屋は蔵の中身を丸ごと買い取ったりしますので、あちこちに、お願いをしています。いろいろなオ-クションにも出てきます。
歴史史料に詳しい方や、図書館にお勤めの方などにも頼んで、コピーや写真を撮らせて貰ったりもします。
古文書の収集にはお金もかかりますが、何よりも、情熱と執着が必要な感じがします。
今回は「つくばみらい市」の話題、ありがとうございます
今日、江戸川流域のちょっとした資料を見ていたら「ばかやろう合戦」という記事を見つけました。若者達の集団が向かい合い、相手を罵倒しあう遊びのようなもので、江戸時代にもあったのだそうです。結構ひどい言い合いをしてます
もしかしたらこの日記が書かれた辺りでもそんな遊びがあって、酔っ払った時に、若者気分に戻って書き付けたのかもしれませんね。
日記 イズ フリーダム
お元気そうで何よりです。
「ばかやろう合戦」面白そうですね。
パソコンでも時々やってますよね~
茨城県の日記とは縁があるようで、今は「築西市」の日記データを入力しています。
茨城県は、日記好きで、まじめな県民性なのでしょうか。大高氏日記も水戸でしたよね。
いつか、水戸にも行ってみたいですし、袋田の滝も見てみたいと思っています。
ああ~早く隠居したいです。