ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

山本覚馬と「八重の桜」 前編

2013-01-06 | Weblog
NHK大河ドラマ「八重の桜」第1回放映は今晩です。楽しみですね。2013年初春からはじまる、と知ったのはずいぶん前でした。NHK公式発表より早かった。
 このドラマは前半が会津、後半が京都になるのでしょうが、会津出身者で京都在住の佐藤さんがおられます。福島県では「佐藤さあ~ん」と叫べば、何人もが「はあ~い」と返事するほど佐藤姓が多い。県知事は現在も前も佐藤さんですね。
 大河決定の朗報はまず京都の会津人の佐藤さんにお知らせしました。幕末京都の会津藩士、戊辰戦争の会津城下。とてつもない苦難を強いられたのが会津人でした。
 そして3・11、福島県民は再度の大難に毅然と向かっておられる。「八重の桜」はそのような東北人に贈るエールでもあるのでしょう。

 主人公の新島八重は旧姓山本、兄は会津藩大砲術頭取で、藩校日新館・洋学所教授の山本覚馬です。幕末に佐久間象山、勝海舟、西周たちとも交わった人物。番組では、これまで知られることの少なかった覚馬にも焦点が合わせられるようなのでうれしいですね。彼こそは明治期の京都を救った近代最大の恩人です。
 昭和3年に同志社が出版した『山本覺馬』(山霞村編著)はその後、昭和51年に『改訂増補 山本覺馬傳』(京都ライトハウス刊)として再版されました。同書から「結論 京都の恩人」をダイジェストで紹介します。
 1868年(慶応4年~明治元年)、鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争で京は荒廃してしまった。そして翌明治2年には東京遷都。人口も激減してしまった京都の衰亡は見るも無残な姿であった。

 天はこれをあわれみ、京都の頽廃を救うため一偉人をつかわした。わが山本覚馬翁こそ、その人である。翁はもともと会津藩の一武人であって、何ら京都とは因縁がなかった。明治新都が東京に移ると、当時の偉材は争って東京に行った。覚馬翁も、もし身体が強健で持病がなければ、あるいは先輩同輩と同じように、永久に京洛の地に別離を告げたかも知れなかった。……
 たまたま翁は(薩摩藩京都藩邸での)幽囚二年の獄中生活の結果、治療できなかった眼病と脚疾のため、雄飛の機会を失ったのは翁のためには不幸であったが、京都府のためには得がたい幸せであった(覚馬は失明と脊髄損傷の病苦を背負っていた)
 やがて府県制発布、地方自治の新制とともに、京都はさらに一人の材を得た。後の府知事、槇村正直氏である。東京遷都により衰微していた京都は、これらの先覚者によって、雄々しくも新興の道を進むことができた。
 翁は当時の京都府参事であった槇村正直と意気投合し、懇願されて京都府顧問となり、互いに助け合って新時代に対処する府是を定め、万難を排してまい進した。すなわち産業振興、教育普及を目標としたのである。(西陣機業の危機を救い、博覧会の開催、興業場の開設。運輸、交通、商業、工業に新文明を導入し、その手際と成果には中央政府も呆然とした。また府民教育、女子教育の制度を完備。そして新島譲を助けて同志社を設立……)
 京都府顧問、そして府議会議長、商工会議所会頭に挙げられて、商業機関の発達に努めたことなど、翁が六十余年の生涯中、会津藩の一武人として壮年時代国事に奔走した以外は、すべて京都のために尽力し、忠実な一市民として、また時代の先覚者として、老いて閑居の後も、なおかつ、後進を誘導激励されたのであった。
 考えてみるに明治初年の京都は、翁の精神、思想、抱負、経綸の権化ともいえ、翁の功績は京都府の事跡と相反映して、二つであって一つであるといっても決して過言ではないと考えられる。
 京都がひとたびは戊申の兵乱にあい、二たびは遷都の悲運に会い、意気消沈し、すべてのことがくずれて二度と往時の姿を見ることができないかとも思われたとき、翁のような卓抜な識見をもち、不橈不屈の偉材を得たことは全く幸運なことで、そのため時代の潮流に先駆し、新文明を巧みに取り入れ今日の繁栄を得たのは当然のことということができる。……
 滅びようとする京都は翁によって救われた。翁は誠に京都再生の大恩人であると称賛することも決して過褒のことではない。……
<2013年1月6日 続く 南浦邦仁記>

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