昭和29年9月26日(1954)のこと、台風15号直撃のため青函連絡船の洞爺丸が転覆した。死者は1100人をこえる日本艱難史上最悪の惨事になった。
事故の数日後、作家の木村毅は新潟日報に寄稿し、タイタニック事故をひきあいに、醜名を世界にさらした日本人として細野正文のことをとりあげた。当時、正文は故人で次男の細野日出男は「事実に反する」と反論した。
そして数度にわたる両者のやりとりを読んだ一読者の声「タイタニック号遭難の実相」が、同紙に掲載された。寄稿者は長岡市在住の長尾政之助(当時74歳)である。以下引用。
1912年5月(事故の翌月)だったと思いますが、私がスタンフォード大学に在学中のことです。ちょうど、家兄の不幸で、一時帰朝するため、サンフランシスコにまいったとき、細野というタイタニック号で助かった、ご本人の話があるというので、当時、サンフランシスコの日米新聞社長、安孫子久太郎氏のお供をして、日本人経営の小川ホテルに行き、親しく実際の話を承わりました。
世界一を誇った巨船タイタニックも、いよいよ最期という場面、ボートを争って押し合い、混乱する人びとをおさえ、甲板の舷側には、船員がロープを張り、中央に立った船長はピストルを擬して、「婦人と子供だけはボートに乗れ、他は一切ならぬ」と厳命した。細野氏はいつのまにか、押され押されて、このロープのいちばん端に来ていた。そのとき、ボートから「ツー・モーア」(もう二人!)と呼ぶ声があり、その声とともに、ひとりの男がとびこんだ。瞬間「ジス・ボーイ」(この男)と、背後から細野氏を、ほとんど押し落とすかのごとくに突きだすものがあり、細野氏も無我夢中で、ボートにとびおり、それで助かったということだった。…
なお、私の申し上げたいことは、翌々朝のサンフランシスコ・クロニクル紙は「ラッキー・ジャパニーズ・ボーイ」(幸運の日本人)の見出しで書き立て、祝福してくれたことです。…
私はその年の10月、再渡米して大学に帰り、当時、日本国内で、細野氏が悪口をいわれたことなど、まったく知りませんでした。こんどの新聞(新潟日報1954年10月)を見て、はじめてそれを知った次第です。
細野正文の汚名は、この寄稿文で晴れたと、わたしは思います。アメリカで非難されたのではなく、幸運な日本人としてマスコミに祝福されたのです。やましい行為がもしあったなら、アメリカ人は祝ってなどくれません。事故のわずか1ヶ月ほど後のことです。ボートの同乗者という証人も、全員が健在だったのですから。
ところで、タイタニックはたびたび映画化されています。レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの映画「タイタニック」(ジェームズ・キャメロン監督)が有名ですが、先日、別のDVDをみました。「ザ・タイタニック 運命の航海」。1996年のアメリカTV映画で監督はロバート・リーマン。
この映画でスミス船長はこう語りました。新聞が書いた「神でさえこの船は沈められまいと。船名の由来は神に戦いを挑んだタイタン、思い上がりだ。彼らは地獄へ落とされた。」
参考 『海の奇談』庄司浅水著 昭和36年 現代教養文庫
<2012年6月2日 南浦邦仁>